秋江の危機

 温泉行ったのも良かったし、沖縄旅行楽しかったなあ。秋江は部屋のホワイトボードに目をやりながらぼんやりと考える。ホワイトボードには日本の最難関大学から有名私大まで大学名がずらりと並び、その横に達成値と目標値が書き込んであった。来年度の採用予定者の数だ。


 大学名が赤線で囲ってあるのは、目標を達成した大学だ。かなりの大学、特にいわゆる難関大学で目標を達成したので、大沢部長の機嫌はすこぶるいい。採用活動をする側にとってみれば、個々の性格・能力については大して関心がない。他の企業のことは知らないが、少なくとも秋江の勤める企業ではそうだった。


 〇〇大学の卒業生を何人採用できた、採用できなかった。その数字で採用部門は評価される。実際問題、優秀な学生を採用するといっても、何をもって優秀とするかは定量的に判断する指標はなかなか無い。となれば、誰の目から見てもはっきりと分かる大学別の採用数に落ち着くのはある意味仕方ないのかもしれない。


 人事担当の役員に先ほど内々定者の数を報告に行って戻って来てから、大沢部長は斎藤課長相手に御高説を展開中だ。どうやら役員にお褒めの言葉を頂いたらしい。来年度採用者向けのサイトをリニューアルしたのが効いたな。そのセリフは秋江の心臓を見えない針となってチクチクと刺した。


 当初、サイトのリニューアルを担当していたのは秋江だ。何度も大沢部長と衝突しながら、それがある程度形になったところで急に担当を外され、後輩の高橋くんの仕事となった。高橋くんはほとんど何もしていない。自分の成果が他人のものとなり称賛を受けているのを見るのは辛い。


 普段は距離を置かれている一般職の人もあれはさすがに酷いと言ってくれた。だが、それで事態は変わるわけではない。斎藤課長も同情はしてくれたが、それだけだった。秋江が仕事への情熱を失い始めたのはその頃からだ。そんなことではいけないと頭では分かっていてもどうしようもなかった。


 今日は職場の暑気払い兼採用活動が一区切りついたお祝い会がある。採用担当以外も参加し、半ば強制の形となっているので出ないわけにはいかない。どうせなら、クレちゃんとリョウちゃんと一緒に出掛けたかったな、と思う。二人はリョウちゃんの案内で月島にもんじゃを食べに出かけていた。


 ヴァルクレアとジャラナの関係は秋江には理解しがたい。沖縄旅行の後からヴァルクレアのジャラナに対する態度は軟化したものの、警戒を解いてはいないのが傍目にも分かった。魔法の力で支配下に置いているんじゃないの? と聞いても油断はできないとの返事だった。


 それでも、最近は3人で出かけることも多いし、今日のように2人で出かけてもいるようだ。ジャラナは自分の立場を良くわきまえているし、この世界のことはヴァルクレアよりも良く知っている。なんだかんだと言いながら、結局は一緒に行動しているのが微笑ましかった。


 あの2人と一緒の方が面白いし、料理もおいしく感じる。食事はそのものの味もさることながら、誰が一緒かということで大きく評価が変わるということを秋江は痛感していた。


 仕事の関係で行ったオシャレなお店で、イベリコ・ベジョータの生ハムをつまみにナントカマイスターが注いだプレミアムビールよりも、特売の徳用サラミでクレちゃんと飲む缶ビールの方がおいしい。もちろん、クレちゃんとハモン・イベリコを肴に飲めれば最高だけれど。


 今日の暑気払いの会場は割と昔からある和食系の居酒屋だ。別にこういう店も悪くはないのだが、女性社員の評価はイマイチだ。コースだと揚げものが多いうえに、大皿から取り分けたり、鍋の火加減を見たりしてのんびり飲めないからだ。店の中は冷房が入っているとはいえ、真夏の季節のコースなのに鍋というのもどうかしている。


 会場についてみると、大沢部長と同じテーブルだった。隅っこの席で適当に過ごそうと考えていた秋江の目論見はもろくも崩れ去る。7割がたは自慢話の大沢部長の挨拶で宴会が始まる。3時間の飲み放題がついているので長い夜になりそうだ。


 上司たちのグラスの空き具合と確認し、運ばれてきた料理を取り分け、空いたグラスや器を店員に返す。忙しくしているので秋江は料理に手を付ける暇がほとんどない。大沢部長は機嫌が良いせいか、いつも以上に周りに酒を勧めている。あまり、お酒の強くない斎藤課長はもうすでに顔が真っ赤だ。


 最初は涼しかった部屋の中も人が一杯のため暑くなってくる。秋江は勧められるままにグラスを空けていった。いつもの職場での飲み会に比べると飲むペースが速い。トイレから戻ってくるとお替りが用意してある。口をつけるとかなり酒が濃く作ってあった。


