秋江への手紙
ヴァルクレアと花火を見て2週間ほど経った頃、秋江が出勤すると会社は大変なことになっていた。なんと大沢部長が会社の金を横領して失踪したらしい。そして、その余波は人事部の他の職員に及んだ。大沢部長の片棒を担いだと疑われた職員が何人も尋問を受ける。
幸いなことに秋江が大沢部長に疎んじられていることは周知の事実だったので、秋江への聞き取りは形式的なもので済んだ。ただ、斎藤課長を始めとして男性職員は大沢部長と一緒に遊興していた件を追及されて、そのせいで通常業務が回らなくなる。そのしわ寄せはもろに秋江が被ることになった。
同時に大沢部長が女性職員に対して行っていたセクハラの数々も明るみになり、職場は大混乱に陥る。一般職や派遣・契約社員の女性の中には相当数被害にあっていた人がいたらしく一気に膿が噴出することとなった。十分な金額の補償金が支払うことで、会社にとって幸いなことにそのことは表には出て行かずに済んだ。
調査の結果、高橋くんの他2名の職員が大沢部長と同様に会社のお金をつまんでいたと判定されて依願退職の形で会社を去った。どうやら、銀座で派手に遊ぶのに付き合っていたらしく、その際にその金の出所を本人から聞いていたものの、怖くて言い出せなかったらしい。3人も抜けた穴を埋めるべく奮闘している秋江が別室に呼び出されたのは、内定式が近づいた日の夕方のことだった。
「沢渡さん。あなたは昨年の10月に遡って主任に昇任します。もちろん、この間の給与の差額も来月の給与で支払います」
3人が待ち構える会議室に呼び入れられて、何事かと思っていた秋江に意外なことが告げられる。
「あのう。それは……」
「昨年の昇任で恣意的な審査が行われていたことが判明しました。その点については社としてもお詫びしなくてはなりません」
向かって右側に座るシャープな顔つきの男が言った。確か、この1件の処理に当たっている法曹資格持ちの法務部長だったはずだ。
「はあ」
秋江の口から気の無い返事が漏れる。今更感もあったし、今の忙しさに正直どうでも良かった。ヴァルクレアと平日にほとんど顔を合わせることができない方がよっぽど気がかりだ。土日も潰れがちで、秋になったらまた温泉に行こうねと言った約束も果たせていない。
「それから、これは内示ですが、沢渡さんには来月1日付で採用グループのリーダーになって頂く予定です」
「えっ?」
その発言はさすがに秋江を驚かせるものだった。
「ご不満ですか?」
「不満というわけではないですが……」
「社としても全面的にバックアップはします。ただ、実務を取り仕切っていた沢渡さんにはその知識・経験を生かして組織の立て直しをして頂きたいと考えています」
向かって左に座っていた女性が口を開く。
「弁護士の飯島といいます。今後、社内のコンプライアンスの一層の向上のお手伝いをすることになりました。別途案内はしますが、もし仕事を進めるうえで何か困ったことがあったら直接私にご連絡ください」
最後に真ん中に座っていた人事担当の役員が口を開く。その面上にはここ数日間の疲れが見えた。
「大沢にはすっかり騙されていた。人を見抜く力が無かったと言われてもしかたない。沢渡さんにやってもらった採用特設サイトのリニューアル良かったよ。これからもその力を発揮してほしい」
「はい」
秋江はとっさにそれ以上何も言うことができなかった。その表情を見て、法務部長が微かな笑顔を見せる。
「いっぺんに色々な話をして混乱させたようだ。とりあえず、社として沢渡さんに悪いようにはしないということだけ理解してもらえればいい。それから、ずっと残業続きで疲れているだろう。来週から増員もするので、今日は早く帰りなさい」
今日聞いた中で一番うれしい言葉だった。
「ありがとうございます。それではお言葉に甘えさせていただきます」
頭はあまりに多くの情報が入って来て混乱していたが、早く帰れるというのはうれしかった。ヴァルクレアにも一緒に祝ってもらおう。
早く帰ったことで驚かせようと連絡もせず、家に帰りドアを開けて声をかける。
「ただいま~」
いつもなら聞こえる返事が無かった。リビングにも電灯の明かりが無い。あれ? リョウちゃんのところに出かけちゃったのかな。でも、クレちゃんのスニーカーはあるけど。
リビングに入って見るとローテーブルの脇にヴァルクレアの服がきれいに畳まれて積まれてあった。その上には白い封筒が置いてある。そして、ローテーブルの上にはタブレットが置いてあり、その下には紙が挟んであった。秋江は胸を突かれて、夢中で紙を取り上げる。それはヴァルクレアから秋江への別離の手紙だった。
『あっちゃんへ
