聖王と賢妃
投降した魔族の処置を定めるためにヴァルクレアは一時城に帰還する。自らを前に怯えた表情を見せる魔族を処刑することは今のヴァルクレアには難しかった。2度とエスタリアの領土を侵さないことを誓約させ、魔族を領外に追放することとした。鎖につながれて奴隷とされるだろうことを予想していた魔族たちは驚きつつ謝意を示した。
口々にヴァルクレアの名前を讃え、以後背かぬことを誓う魔族にヴァルクレアは言った。
「これは異界の聖女アキエの慈悲の賜物と思え。大恩あるものの願いゆえ受け入れるのだ。何かあれば草の根分けても見つけ出し後悔させる」
我ながら甘い処置だとは思いつつ、ヴァルクレアは自分の判断に満足する。魔族の領域に進出しないでもエスタリアに人が住む場所はまだまだあった。今回の戦災による被害を復興するのにも時間がかかるはずである。なにより、もし側に秋江がいたら、そのようにするよう説得したのは分かり切っていたからだ。
滞った事務を処理し、再建計画を検討し、魔神の神殿の捜索範囲をどうするか考えるのに疲れを覚え、ヴァルクレアは一度居室に戻った。宝箱から桜の押し花を取り出し、その表面にそっと触れようとした時、ヴァルクレアの体に衝撃が走る。今思いを寄せていた相手の苦痛と微かな思念がヴァルクレアの体に伝わる。
押し花を放り出すと、私室の魔方陣に飛び乗り、呪文を唱えた。
「我が身を支える母なる大地よ。我と我が愛しき者の間を阻む帳を払え。縮地道行」
ヴァルクレアの視界がぐーっと拡大される。城の壁を越え、川を渡り、広々とした平原を越え、険しい山の中に穿たれた細い裂け目を抜けて、洞窟の最奥部が見える。そして、そこに彼女がいた。視界が一気に圧縮されたと思った瞬間には、ヴァルクレアは濃厚な瘴気が漂う空間に立つ。
紫色の不気味な線にまとわりつかれ、苦悶の表情を浮かべる秋江を抱きしめると浄化の呪文を唱える。すぐに線は消え、秋江の顔が穏やかなものになり、目が見開かれた。そして、細い腕であらん限りの力で秋江はヴァルクレアの体を抱きしめる。
「クレちゃん……」
「なぜだっ!」
洞窟を圧するような巨大な意識が場に響き渡る。魔族の神ヨグモースの怒りは洞窟を振動させた。ジャラナは頭を覆って地面に伏せていた。見知らぬ魔族の神官も地面にへばりつくようにして身を震わせている。
「この世界に転位したての魂であれば赤子も同然。いくら魔力抵抗が高いと言えども我が呪いに抵抗できるはずが……。そしてなぜお前がここに……」
ヴァルクレアは懐かしい秋江の香しさを胸いっぱいに吸い込むと抱擁を解き、秋江の左手を取った。そこには五色の糸が淡い光を放ち光っている。それに指を絡めながらヴァルクレアは秋江に優しく言った。
「まったく。世話をやかせるな」
ヴァルクレアは地面に伏せるジャラナに視線を向ける。
「お前もだよ。あれほど注意をしておいたと言うのに……」
「あ、待って、待って。ボクは秋江様の願いを聞き入れただけだから。どうしてもクレちゃんのところに行きたいから何とかしてって秋江様に懇願されたんだよ。ほら、秋江様の言いつけに従えってことだったじゃないですか」
ジャラナは慌てて言い訳を続ける。
「そのとき、また誰でもいいからこっちに送れって命令が来て。気づいたらここに戻っていたわけで……。ははは」
「リョウちゃんを責めないで。私が無理にお願いしたの」
秋江は意を決したようにして言う。
「悪いのはね。クレちゃんなんだから。あんな手紙を置いて消えちゃって。私が納得すると思った? それで私がどれほど辛い思いをするのか、どれほど苦しむのか考えた? どうして、私の気持ちを聞いてくれなかったの?」
「あ、いや。私はその方があっちゃんのためになると思ってだな……」
「私のことを勝手に決めないで。私の幸せは私が決めるの」
「すまない……」
ハーコンは謎の言語で恐怖の女王を難詰する女性の姿を見て全身を震わせる。なんて危険なものを異世界から召喚してくれたんだ。しかもそいつを制御できないとはヨグモース様もなんて無能なんだ。もうやってられるか。這いずるようにして洞窟から逃げ出そうとするその体をヨグモースの意識が圧倒する。
「何をごちゃごちゃと……」
「うるさいっ。今忙しいんだ」
ヴァルクレアの怒りが全身に行きわたり、魔力が増幅されて全身からあふれ出す。その魔力が凝集すると眩い光の玉となっていくつもヴァルクレアの周囲に浮かび上がり、次々と魔神の像にぶつかり表面に穴を穿つ。
「うぐあっ」
そんな様子は目にも留めず、秋江はヴァルクレアを見つめる。
「私の幸せはあなたと一緒にいること。もう逃がさないからね」
再び秋江はヴァルクレアの首筋に顔を埋めて強く抱きしめる。
「ああ。私ももう離さないよ。あっちゃん。とても会いたかった」
「あ……ああ……私の依り代が……崩れる。これではもうこの世界に具現できないではないか……」
巨大な洞窟の一面を占めるヨグモースの巨象がゆっくりと崩れ落ち始める。6つの手と6つの目を持つ異形の神像は原形を留めていなかった。それをチラリと見たヴァルクレアは秋江を庇うようにして壁から離れる。
「では、あっちゃん、行こう。ここは衛生的ではない」
