御馳走と朝風呂
「それじゃ、頂きましょう」
秋江が玻璃の容器をつかみ、ヴァルクレアの器に黄金色の液体を注ぐ。ヴァルクレアが同じように秋江の器を満たしてやると、秋江が弾む声で言った。
「かんぱーい」
火照った体に冷たいビールは最高に旨かった。秋江が唇に泡をつけたまま、ぷふぅ、という声をあげる。そして、卓の上の料理に箸を伸ばした。ヴァルクレアも箸、2本の棒状の器具を手に取る。秋江の家でもだいぶ使ったので、今では難なく使うことができた。
皿の上には小さな料理がいくつも乗っている。いずれも一口大のものだ。彩りも鮮やかで形も様々だ。いくつかは分かるが、残りは一体なんだろう。これは巻貝だろう、あっちはたぶん押し寿司だな。あの緑色の四角いものはなんだろうか。楽しみだな。どれから食べようか。
くい、くいっとまた器を空けた秋江は、今日の料理の内容を書いた書付を覗き込むと、飲み物のメニューをめくった。
「この後はお刺身がでるし、やっぱり日本酒だよねえ」
次の料理の運んできた女性に飲み物を頼んでいる。
料理を少しづつ味わってみると色や形だけでなく、触感や味付けも様々だった。甘い物や、塩気のきつい物、苦みが味を引き立てている物など一口ごとに変化が楽しい。
次のこれは何だろう。ヴァルクレアが蓋つきの容器を開けてみると、ふわっと香りが広がる。澄んだスープの中に白くフワフワとした四角いものが浮いていた。スープの深い味わいとフワフワとした淡い食感が合わさって体に染みわたるようだ。
「はい。クレちゃんもどうぞ」
早くも目の下を薄く紅色に染めた秋江が小さな杯を渡してくる。受け取ると僅かに色の付いた透明な液体を注ぐ。唇をつけてみる。スープの味付けに良く合う気がした。
それから、火を通さない魚の切り身である刺身、魚や野菜などを揚げた天ぷら、厚切りの肉を鉄の板の上で焼くものなど、次々と順番に料理が運ばれてくる。冷たかったり、温かかったり、料理に合わせた温度で出てきた。その間、秋江はいいペースで杯を空け、新たな酒も頼んで飲んだ。
今ではすっかり全身が薄く色づいている。白い肌に血の色が透けて見え、浴衣と言う衣装の胸元がはだけた様は同性のヴァルクレアの目から見ても色香に溢れていた。さきほど一緒に温泉に入った際にそれこそそのままの姿を見ているのだが、それと比べても圧倒的になまめかしい。
叔父のバカ息子が見たら、さぞかしのぼせ上がるだろう。秋江ほど容姿に恵まれた女性はなかなかいない。しかも性格も良しときている。エスタリアなら求婚者だけで騎士団が一つできるかもしれない。秋江が独り身でいるのが不思議でならなかった。
私ももう少し秋江のようだったならと、ヴァルクレアは秋江の豊かな体つきを眺める。肌も抜けるように白いし、まったく羨ましいといったらないな。
「なーに? クレちゃん。ジロジロ見て。ちょっと視線が怪しいなあ」
「全身が真っ赤だぞ。少し飲みすぎじゃないのか」
秋江は自分の体を見下ろし、あら、と言った顔をする。
「本当だ。いつの間に。そんなに飲んだつもりは無いんだけどなあ」
空いた酒の器は料理を運ぶ女性が持っていってしまうので、秋江にどれだけ飲んだのかを示すことができない。
「結構な量を飲んでると思うぞ」
「クレちゃんは、いつも節制するよね。すごいなあ」
「すごくはない」
「そんな怖い顔しないでよ。もう今あるだけにするから」
ご飯と野菜の酢漬けのようなものと汁を食べ、その後の甘味とお茶まで堪能して椅子で寛いでいると部屋の入口をノックして男性二人が失礼しますと入ってきた。料理の器は片付け終わっており、ヴァルクレアは何事かと身構えるが、秋江はのんびりと今夜の料理の品評をしている。
変な動きをしたら即座に対応しようと目の端でとらえながら、秋江の話の相手をする。男たちは食事をした台を立てて端に寄せ、床に次々と戸棚から出したものを並べ、寝台のようなものを作り上げていく。出来上がると、ごゆっくりと言って男たちは出て行った。
どこに寝るのかといぶかっていたヴァルクレアの疑問は氷解する。少し離して作られた低い寝台のところに行き、秋江はその片方を押してもう一方にくっつけた。
「よし。それじゃ、貸切風呂に行こう」
「また入るのか?」
大浴場から戻って来て、部屋のバルコニーに備え付けの風呂にも入ったじゃないか。そう思うヴァルクレアに対し、秋江は当然と言った。
「何度入ってもいいじゃない。人目を気にしないで大きなお風呂に入れるんだし。ね、行こう」
お風呂でたっぷりと汗を流してから部屋に戻った。貸切風呂というところには用意のいい事に飲料まで用意してある。お陰で秋江のお酒も少しは抜けたようだ。念入りに戸締りの確認をした後にヴァルクレアは部屋に結界を張る。あくまで念のためだ。それから床に作られた低い寝台に入った。
ヴァルクレアが身を横たえると秋江が側に寄ってくる。体が触れるか触れないかの距離は保ったまま、秋江は言った。
「いつもソファに寝かせて申し訳ないと思ってるんだ」
