第8話

 私が力になりましょう、と言いはしたものの、私が少女にしてやれることはなにもありませんでした。ただ、毎日同じ時間に会う約束をして、最初はブランコに腰掛けて話を聞き、やがて会う時間が早くなり、街に出て遊ぶ。楽しいことで、彼女の悲しかったことを上書きするようなことを繰り返していました。

「ずっと一緒にいられたらいいね」

 彼女は自宅前でそう言って私の頬にキスし、微笑みながら駆け出し、門をくぐりました。それから恥ずかしげに手を振り、玄関を開けて中に入っていきました。私は彼女の部屋の明かりがつくまで家の前に立っていて、彼女が自室の窓から私に向かって手を振ったところで、ようやく私は帰路につくのです。


「絵が描きたいな」

 突然少女がそう言い出しても、私は驚きませんでした。彼女が画家を目指していたことを知っていましたし、彼女の口からその夢が語られているのを何度も耳にしていましたから。むしろ、いままで何も描かずにいたことのほうが不思議なくらいでした。

「なにを描くの?」

「もう決まってるの」

 彼女はそう言って私の手を取り、力強く走り出しました。着いた場所は公園でした。彼女の原点で、私たちが出会った場所。その公園にある数少ない街灯の下に私を連れて行き、そこに立っていて、と指示を出しました。

 スポットライトのように狭い範囲だけを照らす明かりのしたにいると、暗くなった空、風景から切り取られたような孤独を感じましたが、少し離れたところにきちんと少女がいて、イーゼルを組み立てていました。そこにカンバスを立てかけ、水飲み場の蛇口から水を調達し、絵を描く準備を整えました。

「しばらく動かないでね」

 少女はそう言って鉛筆で薄く下書きを始めました。

 私は動かないこと自体はあまり苦にならなかったので、彼女が懸命に絵を描いているところを、彼女がもっとも輝く瞬間を目に焼き付けようと、彼女を見つめたまま動かずにいました。

 少女は本当に楽しそうに絵を描きます。元気が戻ってきてよかった。もう、混沌としたどす黒い絵を描かずにすむくらいには回復したようです。そうなってくると、私はそろそろ空に帰らなくてはいけません。夢を見て前を向く彼女にとって、私は邪魔以外なにものでもありませんから。そして、それ以上に、私自身も前に進まなくてはいけません。ふてくされて逃げるのはもう終わりです。

 けれど、彼女は私がいなくなると言ったらどうなるのでしょう。手を掴んですがりつき、行かないでと泣くのでしょうか。いえ、大丈夫です。彼女はとても強い人ですから。

 けれどもし、彼女が悲しむのであれば、私の決心は揺らぐでしょう。だから、私はなにも言わずに去ることに決めました。

 どれくらいの時間が経過したのでしょう。彼女はカンバスを持って私のもとに駆け寄ってきました。

「どう? よく描けてるでしょ」

 そこに描かれた水彩画は人の形をした私そのものでした。

「キス、してもいい?」

 私ははじめて、自分の要望を彼女に告げました。

「なんで、急に……」

「急ではないんだけどね」

 彼女は困ったように自身の唇に触れ、足元に視線を彷徨わせました。

「そういうの、訊かなくていいから」

 私は目を閉じた彼女の頬に手を這わせ、その唇に触れました。そして、私は自分の決心が鈍る前に彼女の前から、彼女のなかにある私と過ごした記憶とともに消え去りました。

 記憶が残っていると、きっと悲しむだろうから、私と過ごした時間全部を忘れさせ、元気になった少女だけを残すことにしたのです。

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