風呂
時刻は午後十一時過ぎ。あと一時間もしない内に新年を迎えるであろう時間。
俺は普段より遅めの入浴中だった。
普段の俺なら十時すぎには風呂に入っているのだが、明日が元旦ということもあり、さっきまでおせちの準備をしていて遅くなってしまった。
「ふう……」
湯船に浸かりながら、息を漏らす。
あと少しで今年も終わりかと思うと、感慨深いものがある。
「今年は色々あったなあ……」
振り返ると、本当に色々なことがあった。もしかしたら、俺のこれまでの人生の中で一番濃い一年だったかもしれない。
本当に色々なことがあった。特に、舞華の日記を読んでからの日々は目まぐるしいものだった。しかしその中で最も印象に残ったのは、
「澪……」
やはり澪のことだった。
俺なんかを好きと言ってくれた時の彼女の顔は、今でもしっかりと覚えている。……告白の返事をした後の顔も、俺は忘れてはいない。
家族に心配をかけていると分かっていても、一人になると考えてしまう。悩んでしまう。
『私たちは――家族なんですから』
不意に台所で義母さんがかけてくれた言葉が甦る。
あの時の義母さんの言葉は本当に嬉しかった。ただただ純粋に俺の身を案じてくれた義母さんの優しさが、嬉しくて嬉しくてたまらなかった。
けれど、実際に家族に甘えるのかとなると話は別だ。こんなこと、相談しても迷惑にしかならない。
どうすればいいのか頭を悩ませていると、不意に洗面所の方から物音がした。
いったい誰だろう? 義母さんと舞華はすでに風呂に入り終えた寝ているだろうし、親父は大晦日だからって調子に乗って酒をバカみたいに飲んで、酔い潰れた後俺が部屋に運んだはずだ。
誰なのか気になったので、声をかけてみることにする。
「そこにいるのは誰だ?」
「俺だ!」
返答代わりとでも言わんばかりの勇ましい声と共に、風呂のドアが開いた。そして開いたドアの先にいたのは――全裸の親父だった。
「……何してんだよ、親父」
「お前の目は節穴か? 見ての通り、風呂に入りに来たんだ」
「いや、それは分かってる。俺が訊きたいのは、何で人が入浴中に入ってきたかって話だよ」
「いや何、たまには親子で一緒に風呂でもどうかと思ってな」
「なるほどな。じゃあ俺は先に上がるから、一人で入浴してくれ」
流れるような動作で湯船から上がり親父の横を通り抜けようとした俺だが、
「おいおい慎吾。お前、人の話聞いてたか?」
親父にガッチリと肩を掴まれ、逃げ出すことができない。
「俺はただ、お前と親子水入らずで風呂に入りたいだけなんだよ」
「俺はそれが嫌なんだよ!」
何が悲しくて、大晦日にこんなおっさんと一緒に風呂に入らなくちゃいけないんだ? 何かの罰ゲームか?
「ゴチャゴチャうるさいな。いいから来い!」
「ちょっ、おいやめろ親父! 放せよ!」
何とか抵抗しようとするが、親父の力は予想以上に強くて風呂場まで引きずり込まれてしまった。
――そして数分後には、
「……どうしてこんなことになった」
男二人で湯船に浸かっていた。
ちなみにウチの風呂は一般家庭のものと変わらない、ありふれたものだ。別に特別なところなんてない、普通の風呂だ。
つまり何が言いたいのかというと、
「狭い」
一人ならともかく、二人ともなると狭くて仕方がない。
いったい何で親父は、いきなりこんな奇行に走ったんだ? いくら親父でも何の理由もなくこんなことは……しないとは言い切れないのが悲しいな。親父ってバカだし。
などと考えていると、湯船に入ってから黙っていた親父が口を開く。
「しばらく見ない間に、随分とデカくなったな……」
「親父。そういうセリフは俺の下半身じゃなくて顔を見て言え」
軽く殺意を覚えるから本当にやめてほしい。
「……そんなくだらない話をするなら、もう上がるぞ。いい加減のぼせそうだしな」
「まあ待て。今のはちょっとしたジョークだ。お前に話したいことは他にある」
俺に話? どうせまた頭の悪い話をするつもりじゃないだろうな?