「いや。私にはあれで十分だといつも言ってるだろう?」
「そうなんだけどさ。やっぱり自分だけというのはね。それに誰かが側にいると安心しない?」
「そうかもしれないな」
「クレちゃんがまだ小さかったときにさ、一緒に寝たじゃない。ちょっと狭い思いさせたかもしれないけど、私は良く眠れたんだよねえ」
「そうか」
「ちょっと変だよね」
「変ではないさ。私もあの時は安心して眠れた」
「そう。良かった。じゃ、お休みなさい」
翌朝ヴァルクレアが目覚めて見ると酷い格好だった。浴衣という服の前がはだけ、腰に紐だけがまとわりついている状態だ。秋江と二人きりだからいいようなものの、これでは着ていないのとほぼ変わらないな。良く寝た。浴衣を直しながら上半身を起こす。
部屋の結界に異常なし。傍らに目をやると秋江が幸せそうに枕を抱えて寝ていた。どんな楽しい夢を見ているのか、顔には笑みを浮かべている。こうやっているといつもより幼く見える。カーテンの隙間から伺うとまだ外は薄暗い。まだ起床しなくてもいい時間のようだった。
ヴァルクレアは少し考えるとするりと起き上がり、バルコニーに出る。浴衣を脱ぎ、風呂に入った。少しずつお湯が流しっぱなしになっており、一杯になっていたお湯が溢れる。少し罪悪感を覚えたが、すぐに快適さがそれを追いやった。伸びをしてヴァルクレアはうめき声をあげる。なんとも気持ちがいい。
お湯の中で脱力すると風呂の縁に頭をもたせかけ、空が少しずつ白んでいく様を見るとはなしに眺める。今日も雲が出ているが雨は降っていない。だんだんと東の空が明るくなってくると部屋への扉が開いた。
「クレちゃん、お早う。早いね」
「お早う」
まだ完全には目が覚めていないのだろう。霞がかった表情で秋江がヴァルクレアを見下ろしている。
「私も入ろうかな」
「じゃあ、私は……」
「いいじゃない。急いで出なくても。これだけ広いんだし」
それから二人でお湯に浸かりながら、何を話すでもなく、ゆったりとした時間を共有する。手を伸ばせば触れられる距離にお互いがいるだけで満足していた。完全に夜が明けきると秋江が名残惜しそうに言った。
「そろそろ上がらないと。ふとんの片づけと朝食の準備に来るから」
椅子に座って湯上りの体を休めていると部屋の呼び鈴が鳴り、寝台を片付け、低い卓をセットする。その後で卓一杯に料理が並んだ。
「朝からこれだけの物を食べるのか?」
「そうは言いながら食べちゃうんでしょ」
「ああ。だが豪華なものだな」
甘く卵を焼いたもの、薄い魚を焼いたもの、生野菜に根菜を煮たもの、温かい湯に浸かった豆腐、それに何だか良く分からないが塩気のきついものの小さな器がいくつかある。ご飯は黒い艶のある器に入って出てきた。ヴァルクレアは昨日あれだけ食べたというのにまた全て平らげてしまう。
食後にもう一度風呂に入ってから部屋を出た。秋江が少しは運動しないとね、というので、帰りは箱車の停車場まで歩くことにする。箱車に乗り込みしばらくすると疲れが出たのか秋江が眠りについた。ヴァルクレアは秋江に肩を貸してやりながら、行きに読みかけた本を取り出して読み始めた。
古の戦いを解説した本だった。歩兵と騎兵を組み合わせたその戦い方にはヴァルクレアも学ぶところが多かった。動きは遅いが重装甲に身を固めた歩兵が陣地を死守する間に騎兵が敵の側面や後方から周りこむとある。確かに理に適っているなと思いながら夢中で読み進めた。
秋江が目を覚まし、すまなそうな顔をする。
「ごめん。また寝ちゃった」
「気にしないでくれ。人に寄りかかられながら本を読むのも悪くない」
「その本、そんなに面白い?」
「そうだな。とても興味深いな」
トウキョウという停車場で降りて、相変わらず人で込み合っている通路を人をかき分けるように進む。地下の通路を通って秋江の家に向かう別の停車場に向かっていると秋江が声をかけてきた。
「夕食は軽くでいいかな?」
返事をしようとしたときだった。ヴァルクレアはすれ違った女に微かな違和感を感じた。あるかなしかのその奇妙な感覚はつい最近も感じたものだった。数瞬後、それは熊という猛獣から感じたもの、ヴァルクレアが倒した悪魔と同じ気配だった。ただ、極薄い。すれ違わなかったら気づかなかっただろう。そして、妙な体の高揚感が無かったら。
「すまない。用事ができた。先に帰っていてくれ」
秋江に言うと、ヴァルクレアは黒髪を短くした若い女の後を急ぎ足で追いかけた。この世界の多くの住人と同様に気ぜわしく歩くその女を気取られないように追いかけるのは、なかなかに大変だった。
女は人通りの多い地下の道を曲がり、階段を下りると人気のない通路に入っていく。ヴァルクレアは天井に目を走らせた。人を監視する機械の姿はない。しめた。ヴァルクレアは足音を立てないようにして駆け女に飛びついてその腕を捕まえた。
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