三十 藤九郎の憂鬱
京の都、左京八条にある八条院御所。
その一角にある長屋の片隅で、
「――ため息が恨みがましいぞ、藤九郎」
すかさず、幼い非難の声が飛んでくる。
藤九郎は困り顔を誤魔化すように、頭をかいた。
たしかに。
いまのため息は、いまの自分の状況を嘆くものであり、その元凶たるこの幼女への当てつけの意味合いがなかったとは言えない。
しかし、そんなことは口が裂けても言えない。
なにしろこの幼女――北条政子は、何をどう間違ったのか、皇族中の皇族、八条院・
藤九郎自身は、だからといってこの問題娘に媚びるつもりなどないのだが、それも時と場合による。
室内とはいえ、ここは八条院の敷地内だ。
どこで誰が聞き耳を立てているか分からない。
うっかり家中の人間に睨まれるのは御免である。
まかり間違って八条院に睨まれなどすれば、嫁の実家である
だから、藤九郎は知らんぷりして誤魔化すしかない。
「いやいやぁ、気のせいでしょう」
「デアルカ」
多少無理があったが、政子はこだわった風もなく、あっさりと流した。
ほっと胸をなでおろしながら、藤九郎は思う。
正直、この幼女自身には、あまり不満は無い。
問題ばかり起こす破天荒な娘ではあるが、起こす問題が規格外過ぎて、いっそすがすがしい。
時には尻拭いもせねばならぬが、いまの自分の役どころも、それほど悪いもんじゃないと思っている。
だが、今現在、自分が置かれている状況に限っては、不満しかない。
なにしろこの数ヶ月というもの、藤九郎は延々と八条院所蔵の書物の複写を強いられているのだ。
「……しかし政子殿。いったいわしはぁ、いつまで写本を続けにゃならんのですか?」
「うみゅ、左様……八条院にあるめぼしい書物を全部写し終えるまでじゃな」
「ぜ、全部ぅ!? 無茶言わんで下さい! 牛車何乗分んぁあると思っとるんですか!?」
藤九郎は悲鳴を上げた。
とんでもない無茶ぶりだ。
「――だいたいぃ、なんでわしひとりでやらにゃぁならんのですか!?」
「仕方なかろう! わしにそんな暇はない! “皇女の猶子にふさわしい立ち居振る舞い”とやらを仕込む、などという名目で、このところ八条院におもちゃにされっぱなしなのだ!」
政子が自棄のような叫びを返す。
屋敷の者の耳に入れば不都合しか起きないような暴言だが、実態としては正しい。
この破天荒娘が、よくおとなしく他人のおもちゃでいるものだと思うが、彼女曰く「性格がお濃そっくりでどうもやりにくい」らしい。
お濃という人物が誰なのか、残念ながら藤九郎は知らないが、乳母か実母か、とにかく彼女にとって頭の上がらない人物であろうと、藤九郎はあたりをつけている。
「それで
「お主な……気散じに来ておるのに、写本などよけいに気が塞ぐわ」
その気が塞ぐ作業を藤九郎は延々強いられているのだが、政子はそのあたりを
「――かといって、わしの家来では、難解な書物は誤読しまくりでまともに写せぬわ。ある程度はやらせてみたが、もはやついて来れぬ」
「まあ、あいつらならそうでしょうなぁ……」
政子の家来たちは、最近はましになったものの、元はまともに漢字も書けない典型的な
一方、頼朝の家人として庶務に当たっている藤九郎の実務能力は高い。それなりに教養もある。この際はそれが災いしてるのだが。
「……そもそも、これほどの量のぉ写本を、政子殿はどうするおつもりで?」
「知れておろう。北条郷に送るのだ。向こうでは教材が不足しておるからな」
「教材っつっても、
家政組織としては、教育の
まあ、政子が八条院の猶子となった今、北条一族を引き上げるためには、これくらいの教養があってもいいのかもしれない。
だから、先の言葉は半ば冗談だったのだが。
「ま、そのようなものだ!」
真っ向から肯定されて、藤九郎はぽかんと口をあけて――頭を抱えた。
そうだ。
この娘、見た目こそ幼女だが、
おまけに日本屈指の資産家であり、有力皇族でもある八条院のお気に入り。本気で厄すぎる。
「……まったく、為朝様が魔王娘と呼ぶのもうなずけるってぇもんだ」
ぼそりとつぶやいたのが耳に入ったのか、政子は覇気全開で胸を張る。
「その呼び名もなかなかよいものだな! わしとしては第六天魔王も捨てがたいが……」
「どっちにしろぉ、ろくでもねぇ呼び名ですな」
「わしは気に入っておる!」
口の端を不敵に曲げ、胸を反らす政子。
いったいどんな風に育てばこのような娘ができあがるのか、藤九郎は不思議で仕方ない。
宮中では政子がどこぞの
この覇気あふれまくっている娘が、官位も持たない地方豪族の娘だと言われても、そっちのほうが信じられない。
「そういやぁ、魔王ってぇいえば」
と、藤九郎は小耳に挟んだ都のうわさ話を思い出した。
「――最近、怨霊のうわさが立ってるらしいですなぁ。なんでも配流先で身罷られた
話を聞いて、政子が身を乗り出した。
「ほほう。讃岐院……
うわさの原因は政子本人なのだが、残念ながらそれを知る者はどこにも居ない。
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