秋江とヴァルクレア

「あっちゃん!」

 秋江が気だるい頭をもたげてみると、少し離れた場所にヴァルクレアがもの凄い表情で立っていた。その瞳には炎が宿っているように見える。細い路地から出てきたようで、足にまとわりつくビニール袋を振って払うとずんずんと近づいてくる。


 秋江の脇に手を入れると力強い腕で抱き起した。

「まったく。世話をやかせるな」

 ヴァルクレアはすぐ側にいた大沢部長を完全に無視して、秋江を支えながら歩き始める。大沢部長は、ああ、とも、おおともつかない声を漏らすだけだ。


 思いがけず現れたヴァルクレアへの驚きと、助かったという安堵感をぼんやりと感じる秋江の耳に聞きなれない言葉が流れ込んでくる。

「アルト・クイ・メモラム アーダ・メルト・パーラム アキエ・デセ・ジョルト」

 その言葉を聞き終わると同時に、秋江の体から気だるさと気持ち悪さが一掃される。


「え?」

 思わず声を漏らす秋江にヴァルクレアが不機嫌そうな声で言った。

「本当はこういうことに使うものではないのだが、浄化の魔法を使った。あのままでは家に帰ることもままならないだろう?」


「ごめんなさい」

 不意に目から涙があふれ頬を伝い落ちる。鼻声を聞いて覗きこむヴァルクレアの声音が優しくなった。

「まったくだ」


 ヴァルクレアは後ろを振り返り何かを確認すると、手を秋江の腕から離す。

「もう一人で歩けるだろう」

「うん……」

「それで、ここはどこなんだ? あのスマホという便利な道具で位置を確認してくれないか。早く家に帰った方がいいだろう」


 秋江はスマホを取り出して地図を呼び出した。10分ほど歩くと駅があることが分かる。その方向へ先導しながらおずおずと聞いた。

「場所が分からないのにどうやってここへ?」

「あっちゃんのいる場所は分かる。そこへ跳んできた」


 秋江は途方に暮れた顔をする。

「あっちゃんは、助けてと念じただろう。それをその腕の輪が私に伝えた。同時にあっちゃんのいる場所と周辺の状況もね。だから、あの人目に付かない脇道に転位してきたんだ。ちょうどジャラナの家にいて良かった。あそこには転位の為の魔方陣があったからね。すぐに転位できた」


 秋江は自分の左腕を伸ばす。そこにはヴァルクレアに送られた五色の糸でできた腕輪があった。

「これってお守りだと思ってた」

「そうさ。あっちゃんが助けを求めたときに私に知らせてくれる」


「クレちゃん……ありがとう」

「まあ、今後は外での飲酒に気を付けることだ」

 秋江は腕をヴァルクレアにからませる。ヴァルクレアに何と言っていいのか分からなかった。謝罪なのか感謝なのか悔恨なのか。思いを整理できないまま自然とそのような行動にでていた。


「あまりくっつくと臭いが移るぞ」

 そう言われて秋江はスンスンとにおいを嗅ぐ。微かに金属の焼けるような臭いがヴァルクレアの服からする。

「ジャラナの言う通り、味は悪くなかったが、ちょっと臭いが付くのが難点だったな。今度会ったら文句を言わなくては」


 そう言いながらもヴァルクレアは腕を振りほどこうとはしない。秋江も離れるつもりはなかった。

「そっか。リョウちゃんにお礼を言わなきゃいけないね」

「なんでアイツに?」


「だって、リョウちゃんの家にいたから早く来れたって言ってたでしょ」

「まあ、それはそうだが」

「ね?」

「あっちゃんがそう言うならそうなのだろう。まあ、あっちゃんがアイツを助けた報いがあったということかもな」


「別にそんなつもりじゃ……」

「ああ。もちろんそうだろう。あっちゃんが見返りを求めていたわけじゃないことぐらい分かっているさ。でも、こういうのを因果は巡るというのだろう? 私もアイツを助けて良かったと本当に思えたよ」


 駅に着き、地下鉄に乗って家に帰りつくと、秋江は疲れがどっとでてきたのを感じる。先にと譲ったがヴァルクレアに勧められるままシャワーを浴びてソファーでぼーっとしていると悔恨の念にとらわれる。油断をしていた。大沢部長に関する黒い噂も垣間見える変な視線も把握していたはずなのに。


 入れ替わりにシャワーを浴びてきたヴァルクレアが秋江の様子を見ると無言でキッチンに立つと冷蔵庫から何かを取り出してごそごそやっている。秋江が膝を抱えているところにヴァルクレアがグラスを二つ持ってやってきた。ヴァルクレアがほほ笑みかける。


「アイスミルクティだ。私の勤務先の特性レシピだぞ」

 受け取って一口飲むと紅茶の香りをミルクが優しく包み、淡い甘さが口いっぱいに広がるのを感じる。

「クレちゃん……」


「うん。まあ、なんだ。あっちゃんが傷つかなくて良かった」

「ごめんね」

「謝ることはない。これを飲んで一晩ぐっすりと休んで嫌なこと自体は忘れてしまえ。覚えておくのは教訓だけでいい」

「うん……」


 ミルクティを飲み終わると少し元気が出てきた。髪の毛を乾かし歯を磨く。鏡の中で秋江を見つめるヴァルクレアの目は優しい。リビングに残ろうとするヴァルクレアの手を引いて寝室に連れて行った。エアコンのスイッチを入れる。冷たい風が吹き出したのを確認するとヴァルクレアに言う。


