とある少女の初恋

 それは、もう三年も前のことだった。当時の私――糸島藤花は、今のような明るい性格ではなかった。


 今の私しか知らない者が聞けば驚くかもしれないが、当時の私はとても気が弱く、あまり社交的とは言い難い性格だった。


 そんな性格が災いしたのか、当時の私は同じクラスの女子からイジメを受けていた。


 多分気が弱くて友達もいなかった私は、彼女たちからすれば格好の餌食だったのだろう。


 イジメ自体は大したものではなかった。教科書や上履きを隠された程度だ。


 多少陰口を叩かれたりもしたけれど、どうということはない。まともに相手しなければ、その内向こうも飽きるだろう。


 だから私はただ耐え続ければいいだけ。辛くはあるけれど、我慢し続ければ私の勝ちだ。


 当時の私は、そんな楽観的な考えをしていた。


 けれど本当に辛いのは、自分に味方がいないこと。孤独というものがどれほど人の心を蝕むものかを、私はすぐに思い知った。


 先生に相談すれば簡単に解決する問題だったかもしれないけど、できれば大人の手を借りたくはなかった。


 そんなことをすれば、当然大事になる。大事になれば、私の両親も呼び出されてしまうだろう。私は両親にイジメのことを知られるのが嫌だった。


 私の両親は普段は仕事で家を空けることが多い。そのため、基本的に私は家では一人だ。


 一般的家庭と比べたらかなり変わっている。一見すると、私の両親は子供より仕事を優先する冷酷な人間と勘違いしてしまうかもしれないけど、そんなことはない。


 むしろ家族の時間を作れないことを申し訳なく思ってくれる優しい親だ。私もそんな両親が大好きだった。


 たまに家族時間ができると、両親は決まって学校のことを訊いてくる。内容は『学校は楽しいのか』、『友達はできたのか』といった感じだ。


 その度に私は両親を安心させるために嘘を吐いた。両親に事実を知られて悲しませるようなことになるのは避けたかったのだ。


 だから私に取れる選択肢は耐えることだけ。いつまで続くか分からないこの地獄を。


 そんな暗い考えと共に学校に通い続けていた私だが、変化は唐突に訪れた。






 ――それはある日の放課後。ホームルームを終えて帰りの準備をしている時のことだった。


「ねえ糸島さん。少し話があるのですが、いいでしょうか?」


「……別にいいけど」


 イジメの日々に精神を磨り減らしていた私に声をかけてきたのは、クラス委員の甘木さんだった。


 クラスでも人気者の彼女が私なんかに何の用かと思ったけれど、断る理由もなかったので了承することにした。


 すると甘木さんは「ありがとうございます」と言って、私を教室から連れ出した。


 いったいどこに連れていくつもりなのかと思ったけど、答えはすぐに分かった。連れて行かれたのは図書室だった。


 図書室は授業以外で利用したことのない場所。放課後ということもあってか、利用者は見当たらない。


「とりあえず座りましょうか」


 そう言って甘木さんは近くの席についた。私も甘木さんに習って、テーブルを挟んで向かい側の席に座る。


 向かい側に座ると、嫌でも甘木さんと見つめ合うような形になってしまう。正直、甘木さんはとても綺麗だ。


 整った顔立ちと艶やかな黒髪は、同性の私ですら色気を感じてしまう。そこまで考えて少し恥ずかしくなり、思わず顔を逸らす。


 しかし私のそんな気持ちを知るはずもなく、甘木さんは口を開く。


「いきなりこんなところに連れてきてごめんなさい、糸島さん。あなたには訊きたいことがあったの」


「私に訊きたいこと?」


「ええそうです。……単刀直入に訊かせてもらうとしましょう。糸島さん、あなたはクラスメイトからイジメられていますね?」


 わざわざ確認を取ったにしては、確信めいた物言い。


 まあ、同じクラスなのだから気付いていてもおかしくないだろう。私はゆっくりと頷いた。


「……そうですか。先生や親には相談したんですか?」


 私は無言で頭を振る。


「どうして相談しないんですか?」


「それは……」


 何なんだろうこの人? どうしてそんなに私に関わろうとするのだろうか? 私がイジメられているからといって、彼女には何の関係もないはずなのに。


「どうかしましたか? 何か言えない理由があるんですか?」


 訝しむような視線を向けていた私に、甘木さんは重ねて訊ねてきた。その様子から、私が話すまで何度でも同じ質問をするであろうことは容易に想像できた。


 だから私は観念して、彼女に正直に話すことにした。


 どうして大人に相談しないのか。私の両親がどういう人か。そういったことを包み隠さず全て話した。


 私が話し終えると、甘木さんはなぜか少し怒ったような表情になっていた。


 ……私、何かおかしなこと言ったかな? 自分の話した内容を思い返してみたけど、特に問題はなかったはず。いったい何がいけなかったんだろう?


