二 夢幻の続き
保元二年(1157年)。
伊豆国の豪族、北条時政に一人の女子が誕生した。
――どうやら、尋常の子ではない。
そんなうわさが、すでに一族の間でささやかれている。
生まれてすぐ目を開いていた、だの、瘴気を帯びていた、だの、根拠には事欠かない。
第六天魔王、織田信長の生まれ変わり。
それも、人格をそのままに保っているのだから、まともでないのは当たり前なのだが、さすがに真実にたどりつける人間など居ない。
「……ばぶ、ばぶ」
むつきに包まれながら、信長は考える。
耳に入る雑多なうわさ話から、自分が400年も昔――源平の世に生まれたことは間違いない。
そして父の名は北条時政。
その
北条政子といえば、鎌倉幕府をひらいた征夷大将軍、
――くっくっく。
「きゃっきゃっ」と赤子は笑う。
なるほど、第六天魔王の生まれ変わり先として、不足のない人間ではないか。
――だが、北条政子がわしである以上、そうはならぬ。
うなずきながらも、赤子は「だぁ!」とかぶりを振る。
織田信長ともあろう者が、人の後ろに立つというのは、いかにも気に入らない未来図だ。
だから。
全力で魔王オーラを放ちながら「ばぶぅ!」と宣言する。
――どうせならば、頼朝に先んじて、わし自らが天下人となろうぞ!
どう考えても不可能な決心を胸に、赤子は笑う。
野望に目をぎらつかせる乳幼児に、侍女たちはひたすらにおびえていた。
◆
決意の日より半年が過ぎた。
その間、信長は天下取りに向けての動きを、なに一つ出来ずにいる。
はいはいを覚え、つかまり立ちしはじめ、そしてよちよちと歩けるようになったとはいえ、赤ん坊なのだから当たり前である。
――退屈でたまらぬわ。
「ちゃいくつでちゃまらぬわ」
自由に出歩くことさえできず、屋敷の一室に寝かされて、信長は片言で不満を口にすることしかできない。
――源平の合戦まで、あと何年であろうか。
だから、信長は考える。
貴族の世から武家の世になる、この時代について。そして、天下取りについて。
上皇が政治を取り行う、院政の時代。
武家の身が、栄耀栄華を極めた平家の時代。
そして、源氏と平家が争う天下の大戦、源平合戦。
時代は流血を伴って、大きく移っていく。
信長=北条政子が、自らの手で天下をつかむ機会があるとすれば、源平合戦に便乗するしかない。
――それまでに、力を蓄える。
並のことではない。
なにしろ北条政子は女だ。
しかも父親はど田舎の小豪族。無位無官のおまけつきだ。
信長の知る戦国の世に比べて、朝廷の力がはるかに強いこの時代、それは天下人への道の、絶望的な障害となるだろう。
――くっくっく……卑賎の身よりの立身出世。しかも天下人と成れば、
秀吉は後に天下人となっているのだが、死後のことなのでわかるはずがない。
それでこそやりがいがある、と、信長は笑う。
「きゅきゅきゅ……」
「ひいっ!? 姫さま! どうか! どうかご機嫌をお直しになって下さいませ!」
笑っているにもかかわらず、侍女たちは悲鳴をあげた。
舌が回らないのと魔王オーラのせいで、まともに会話も成立せず、信長はいまだに、この時代の情報をまともに得ていない。
でも第六天魔王はくじけない。
「うちの姫さん、ありゃあただもんじゃねえぜ」
「ああ。生まれた時からはっきりと目を開いてたっていうし、なにやら恐ろしげな……」
「あの眼を見たか? 戦場往来の古つわものだってあんな眼光してねえぞ」
「それよりも、なにやら憑き物めいた異様な気配。近づいただけでちびっちまうぜ……」
北条家に奇妙な娘が生まれた、といううわさは、すでに伊豆国中に伝わっている。
◆
さて、信長=政子も満二歳になった。
動きは活発になり、早々に侍女たちの手には負えなくなってしまった。
彼女たちのかわりに政子の面倒を見始めたのが、三つ年上の長兄、
「政子。ぼくの言うことをしっかり聞くんだぞ」
当たり前だが、完全に年下扱いだ。
家族ゆえか、政子に遠慮もない。政子が外に出ようとすると、襟首つかんで止めてしまう。
遊びの場を屋敷内に限定されて、政子は退屈でたまらない。
というか、近辺の地理を把握するにも、うわさをかき集めて都の情勢を知るにも、外に出なくては始まらない。
「あにじゃよ。外に出たい。連れて行ってくれにゅか」
「駄目だ」
頼んでも、宗時は首を縦に振らない。
「にゃにゆえか」
不機嫌を隠さず、魔王オーラを放射しながら問う。
子どもゆえの命知らずか、宗時にさしたる動揺はない。
年に似合わず分別めいた表情を浮かべて、少年は政子に言い聞かせる。
「いいか、政子。お前はまだ幼い。
避けます。
という、宗時にとって哀しい事実はさておき。
「ならば、あにじゃよ。わしに聞かせるにょだ。おとなのうわさを。そして都のうわさを」
「まあ、それくらいはしてやるけどさ。政子は、妙なことに興味があるんだな」
「当然よ」
政子は口の端を曲げて笑い、答える。
「わしは天下を取る。取らねばならにゅのだからにゃ」
「……なら、僕もそのお手伝いをしてやろうか」
宗時は笑って引き受けた。
妹の遊びにつきあってやる、程度の気安さだったのだろう。
妹が心底本気であり、かつその能力もある、などとは、思いもしなかったに違いない。
後悔先に立たず、である。
◆
北条宗時……北条時政の長男。政子の兄。史実では頼朝挙兵後間もなくの合戦で死亡。
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