このような形で別れを告げることになった私の不甲斐なさを許して欲しい。本当はきちんと対面で感謝と別れを告げるべきなのだとは分かっている。私があっちゃんに受けた恩義を考えれば、このような礼を失したことはしたくない。ただ、もう一度あっちゃんの顔を見てしまえば自分の決心が揺らぐのが分かっているんだ。
実は国元の状況がかなり悪くなってしまっている。もう、私は戻らなければならない。かつてこれほど王の地位に就いたことを恨んだことはなかった。もし、私が一介の市井の人ならば迷わずこの世界であっちゃんの側に居たい。だが、私は王なのだ。多くの人に対して責任がある。正直に言おう。私はその責任を放棄することも考えた。全ての人に祝福されてその地位にあるわけではないのだから。でも、やはりその責任を放棄することができなかった。
あっちゃんと過ごしたこの期間は本当に幸せだった。たぶん、これからの私の人生においてこれほど豊かな時間を得られることはないと思う。たったこれだけの期間と思わないでもないが、幸せは貪り過ぎてはいけないのだろう。儚いからこそ素晴らしいものなのかもしれない。
ただ、あっちゃんには末永く幸せになって欲しいと心の底から思う。あっちゃんの誠実さ、優しさは正しく報われるべきだ。力が及ばないがあちらの世界からあっちゃんの幸せを祈っている。
ジャラナにはあっちゃんに誠実に仕えるよう指示をしておいた。何かあったらジャラナを頼るといい。相当の金額を貯め込んでいるはずだ。金で幸せは買えないかもしれないが、不幸を防いだり、その痛手を和らげたりすることはできるからね。
ああ。もっとあっちゃんに伝えたいことがあるのだが、いざとなると言葉が出てこない。この世界の言葉にも随分と慣れたはずなのだが。もう、繰り言はこれぐらいにしておこう。あっちゃんに幸多からんことを。ヴァルクレア』
秋江は膝から崩れおちるように床にペタンと座り込んだ。なによもう、自分勝手なことばかり言っちゃって。私にだって言いたいことは一杯、一杯あったのに。ずるいよ。秋江が見つめる手紙の文字がにじむ。しばらく放心したように手紙を眺めていたが、だんだんと怒りが湧きおこってきた。
スマートフォンを取り出して、ジャラナに電話をかける。数回呼び出し音が鳴った後、ジャラナが電話口に出た。
「秋江様。どうしたんですか?」
「リョウちゃん、どうして言ってくれなかったの?」
ちょっと間が空いて、ジャラナが返事をする。
「まさか、ヴァルクレア様、本当に秋江様に何も言わずに……」
「そうよ。置手紙だけして消えちゃったわ。知ってたならどうして教えてくれなかったの」
ジャラナが困惑した声で言う。
「ボクがヴァルクレア様に逆らえないのは知ってるでしょう? ボクも言ったんですよ、ちゃんと話さないと秋江様が悲しむって。でも聞き入れてもらえなかったんです」
秋江は我に返る。
「そうなのね。ごめんなさい……」
「いえ。この件に関してはボクもヴァルクレア様の行動には同意できません。まあ、ヴァルクレア様にはヴァルクレア様のお考えがあってのことでしょうけど。ちなみに、言い訳になりますけど、ボクも今日だとは知らなかったんです」
「そうなのね」
「ということで、何かあったらボクに言ってください。ヴァルクレア様から言われてますし、ボクでお役に立てることならなんでもしますよ。今からそちらに行きましょうか?」
秋江は少し考えて言った。
「ううん。いいわ。ありがとう。ちょっと混乱しただけだから」
「そうですか。本当に何かあったら言ってくださいね。言いつけ守らないとボクはヴァルクレア様に呪い殺されちゃうかもしれないんですから」
きっとわざとそんな言い方をしたのだろうということに気が付き、秋江は心が落ち着いた。
「ええ、大丈夫よ。落ち着いたら会いに行くから。そして、あの薄情者の悪口を一杯聞いてね」
「はい。聞くだけなら喜んで」
秋江は電話を切って、部屋の中を見回した。人が一人居なくなっただけでそれほど広くなったわけではないのに部屋が空疎に感じてしまう。数カ月前にもそうだった状態に戻っただけ。そのはずなのに心が落ち着かなかった。ここに誰かが居る。ヴァルクレアが居ることが自然になっていた。
床にたたんで置いてあるヴァルクレアの服を手に取ってみた。もう温もりは感じられない。そっと服に顔を近づけてみる。服からは嗅ぎなれたヴァルクレアの香りがした。懐かしさと安心感と幸せと。そのないまぜになったものを喚起する香りを嗅ぎながら暗くなっていく部屋の中で秋江はずっとそのままでいた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます