二十六 童子
伊豆国北条郷、北条時政の屋敷。
その庭先では、政子の兄、北条宗時が、西の空をあおいで深いため息をついている。
「政子のやつ、致命的なやらかしをやってないだろうな……」
とにかく無道無法な妹のことだ。
やんごとなき身分の方々相手にも、当たり前のように無礼を働いているに違いない。
万一不興を買えば、北条ごとき木っ端豪族など消し飛んでしまうのだ。宗時としては、祈るような思いで経を読むしかない。
そんな宗時に対して、父の北条時政は楽観的だ。
「がはは、息子よ、なにを心配しておるか! 八条院と直にコネができればおいしい思いし放題ではないか!」
「……父上は気楽でいいですね」
甘すぎる未来図を思い描いている父に、宗時はため息を落とす。
その背後で、天を衝くような巨漢――源為朝が「かかっ」と笑い声をあげた。
「まあ、面白い事になってるに違いない……かかっ。土産話が楽しみだぜ!」
「あなたは……ちょっとは自重して身を隠しておいて下さいよ。逃亡した流人なんですから」
宗時が自重しない客分に抗議していると、彼方より馬が駆けてきた。
馬上の主は源頼朝だ。
伊豆に流された貴人で、政子を京に送り出す手伝いをした張本人である。
そんな人間が、蒼い顔をして駆けてくる。
もうこの時点で、宗時は嫌な予感しかしない。
「八条院より……手紙です」
猛烈に嫌な予感。
頼朝は口にするのも面倒だとばかり、ばっ、と手紙を開く。
可能なら読みたくなかったが、目が勝手に内容を理解してしまう。
――政子ちゃんうちの猶子にするでー。
宗時はぶっ倒れた。
時政もぶっ倒れた。
さもありなん。太陽が西から昇る級にあり得ない事態だ。
「かかっ、予想以上だぜあの小娘!」
源為朝はひとり豪快に笑っている。
◆
「っくしゅん!」
「どうした小娘――政子殿。風邪か?」
にぎやかな市のどまん中。
政子がくしゃみをしたのを、藤九郎が見とがめた。
「さて、
「ははあ、さては誰かがうわさしたか」
藤九郎の言葉に、政子は「ふむ」とうなずいた。
「誰ぞにうわさされるなぞ、慣れたものじゃわ」
「京に上ってからもやりたい放題だものなあ……」
皇族相手に好き放題の口をきいたり、平清盛相手に無礼しまくったり、最近では八条院の蔵書を家来に無理やり写本させたり。まさにやりたい放題である。
思い返しながら黄昏ている藤九郎とは対照的に、政子は得意げだ。
「しかし……うむ。あらためて思うが……ろくなものがないのう」
「いや、唐渡りの絹や薬や陶磁器の類……手は出ねえがいろいろいい品があるじゃないか」
「いや、まあ……青磁はいい。それは評価する。宋代の一番よいときのものだ。
政子は微妙な顔をした。
なにせ400年も前のものだ。信長の目からみればどうにも古臭くてしかたない。
かわりに
「お前――政子殿、どこでそんな
「ふふん。なかなかであろう?」
などと言葉を交わしながら、市を冷やかしていると。
遠くの方で、なにやら争う声が聞こえてきた。
「ふむ?」
見やるが、政子の身長では通行人が邪魔してわからない。
「藤九郎」
「ふむ。どうも子どもが性質の悪い連中に絡まれているらしい」
「子どもか」
「ああ。身なりがいい。どこぞの貴族の子どもか」
「ほう」
興味をそそられた政子は、
野次馬を魔王オーラで蹴散らしながら、政子が人だかりを開いて進んでいくと、見えた。
なるほど、身なりのよい少年と、一見してごろつきか無頼者かといった風体の男たちが対峙している。
「ほう、多勢に無勢にもひるまぬか。なかなかの肝じゃな」
そう褒めた少年もごろつきも、もはやおたがいよりは突然現れた魔王めいたオーラの主を全力で警戒しているのだが、政子は気にしない。
「主は何者だ!?」
「北条政子」
恐れげなく
北条政子の名は、京の庶民にあってはまだなんの意味も持たない。しかし、常人ならざる気格を持つ幼女が凄まじい威圧とともに名のる。その行為自体が、常人にとってはもはや攻撃に等しい衝撃だ。
だが、少年の瞳は揺るがない。
ごろつきたちは、少女の興味が少年に向けられているのを幸い、ほうほうのていで逃げ出しているのだが、政子はすでにそちらには興味を失っている。
――お蘭に似ている……いや、その兄に、か。
小姓であった森蘭丸やその兄――
「
「貴様も童ではないか」
負けん気の強そうな口を引き結びながら、少年は名乗った。
「
その名は、政子を驚かせるに十分な破壊力を持っていた。
◆
牛若丸……後の源義経。源平時代のスーパー問題児。
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