 平和な別テーブルの様子が羨ましかった。まあ、あっちのテーブルでも浮くことになるのかもしれないが、このテーブルよりはマシだ。最近、綺麗になったのは新しい彼氏でもできたんだろう。俺には分かる。女は男で変わるからな、などという大沢部長のセクハラ発言も適当に受け流しつつ、秋江は3時間を乗り切る。


 宴会が終わって三々五々はけていく会場に忘れ物がないか見回った後に、秋江はトイレに寄った。テーブルの下を覗きこんだりしたせいか、はたまたいつもより飲みすぎたせいか、秋江はふらふらする。あまり気持ちも良くない。頭の片隅で、またクレちゃんにお小言を言われるなと思った。


 お店を出て、いつもなら階段を使うのだが、今日はとても無理そうだった。雑居ビルの古めかしいエレベーターを待って乗り込む。ガタンと揺れて1階に着いたエレベーターから降り、ビルの外に出たが酔いのせいか自分がどこにいるのか分からず混乱する。駅はどっちだろう?


 とっくに帰るなり、2次会に行くなりしているだろうと思ったのに、大沢部長と採用チームのメンバーが待っていた。帰ろうとするが、今日は採用がうまくいったお祝い会だからと強引に連れて行かれた。1時間だけということだったのでなんとか過ごし、散会後に帰ろうとする秋江の腕を大沢部長がつかんだ。


「随分フラフラしているじゃないか。駅まで送っていこう」

「いえ、大丈夫ですから」

「どうせ同じ方面だ。遠慮することはない」

「いえ、本当に大丈夫です」


 腕を振り払うと再び腕をつかもうとはしなかったが、大沢部長は薄ら笑いを浮かべて言う。

「そんなことを言っても、どっちが駅か分かってないだろう?」

「大丈夫です」


 そう言って、歩き出すが、正直に言うと秋江にはここがどこなのか分からなくなっていた。適当に駅があるだろう方向に歩き出す。早く家に帰りたい。ふらりとして壁に手をついて支える。クラクラする頭を上げると派手なネオンサインが光るのが見えた。


「本当に大丈夫かね」

 努力して振り返ると、大沢部長のニヤついた顔が見える。

「少し休んでいったらどうだね?」

 頭の中がぼーっとしてうまく考えることができない。近づいて来る部長に拒絶の言葉を投げかけようとするが言葉が出てこない。


「ほんの少し休むといい。心配しなくても……」

 すぐそばまで来た部長に嫌悪感を抱く。秋江は逃れるように歩こうとするが足が動かない。いや、こっちに来ないで。誰か助けて。心の中で叫ぶ。


 ***


「ハーコンよ。どういうことだ?」

「ははっ。残念ですが、魔王は討ち死にいたしました」

「なんということだ。我が苦労して呼び寄せた手駒をむざむざと。しかもあの女は不在ではないか」


 ハーコンは額を地面に擦り付けながら、自分の不幸を呪っていた。なんでいつも俺が良くない知らせを報告する役割なのだ。

「はっ。先日、あの女に受けた手傷が思いのほか深かったようでございます。表面上はなんともないように見えましたが、敵方の魔法を受けた途端苦しみだして……」


「ぐぬぬ。あの女の魔法にそのような遅効性の効果もあったとは」

「あの魔法を受けて即死しなかっただけでも、さすがヨグモース様が見立てた異世界の魔王というに相応しい力でしたが、まさかあのようなことになろうとは……」


 ハーコンは頭を少しあげて言葉を継ぐ。

「ただ、魔王はその死と引き換えにダナエの街を攻め落としました」

「ほう。少しは力戦したとみえるな」

「住民どもは相手方の騎士団の保護のもと脱出されてしまいましたが、街を占拠し、あやつらの都を攻める拠点として整備を急いでおります」


「そうか。して、その他の方面での戦況はどうだ?」

 ハーコンは再び額をこすりつける。

「少しずつ前進しておりますが、いかんせん相手方の抵抗も強く、大きな戦果は上がっておりません。ただ、ダナエが落ちましたことで防衛線に楔を打つ形となりました」


「では、この先は吉報を期待しても良いな」

「なるべく期待にそえるよう努力いたします。しかし、魔王を失ったことでこちら側も戦力の再編が必要であります」


「分かっておる。あの世界に送り出した者たちに選出を急がせよう。一人は半人前、もう一人は魔力の獲得に苦しんでいると泣き言を言っておるが、もう言い訳など聞かぬ。前回の魔王に劣るとも魔法抵抗の基礎が高ければなんとかなろう。そなたも魔王への供物の準備をしておけ。欲望を満たし我らの手駒となるようにな」


「はっ。魔王にあてがうものの準備はできております」

「今まで抑圧されていた欲望が好きにかなうとなった人が堕ちるのは早いものだ。それだけ魔との順応も早くなる」

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