ヴァルクレアが手を動かし詠唱を始めると床に魔方陣が浮かび上がり始める。
「ちょっと、ヴァルクレア様。ボクをこんなところに置いていないでよ。非力なボクが残されたらどんなにひどい目にあわされるか。助けてぇ」
「リョウちゃん早くこっちに」
秋江が言うのに合わせてジャラナが走ってやってくると、ヴァルクレアの空いた右腕に飛びついた。ヴァルクレアは面倒そうな顔をするが、詠唱を続け呪文を完成させる。
視界が変わる直前に、ヴァルクレアは崩れた神像から這い出してきた魔族の姿を目にとらえたが、その視線は定まらず、呆けた表情を浮かべていた。その口からは、恐怖の女王が二人、恐怖の女王が2倍、との言葉が漏れている。完全に精神を破壊されていた。
ヴァルクレアは左手に秋江、右手にジャラナの状態で城に帰還する。空中に浮いていたがすぐに床にそっと降りた。秋江が転ばないように手を添えてやる。ジャラナはよろめいたが転倒することはなかった。
「そうやって、すぐボクを除け者にする……」
「ここがクレちゃんの部屋なんだ?」
物珍しそうに見回す秋江にヴァルクレアが言う。
「今日からは二人の部屋だ。あっちゃんさえ良ければだが」
「いいのかしら? クレちゃんて王様なんでしょ。普通は部屋を共有しないんじゃないかしら」
そこへ部屋の扉がためらいがちに数度叩かれる。
「陛下。お休みのところ申し訳ありません。騎士団長が面会を求めております。神殿の捜索がはかどらない件について相談があるとのことですが」
「ナルスか。少し待て」
ヴァルクレアは自分の左腕に秋江の右腕を絡ませる。
「外にいるのは側近のナルスだ。忠実だが色々と口うるさい奴でな。まあ信頼できる人物だ。さあ、これから色々な人に紹介しよう。それと、さっきの疑問だが、王ということの利点は、こうと決めたら大抵のことには他人が文句を言えないことなんだ」
少し離れた所で拗ねているジャラナに言葉を向ける。
「いつまでその格好でいるんだ。いずれはきちんと説明するが、その格好では近衛隊の連中に追いかけ回されることになるぞ」
ジャラナは慌てて涼子の姿になる。
「当面はお前は秋江の侍女だ。いずれは好きなところに行かせてやる」
「はいはい。まあ、所変われど役割は変わらないから楽なもんです。お任せください」
扉を押し開けるとナルスが落ちくぼんだ目を一杯に広げて驚愕する。
「陛下。こちらの方々はどなたで? 一体いかがなされました?」
「ナルスよ。そんなに目を見開いていると目玉が落ちるぞ。こちらはアキエ殿だ。異世界では大変世話になった」
ナルスは背筋を伸ばして立ち、右手をピンと伸ばして眉にあてる。
「アキエ殿。お目にかかれて光栄にございます。我が偉大なる王が大変貴女にはお世話になったとのこと、重ねて私からも御礼申し上げます……」
「それぐらいにしておけ。アキエ殿はこちらの言葉がまだ分からない」
「はあ」
「それより騎士隊長が面会を求めていたのであろう」
「はい。階下にてお待ちです」
「では、先に用件を済ませよう」
秋江をエスコートしながら歩み始めるヴァルクレアだったが、秋江に小声で言う。
「色々と退屈かもしれないが我慢してくれよ。これも王族の務めでね」
「大丈夫。だけど、早く言葉を覚えなきゃ。それと色んな人の顔覚えられるかなあ」
「心配しなくても、先方が秋江のことを覚えてくれるさ」
ヴァルクレアは数歩前を進むナルスに声をかける。
「あ。そうだ。言い忘れていた。落ち着いてからのことだが、お前の進言を入れることにしたぞ」
「ありがとうございます。して、どの進言のことでしょうか?」
「お前が口うるさく言っている奴だ。配偶者を決めろといういつものだよ」
「それはおめでとうございます。で、陛下が見初められたのはどなたでしょうか?」
ヴァルクレアはニヤっと笑う。その顔を見てナルスは声を上ずらせた。
「まさか……。陛下」
「そうだ。秋江殿を我が王配として迎える。こころ清く正しい聖女のような方だぞ。私の覇気を抑え、正しい方向に進む手助けをするのにこれほどの適任はおらん」
「陛下、それではお子が……」
呆然と立ち尽くすナルスを置いて、ヴァルクレアは階段にかかる歴代の王の肖像画の説明を秋江に始める。
「あれが私の父だ。それでその隣が……」
ナルスの側によってきたジャラナが気持ちは良く分かると言った顔で慰める。
「ボク、いや、私は涼子。秋江様の侍女です。諦めが肝心ですよ。あのお方に逆らったら命がいくつあっても足りません。まあ、ヴァルクレア様と秋江様が幸せならいいんじゃないでしょうか」
その言葉に我に返ったナルスは大声で呼びかけながらヴァルクレアを追いかける。
「陛下。お待ちくだされ。どうかその儀はご再考を。陛下~!」
しばらくして、聖王ヴァルクレアの成婚を祝う式典が開催される。それは後々まで語り継がれるほどの盛大なものだった。エスタリアの人々が見たことのない美味が提供されて人々を驚かせたと伝わっている。
聖王と賢妃の統治は後世の理想とされ伝説となった。
~終わり~
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