警戒する俺に、親父はいつもより少しトーンを落とした声音で言う。
「慎吾。お前、何か悩んでることがあるんだろ? 霞さんが心配してたぞ」
「…………ッ」
「お前ぐらいの年頃なら悩みの一つや二つは珍しくないから、心配無用だと霞さんには言ったんだけどな。それでも霞さんは心配だって言って聞かないから、俺が相談に乗ってやることにしたんだよ。ったく、霞さんに余計な心配させるな」
「……悪い」
「俺に言ってどうするんだ? そういうのは霞さんにしろ」
親父の容赦ない言葉が胸にグサリとくる。酒を飲んだせいなのか、今の親父は普段と様子が違うように見える。
「で、何を悩んでるんだ? さっさと話せ。霞さんじゃなくて俺なら、いくらか話すのも楽だろ?」
ぶっきらぼうな態度の親父。しかし今の俺には、逆にそちらの方がありがたい。
「……ありがとう、親父」
一度謝意を口にしてから、俺は今抱えている悩み、そしてその原因となった澪の告白のことを話した。
ちなみに、舞華のことは話していない。両親に心配をかけたくないというのもあるが、これに関しては俺が自力で解決すべき問題だと思ったからだ。
「なるほどな……それで、お前はこれからどうしたいんだ?」
話を聞き終えた親父は、開口一番にそう訊ねてきた。
「……澪と前みたいに話せる仲に戻りたい」
「ならそれを本人に言えばいいだろ。それで問題は解決だ」
「……そんな簡単にいくわけないだろ。第一、これは俺のワガママなんだよ」
そう、これは俺の身勝手な願いでしかない。こんな澪の気持ちを考えてない自分勝手な願望、受け入れてもらえるはずがない。
「ワガママだなんて、どうして決めつける?」
しかし親父は、俺の言葉に首を傾げた。
「澪って子が言ったのか? お前と友達に戻るのは無理だって」
「……言ってない」
「なら勝手に決めつけるな。……ったく、そうやって何でもかんでも自己完結するところは、『母さん』そっくりだな」
『母さん』……俺を産んでからすぐに病気で死んでしまった血の繋がった母親。
「『母さん』も今のお前みたいに勝手に悩んで色々と拗らせていたなあ……」
そう言って、どこか遠くを見るように目を細める親父。
親父が『母さん』のことを話すのは珍しい。普段は訊いても中々教えてくれないのに、いったいどういう風の吹き回しだ?
「とりあえず勝手に決めつけないで、ちゃんと話し合ってみろ。少なくとも俺は『母さん』とは、そうしていた。ダメだったら俺がまた相談に乗ってやるよ。だから当たって砕けるつもりでやってみろ!」
「いや、当たって砕けたらダメだろ……」
思わずガクリと肩を落としてしまう。
……でも確かに親父の言う通りだ。先日デパートで会った時も、澪は俺から逃げこそしたが嫌いとは一言も口にしてなかった。
まだ、今の澪が俺をどう思ってるのかなんて分からない。勝手に悩んでた自分がバカみたいに思えてくる。
「……ありがとう親父。俺、頑張ってみるよ」
親父に感謝を告げる。普段は頼りないどころかダメダメな親父だが、これからは少しくらい尊敬してやってもいいかもしれない。
悩みを打ち明けて晴れやかな気持ちになった俺は、風呂を出ようと立ち上がったが、そこで親父が声をかけてくる。
「ところで慎吾、一つ頼みがあるんだが……」
「ん? 何だよ親父?」
「のぼせてしまった。助けてくれ」
「…………」
「やっぱり酒飲んだ後は、風呂に入るもんじゃないな」
ちょっと尊敬しようと思った矢先にこれだ。所詮親父は親父ということか……。
――その後俺は、のぼせたバカ親父を風呂場から引きずり出し、介抱するハメになるのだった。
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