三十二 義経と為朝
「笛の音か」
政子はつぶやいた。
闇の中、彼方より聞こえてくる笛の音。
風の陰影をより深く刻むように流れるそれは、一同の動きを停めた。
深夜である。あたりに人の気配はない。
近隣の屋敷から漏れ出でた音、というわけでも、ない。
「なんだ、
恐ろしい可能性を口にしながら、為朝は喜々として
顔に恐怖の色は微塵もない。
化物の来訪を、むしろ歓迎する様子だ。
「嬉しそうじゃな、為朝よ」
あきれまじりに政子が言うと、為朝はにやりと笑う。
「人はともかく、化物なんぞめったに斬れるもんじゃねえからな。ここらでおれさまの伝説に、もうひとつふたつ、箔をつけとくのも悪かねえと思ってな」
その、底抜けた物言いに。
政子は堪え切れずくつくつと笑いだした。
「あきれたものだ。さすがは鎮西八郎。わしが見込んだ
「かかっ! おれさまの配下になるんなら今のうちだぞ?」
「たわけ。是が非でもわしの配下にしてやるわ」
もはや化物など眼中にないとでも言うように、橋の上で言葉を交わす二人。
藤九郎や従者たちは感心するやらあきれるやらで、化物への恐怖心もどこかへ行ってしまった。
だが、笛の音は近づいてくる。
橋の中央、従者の掲げるかがり火に吸い寄せられるように、刻一刻と。
そしてついに。笛の音の主が、闇の帳の奥から、灯明の下に足を踏み入れた。
「……
為朝が油断なく目を細めた。
龍笛を奏でながら歩いて来るのは、
「
政子が首を横に振った。
たしかに、見た目は幼い少女だ。
だが、このような時間に、身を守るすべのない幼い少女が外出するなど自殺行為だ。
ありえない。
あってはならない。
だからこそ、恐ろしい。
この童女には、夜を恐れない理由があるに違いない。
たとえばそれは、童女が夜の恐怖そのもの――化物であるとか……
政子は目の前の童女が、見た目通りの存在ではないと確信している。
だから政子は呼びかける。女の童に向かって。
「そうであろう?
ぴたり、笛の音が止んだ。
女の童が市女傘の覆いをたくし上げて。
覆いの下から現れたのは、まだ幼さの残る少年――牛若丸こと
「……おぬしか」
「わしよ」
義経が目を眇め、政子は胸を張る。
面識のある藤九郎が警戒を解くと、従者たちもそれに倣った。
「こんな夜更けに何故こんな場所に来た? 化物退治か?」
「たわけ、おれに化物を倒す武勇も
「ほう? 分をわきまえたものだ。わざわざ夜中に笛を吹き鳴らして来るものだから、どこの化物かと思ったぞ」
「……ただの盗賊避けだ。が、貴様やはり喧嘩を売ってるな?」
「心配するな! そのようなつもりは微塵もないぞ!」
子ども同士の非常に心温まるじゃれあいに、一同、しばしあっけにとられて。
「魔王娘、そやつは何者だ?」
毒気を抜かれたような表情で為朝が尋ねる。
「源義朝が九郎よ」
政子が端的に答えると、為朝はなるほど、とうなずいた。
「こら、勝手にわけの分らぬ者に訳の分らぬ素性で紹介するな!」
「訳の分らぬ者とは聞き捨てならねえな。おい小僧、おれさまは――」
「昨今うわさになっておろう? 五条の橋の刀狩りよ」
面白がって政子がそんな紹介をすると。
「むっ!?」
義経は瞬間的に全力で身構え――それから脱力した。
その変化を見て、為朝が面白そうに口の端をつり上げた。
「ふむ、小僧。なぜ構えを解いた」
「……勝てんと思った。だからいつでも不意を衝いて逃げられるよう、力を抜いた」
為朝に命を握られていることがわかっているのだろう。
額に脂汗を浮かべながら、義経は素直に答えた。
実力差は、馬鹿らしいほどに圧倒的。
為朝のほんの気まぐれで、義経は殺される。逃れることすら難しい。
だが、それでも。己の生をあきらめず、わずかな奇跡を手放そうとしない。
――なかなかどうして。童の義経もいっぱしの
政子が感心していると、為朝が「ふむ」と唸る。
「……魔王娘」
「なんじゃ?」
「お主が目をかけておるのだ。こやつ、ただ者ではあるまい?」
「ああ。将来は我が
「なっ!? おおおぬしまだそんなことを――」
政子の言い方が悪かったのか、義経が顔を真っ赤にして盛大にどもる。
そんな義経を見ながら、為朝はふむ、とうなずき。
「なるほどな、おい、魔王娘」
「なんだ」
「決めたぞ! こやつ、おれさまが鍛えてやろう!」
「ふむ?」
「暇つぶしに刀狩りをしておったが、それも飽いた。未来の知恵を持つお主の目に適う逸材なら鍛えがいがあるだろう! あわよくばおれさまの配下にしてやってもいいしな!」
「なっ! そやつはわしのだぞ!」
「かっかっか! 早い者勝ちというものだ! ほら、坊主、おれさまが貴様を鍛えてやるぞ!」
「ちょ、おま、こっちも――そもそも何者じゃ!?」
政子の告白めいた所有宣言と為朝の一方的な宣言に、顔を七色に変色させる義経。
「おれさまか? おれさまは、鬼……ふむ、最強の武芸者、
「まてい!? どっかで聞いたような偽名を使うでない!?」
「偽名? いま偽名って言ったか?」
「ええい、細かいことはどうでもいい! 行くぞ小僧! おれさまが源氏の武のなんたるかを教えてやる!」
「うわあっ!? 放せっ!?」
「こりゃ! 為朝! そやつはわしのじゃからなっ!」
義経を抱え上げる為朝と、奪い返そうとぴょんぴょんとびはねる政子。
月夜の五条橋にあらわれた珍妙な光景に、藤九郎は深くため息をついた。
◆
鬼一法眼……陰陽師だったり鞍馬天狗だったりする人。義経の師。
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