二十八 商人

 政子にとって、義経との別れ方は極めて不本意だった。

 不機嫌を隠さない政子から放たれるオーラは周辺から人の姿をかき消した。商売人たちは災難である。



「うむむ」


「おい、小娘――政子殿。いくらぁ唸っても仕方ないぞぉ。な、もう帰ろう?」



 なだめる藤九郎の声を聞き流していると。



「――もし」



 ふいに、声をかけられた。


 聞き覚えのない声だ。

 物理的な圧力さえ感じるオーラの渦中である。

 藤九郎が驚いて振り向いたのを見て、政子もそちらに目をやった。


 年のころ四十ばかりかと思える男が立っていた。

 萎烏帽子に直垂姿の、小ざっぱりとした格好で、柔和な面持ちの主だ。



「ぬしは」


「手前吉次きちじと申します商人でございます。三条に店を構えておりまして……」



 ――こやつ、なまりを消しておるな。



 不自然なまでに、言葉になまりがない。

 さりとて京言葉に染まっているわけでもなく、生国定かならぬ怪しさがある。


 同様に感じているのか、藤九郎がわずかに身構える。

 が、吉次と名乗った男は無警戒な様子。



 ――知らぬふりをしているとすれば、よほどの狸じゃな。



「その吉次が、なぜわしに声をかけた」


「私は商人あきうどでございますれば、先ほどまでのあなた様の様子をみて、これは尋常の方ではない。是非お近づきになりたいと、無作法ながら声を掛けさせていただいた次第で」


「ふむ」



 筋は通っている。

 いや、通っていなくとも、政子はすでにこの男の怪しさと無謀な商売根性を気に入ってしまっている。



「気に入った」



 にやり、と笑って政子は言う。



「――今度屋敷を訪ねてまいれ」


「ありがたきことで……どちらの御屋敷を訪ねさせていただけばよろしいのでしょう?」


「八条院御所の北条政子を訪ねるがよい」



 政子が言うと、吉次は「ほう」と軽く驚いてみせる。



「あなた様があの……」


「あの? わしはなにやら噂になっておるのか?」


「……なってないはず無いだろぉよ、この歩く天変地異が」


「聞こえておるぞ藤九郎」



 小声で毒を吐いた藤九郎をにらみつける。



「ええ。私商人としてお公家さま方とお話しすることも少なくなく、その中でも八条院さまお気に入りの娘の話題となれば、様々な方からお噂を耳にいたします」


「公家の間でもうわさになっておるのか……」


「まあそうだろうよ」


「藤九郎うるちゃいぞ――シテ、どのような噂ぞ?」



 藤九郎に抗議しつつ、政子は吉次に尋ねる。

 すると男は困ったような表情を浮かべて言う。



「それが……このような場所で言うのがはばかられる類のうわさで」


「女官を威圧だけで全員ぶっ倒したりとか、相国入道様に喧嘩売ったりとか」


「……えっ?」



 と、藤九郎の言葉に、吉次は不意を打たれたように目を丸くした。



「い、いえ、そのような噂ではなく、もっと重要で、公表されるまでは言葉にするのをはばかられる……」



 よほど予想外だったのだろう。

 自制の利いた吉次の声が、揺れに揺れている。

 まあ、当世随一の権力者たる平清盛に喧嘩を売ったと聞けば、驚かぬはずもないが。


 ともあれ、政子は吉次の言わんとしているところを察した。

 うわさになっているのは、八条院が政子を猶子に取る件だ。



「ほう、もう漏れておるか」


「左様です」



 物騒極まりない話から軌道修正できて安心したのか、吉次がほう、と小さく息をついた。



「ま、そのような者である。屋敷に来て話でも聞かせよ。商人ならば様々なことが耳に入っておろう」



 京はこの時代唯一の消費型の都市と言っていい。

 加えて国家の中枢であり、富も、人も、物も、全国から集まってくる。むろん情報もだ。



 ――この男、なかなかに情報通らしい。



 と見込んだ政子は、吉次から細かな情報を聞き出そうと決めたのだ。

 むろん、吉次は対価として八条院の情報を商売の種にするのだろうが。



「承知いたしました。近いうちに必ずお訪ねいたします」



 吉次が腰を折るようにして頭を下げる。

 そして、こそりと藤九郎に近づき、なにやら大きめの香袋のようなものを捧げた。



「これは、お近づきのしるしに」


「うみゅ」



 政子がうなずくと、藤九郎は香袋を受け取る。

 その手がわずかに下ったのを、政子は見逃さなかった。



「それでは……」



 と、吉次は背を見せずに退がってゆく。

 入れ替わりに、散っていた人が戻りだす。

 人の波に隠れて、吉次の姿は消え去った。



「藤九郎」



 戻ってきた人込みのなかにぽかりと空白地帯を作りながら、政子は藤九郎に目を向ける。



「――その香袋、重いな?」


「あ、ああ。見た目より重くてつい手ぇ下げちまった。不覚だぁな」



 あたまをかくと、藤九郎は袋を紐解きはじめた。

 政子も中身が気になったが、政子の身長では背伸びしても袋の中身が見える高さに届かない。



「なんだこれ、なんかの塊――」



 言いさして、藤九郎は固まった。



「どうした藤九郎。もったいぶらずに見せよ」


「あ、いやぁ……見てくれ、政子殿」



 動揺を隠せない様子で、藤九郎が政子に袋の中身を見せる。



「……ほう、これは金じゃな。金塊じゃ」



 藤九郎がこそりと見せたのは、いびつな形をした金塊だった。しかも大きい。政子の手では握りこめない大きさだ。



「天然ものじゃな。砂金採りをやっていると、まれに巨大な金塊が混じるというが……なるほど、きゃつの名は吉次と言ったか……デアルカ。くっくっく」



 気づいて、政子は笑い出した。

 放たれる魔王オーラに、戻ってきた人の波がまた引いて行く。



「――金売り吉次」



 源平の物語に登場する人物だ。

 奥州の商人で、義経を奥州の主、藤原秀衡ふじわらのひでひらと引き合わせた逸話を持っている。



「……義経と会うた後に顔を合わせるとは、また気が利いたことよ。くっくっく……くっくっく……ふはははははっ!」



 近ごろ都では新たな怨霊のうわさが、まことしやかに語られている。






崇徳院「解せぬ」






金売り吉次……奥州の商人。大河ドラマによく出てくる。

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