「今日は一緒に寝よ」

 二人で寝るには少々狭いベッドを見下ろすヴァルクレアがだが、口に出しては何も言わなかった。大人しくベッドにヴァルクレアが横たわると秋江はその横に潜り込む。やっぱり狭かったが別に構わなかった。


 すぐ近くにヴァルクレアが居る。その温もりと香りが感じられるなかで秋江は安心して眠りにつくことができた。もう、クレちゃんがいないときは飲むのをやめよう。そう決心した。


 翌朝は早起きして朝食づくりに精を出す。お米を研ぎ炊飯器にセットして、出汁をとった。いつもは目玉焼きだが、だし巻き卵を作る。お豆腐の味噌汁を作って、冷凍保存しておいた干物を焼いて、大根をおろした。それから納豆をかき混ぜて、ネギを散らす。


 そこまで準備しているとヴァルクレアが起きてきた。

「朝からいい匂いだな」

「あ。クレちゃん、お早う」

「お早う。どうしたんだ?」


「最近はパンが多かったからさ、ちょっと和食にしてみたんだ」

 手際よく料理を並べて、食卓につく。

「ふふ。温泉に泊ったときのようだな」

「そこまではいかないよ」


「いや。この卵はとてもうまい」

 だし巻き卵を噛みしめているヴァルクレアを見て秋江は顔を綻ばせる。

「いやあ。そんな風に食べてもらえると嬉しい」

 ヴァルクレアはすっかり箸を使うのに慣れ、干物も器用にほぐして食べている。納豆も以前は手を伸ばさなかったが、今ではまったく問題なく食べていた。


 食事を終えると支度をして二人で地下鉄の駅に向かう。ピーク時を外しているがそれでも結構な混雑の地下鉄に乗らなければならない。ただ、ヴァルクレアと乗るようになってからは快適さが段違いだった。ヴァルクレアが庇ってくれるので押しつぶされることがないし、なにより、体を触られる不快な思いをしなくて良くなった。


 電車を降りて、一緒にヴァルクレアのバイト先に向かう。朝にここで1杯コーヒーを飲んでいくのが日課になっていた。カプチーノを飲んで一息つくと、目線でヴァルクレアに挨拶して席を立つ。売り上げに貢献するつもりで始めたのだが、その必要がないほどヴァルクレアは忙しそうにカウンターと客席を行ったり来たりしていた。


 出社してパソコンを立ち上げ、メールをチェックする。採用グループの同僚が探るような視線を送ってきたがそ知らぬ顔をした。いくつかのメールに返信していると大沢部長が出勤してくる。儀礼的に、お早うございます、とだけ挨拶をしようとして顔を上げ、秋江は息をのんだ。


 大沢部長の顔はむくんでおり、顔にはひどい打ち身の跡があった。気息奄々といった有様で立っているのも辛そうだ。今日、経営会議があって、人事担当の役員から来年度の採用予定者について報告するのに陪席する予定でなければ休んだのかもしれない。


 斎藤課長が席を立ち、近づいていった。

「部長、どうされたのですか?」

「どうも悪酔いしたらしい。家の風呂場で転倒してね」

「大丈夫なのですか……」


 遠ざかる声を聞きながら、秋江は胸の内で舌を出していた。昨日の1件で、大沢部長への嫌悪感はもはや無視できないほどになっていたので、ざまあ、という感情しか沸かない。秋江にここまでに感情を抱かせるようになる人間というのも珍しい。

 

 内々定者に今後のスケジュールの案内のメールを出し、採用試験で使ったSPIの業者へ利用実績に基づいた支払の手続きをする。本来ならば、誰かがやるはずだったのだが、ボクはクリエイティブなことしか……、とのことで手を付けていなかった。


 その間にも、来年度の採用案内に使う若手職員の選別やその職員の所属する部署への了承取り、デザイン会社とのラフの打ち合わせとやらなければいけないことは山ほどある。業務に集中していると、終業時間ぴったりに大沢部長がフラフラと帰っていった。


 そばを通る大沢部長に思わず体が強張ったが、一応、お疲れ様です、の声だけかけて置いた。一瞬、立ち止まって何か言いたそうなそぶりを見せたが、敢えて無視をして、パソコンに向き直り忙しくキーボードを叩いていると、結局何も言わずに大沢部長は去って行った。


 1時間ほどで、仕事を切り上げて帰途に着く。行き程ではないにせよ混み合う車内で、思い出したくもなかったが、大沢部長が何を言うつもりだったのか、考えてしまう。じゃなかった、とで言うつもりだったのだろうか。背筋を悪寒が這い登る。本当にクレちゃんには感謝してもしきれない。左腕に巻いた腕輪が秋江の心を落ち着かせる。


 今日は金曜日だから、クレちゃんとゆっくり過ごそう。アクションものの映画を見に行くのもいいな。何も考えなくていい奴。そのあと、食事をして……。スマホを確認するとメッセージが着信していた。2時間以上前だ。

”あっちゃん。すまない。用事ができて出かける”

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