 何度考えても分からない。答えが出ない。そんな私に甘木さんは怒りの表情のまま、


「糸島さんは……優しいんですね。自分ではなく誰かのために耐えるなんて、普通はできません。凄いことです」


 表情とは裏腹な、どこか安らぐような声音でそんなことを言った。


 大して親しくもない、ただのクラスメイト。なぜか心に響いた。


「でも間違っています。糸島さんのやり方は、正しくありません」


 しかし次の瞬間、甘木さんは私の行いを否定した。先程までの優しいという言葉はなんだったのか? そう思うほどのきっぱりとした拒絶だった。


「ど、どうしてそんなことを言うの……?」


 動揺から震える声で訊ねる。


「どうして? 当たり前でしょう? 確かに両親のためを思って耐えたことは立派です。ですが、もし後になって両親がそのことを知った時、より深く悲しむことは考えなかったんですか?」


「…………ッ!?」


 思わず息を呑む。甘木さんの言葉は、私にそれだけの衝撃を与えたのだ。


「あなたの両親があなたが言う通りの人なら、悲しむに決まっています。あなたはそれでいいんですか?」


 そんなの嫌に決まっている。嫌だったから、今までイジメにだって耐えてきたのだから。


 でも、だとしたらどうすればいいの? イジメを耐えても耐えなくても、結局両親は悲しんでしまう。


「私、どうすればいいの……?」


 どうしようもなく行き詰まった現状に、私は嘆いた。別に誰かに向けた言葉ではない。ただの弱音だ。……だというのに、


「私が助けてあげましょうか?」


 甘木さんはさも当然のように、そんな提案をしてきた。


 ありがたいことだ。私一人ではどうにもならないことも二人なら……甘木さんと一緒なら何とかなるかもしれない。


「……どうして? どうして私なんかにそこまでしてくれるの?」


 けれど口をついて出たのは、感謝ではなく戸惑いの言葉だった。でもそれは仕方のないことだと思う。


 だって私と甘木さんの関係はクラスメイトというだけ。助けてもらう理由なんてないはずだ。


 なのに、彼女はどうして私に手を差し伸べてくれるのだろうか?


 他人の善意に対して最悪の考え方だということは理解しているけど、この問題は無視できない。


「どうして……ですか。単純に困ってる人を見捨てられなかった……というのでは納得できませんよね」


 甘木さんは少し困ったような笑みを浮かべた。しかし次の瞬間には、


「私にはとても大切な人がいるんです。もしあなたのことを見て見ぬフリをしたら、私は自分を許せなくなります。そうなったら私はお兄――大切な人に顔向けできません。それが嫌だったから、私はあなたに声をかけたんです」


 どこまでも真っ直ぐな瞳で私を見つめながら、甘木さんは淀みなく言い切った。


「つまりあなたを助けるのは他の誰でもない、私自身のためなんですよ。だから安心してください。あなたの問題は、私が絶対に解決してみせますから」


「…………ッ!」


 甘木さんが笑みと共に宣言すると同時に、私の胸が高鳴った。自分の顔に熱が灯るのが自覚できる。


 まるで身体が自分のものではなくなったみたいだ。でも、不思議と不快感はなかった。むしろ、この高鳴りは私を心地良くさせてくれる。


 これに名前を付けるとすれば、その名は恋。


 おかしな話だ。甘木さんは同性、それもまともに話したのは今日が初めてのクラスメイト。


 そんな人に恋をするなんて、私はとうとうおかしくなってしまったのだろうか?


「ふふふ……」


 気が付くと笑みが漏れていた。別に何かおかしなことがあったわけではない。ただ何となく、笑ってみたくなっただけ。


「どうかしましたか、糸島さん?」


 突然笑い出した私に、甘木さんは訝しむような視線を向けてきた。


 先程までなら何も感じなかっただろう。でも、今は違う。彼女が私を見てくれる、たったそれだけのことで頬が緩むのを抑え切れない。


 彼女のことをもっと知りたい。彼女ともっと親しくなりたい。不意にそんな欲求が芽生えた。


 だから私は表情筋を引き締めながら、


「ねえ甘木さん。これからはあなたのこと、名前で呼んでいいかな? もちろん、私のことも名前で呼んでいいからさ」


 夕日の差し込む図書室で、私はほんのちょっぴり勇気を振り絞った。


 ――私はこの日、親友と好きな人を同時に見つけたのだった。

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