初夢

「――ください、お兄様」


 ……声がする。聞き慣れた義妹の声だ。


「起きてください、お兄様。もう朝ですよ?」


 不思議だ。普段の舞華なら俺の心を木端微塵にせんばかりの罵倒をしてくるくせに、今はそれがない。いったいどういうことだ?


 眠気でぼんやりとする頭で、この状況に対して疑問を覚えた。


「お兄様、いい加減起きてください。これ以上眠るようなら――」


 何をするつもりだ? まさか、叩き起こしたりでもするつもりか? もしそうなら、さっさと起きるか。ここで舞華を怒らせてもいいことは何もないからな。


 俺は眠気を払って起きることにするが、


「――キスしちゃいますよ?」


「…………⁉」


 舞華のとんでもない発言で、眠気など一瞬で吹き飛び目が覚めた。


 しかし目を覚ました俺の視界に飛び込んできたのは、いつもの見慣れた自室ではなかった。かといって舞華の部屋というわけでもない。初めて見る場所だ。


「ど、どこだよここ……?」


「私とお兄様の愛の巣です」


 全然答えになってない。ダメだ。多分こいつに訊いても答えは出ないだろう。もう自分でどうにかしよう。


 確か昨日はのぼせた親父の介抱をしたこと以外は、特に何もなかったはずだ。親父を部屋に送った後は自室のベッドで寝てたはずだし……。


 改めて周囲を確認してみる。周囲は薄暗く、天井から淡い光を放つ照明以外に光源はない。俺が寝ていたのも、いつものベットではなく固く冷たい床だ。こんな場所で寝た覚えはない。


「ふふふ。お兄様、どうして自分がこんなところにいるのか分からないって顔してますね?」


「……当たり前だろ」


 クスクスと口元に手を当てて笑う舞華に、短く返す。


 しかしそんな俺を気にした様子もなく、舞華は話を続ける。


「あらあら、原因の一端であるお兄様がそんな態度を取るなんて……いけませんねえ」


「ひ……ッ」


 舞華の言葉に妙な凄味を感じ、思わず悲鳴が漏れてしまった。


「今日私は、とてもとても罪作りなお兄様を罰するためにここに連れてきたんですよ? なのに当の本人がそれを理解できてないなんて、私はとても悲しいです」


「つ、罪作り? いったい何のことだよ? 意味が分からねえぞ?」


 普段から理不尽に怒られることはあれど、ここまでのことをされる理由は見当がつかない。


「もうお兄様ってば、本当に分かってないんですね。でも、鎌田澪のこと……と言えば流石に分かりますよね?」


「…………!?」


「その表情……やっぱり分かってるんじゃないですか」


 動揺を露わにした俺に、舞華は呆れたように言う。


「お兄様はここ数日、ずっとあの女のことばかり考えてましたね?」


「そ、それは……」


「ふふふ、別に隠さなくてもいいんですよ? お兄様のことなど、義妹であり妻でもある私には、全てお見通しなのですから」


 さも当然のようにおかしなことを言う義妹。今日の舞華はいつにも増してヤバい。


「ですが、私はお兄様一人が悪いとは言いません。だって私たちは夫婦です。時には間違いも起こるでしょうが、それを許す広い心を持つのが良妻というもの。とはいえ、何事にもケジメは必要ですよね? だから――」


 そこで舞華は俺に背を向け、いつの間にか足元にあった大きめのカバンに手を突っ込む。


 背中越しに覗いてみると何やら両側面の七割近くがギザギザな縦長の物体を取り出したのが見えたが、周囲が薄暗いため、取り出したものが何なのかまでは分からない。


 しかし一つだけ分かっていることがある。それは、舞華がこのタイミングで出すものがまともであるはずがないということ。


 そしてその予測は、次の瞬間には現実として目の前に現れることになる。


「……舞華、何だそれ?」


「何って、ノコギリに決まってるじゃないですか。これを使って、今からお兄様にお仕置きをします」


 にっこりと笑いながら答える舞華。


 思わず息を呑むほどの可愛らしい笑みも、ノコギリ片手だと異様な光景だ。というかホラーだ。


 なるほど、ノコギリを使ってお仕置きか……嫌な予感しかしない!


「あらお兄様、青白い顔をしてますけど大丈夫ですか? どこかお身体の調子が悪いのですか?」


「だ、大丈夫だ。至って健康だから気にするな。……ただその、ノコギリでお仕置きっていうのはやりすぎじゃないかなーと思ってだな……」


「ノコギリはお気に召しませんか?」


 むしろノコギリがお気に召す奴がいるのか?


「私としてはこのノコギリが一番なのですが、お兄様が望むのでしたら別なお仕置きにしましょうか?」


「あ、ああ頼む!」


 別なお仕置きと聞くと空恐ろしいものがあるが、まあノコギリのような切断系よりはマシなはずだ。……できれば鞭みたいなひっぱたく系がいいなあ。後遺症とか残りそうにないし。


「分かりました。ならチェーンソーを持ってきますね」


「ちょっと待て舞華」


「はい? 何ですかお兄様?」


 俺の呼ぶ声に笑顔で応じる舞華。


「あのさ、どうしてノコギリ以外のお仕置きがチェーンソーなんだ? おかしくないか?」


「どこがですか?」


「いやどこがって……」


 真顔で訊かれるとこっちが間違えてるんじゃないかと錯覚するからやめてほしい。


「いやだってさ、ノコギリやチェーンソーでお仕置きとか危ないだろ? 下手すると、大ケガすることになるぞ」


「ふふふ、大丈夫ですよお兄様。ちゃんと止血剤を持ってきているので、お兄様が出血多量で死ぬことはありません」


「……何だって?」


 常軌を逸した発言をする舞華に、思わず聞き返してしまう。


 だがそれも仕方のないことだろう。何せ今の舞華の発言は、まるで出血多量になることを想定してるかのように聞こえるのだから。


「なあ舞華。参考まで聞かせてもらいたいんだけど……お仕置きって具体的に何をするんだ?」


「そうですね。まずはノコギリでお兄様の四肢を切だ――どこに行かれるのですか、お兄様?」


 逃亡を図ろうとした俺の肩を舞華が万力の如し力で掴んでくる。いったいあの華奢な身体のどこから、こんな力を出しているんだ?


「は、放せ! 俺は四肢切断なんて絶対に嫌だからな!」


「今更往生際が悪いですよ、お兄様。別に殺すわけじゃないんですから、もう少し落ち着いてください」


「落ち着けるか!」


 仮にこの状況で落ち着ける奴がいるとしたら、そいつはきっと精神に異常を抱えてるに違いない。


「もう。先程言ったじゃないですか。これはお仕置きだって。このお仕置きは、浮気性のお兄様がもう二度とあの卑しい女のことを考えないようにするためのものなんですから、お兄様の四肢を切断するのは当然のことじゃないですか」


 ドロドロと底なし沼のように濁った瞳で語る舞華。今の彼女ほど『狂気』という単語が相応しい奴もいないだろう。


「いくらお兄様でも、手足がなくなればあの女に会うことは叶いでしょう? ああそれと、切断したお兄様の手足は、ちゃんと防腐処理を施して永久保存させていただきますから安心してください」


 瞳に狂気を宿しながら、舞華は続ける。


「ふふふ、楽しみですねお兄様。手足のなくなったお兄様は、これから私とずっと二人きりで暮らしていくんです。お兄様は毎日私の耳元で愛を囁き、私はお兄様の愛にこの身体と想いで応える。ああ、何と甘美な日々なのでしょう!」


 興奮しながら語る舞華。どう考えても、今のこいつにまともに話が通じるとは思えない。


「そんなバカなこと付き合ってられるか! 俺は帰らせてもらうぞ」


 強引に舞華の手を振りほどき、その場を離れる。今の舞華には、俺が何を言ったところで意味がない。


 だから、頭を冷やしてもらうためにと思い移動しようとしたのだが、


「えい」


「…………!?」


 突如舞華がこの場を離れようとした俺の背に迫り、可愛らしい声と共に俺の首筋に何か細い針のようなものを打ち込んだ。


「いったい何を……!?」と叫ぼうとしたが、なぜか口が動かない。それどころか身体中から力が抜けてしまい、しまいには立つことするできず倒れてしまう。


「どうですか、お兄様? 私の用意した筋弛緩剤は。万が一を想定して用意しておいて正解でした」


 色々とツッコんでやりたいが、口が動かないため言葉を発せない。


「ですがお兄様、今の私はとても悲しいです。まさかこのタイミングでお兄様が逃げるなんて……」


 言葉通り、悲しげに呟く舞華。俺は何も間違ったことは何もしてないはずなのに、罪悪感が湧いてくるから不思議だ。


「本当はお兄様の要望通り、チェーンソーで切断してあげたいですが仕方ありません。筋弛緩剤の効果もそう長くはないので、このままノコギリで切断してしまいましょう」


 言いながら、ノコギリを両手に構える舞華。


「ちょっと痛いかもしれませんが、たっぷりと愛を込めて切断するので我慢してくださいね、お兄様」


 その言葉を最後に、舞華はノコギリを振り下ろす。筋弛緩剤の効果で身体をまともに動かすことのできない俺では、絶対に避けることはできない。


 だが迫るノコギリに恐怖しながらも俺の脳裏は、一つの疑問に支配されていた。


 ――どうして舞華は、当たり前のように俺のことをと呼んでいるのだろう?


 そこまで考えたところで、俺の視界は黒く塗り潰されるのだった。






「……何て夢だ」


 一月一日の午前六時。けたたましい音を響かせる時計で目を覚ました俺は、最悪の気分で口を開いた。


 まさか元旦からあんな恐ろしい夢を見るとは……最悪の初夢だ。怖すぎて冷や汗が止まらない。


「あんな夢は忘れろ、忘れるんだ俺……」


 自分に必死で言い聞かせる俺。自分でも何をやってるんだ? と呆れてしまうが、あの夢はそれほどまでに恐ろしかったのだから仕方ない。


 ――こうして俺は最悪の形で新年を迎えるのだった。

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