秋江の温泉旅行
秋江はヴァルクレアにサンドイッチの包みを渡して、自らも包みを開けた。夜の食事が食べられなくなると嫌なのでかなり軽めの昼食にしてある。少し体もだるい。採用スケジュールも終盤を迎えたこの時期に休みを取るのはやはり厳しかった。
ペーパーテストの手配、採点結果の受領から、面接日程の組み立て、志望者への通知、面接官の手配……。さらにウェブサイト上で受付をした会社説明会の空き待ちに対してのメール回答もしなくてはならない。実は難関大学の特定の学部からしか申し込みを受け付けないのだが、サイトで機械的にはじくと学生にバレるのでそんな面倒な手間をかけなくてはならないのだ。
そんな秋江を尻目に、部長以下の男性社員は、一般職に応募してきた学生の履歴書を持って会議室に消えていく。誰が可愛いかの品評会だ。秋江の会社では一般職の採用は顔で決まる。履歴書の写真以外の要素は全く考慮されない。
一体いつの時代の会社なのだろうと思う。昨年の忘年会の席で近藤部長は酔った勢いで言い切った。
「うちの一般職なんて、福利厚生の一環だからな。可愛けりゃ他はどうでもいいんだよ」
女性である秋江の聞こえるところなのに、そのような話をしてしまう人間が自分の上司であるということが秋江の心を蝕む。いや、聞こえるところだからわざと言っていたのかもしれない。年次から言えば、主任に昇任していいはずの秋江は今年度昇任しなかった。同期で昇任しなかったのは全員女性だった……。
物思いから覚めるとヴァルクレアが秋江のことを見つめていた。キリっとした顔立ちだが秋江を見つめる瞳は柔らかい。だめだめ。折角の旅行なのに自分から気持ちを沈ませたらもったいない。それにクレちゃんを心配させたくない。笑顔を作って笑いかけると食べかけのパサついたサンドイッチを口の中に放り込んだ。
月曜日に休むために久しぶりに金曜日は長時間の残業をしたのが響いたのか、昼食をとると途端に眠気が襲ってきた。その様子を見てヴァルクレアが言う。
「少し眠るといい」
「じゃあ、そうさせてもらうね」
手を軽くポンポンと叩かれた気がして目が覚める。側頭部が何か暖かいものに触れていた。その温もりが心地よい。いつの間にかヴァルクレアに寄りかかって寝ていたようだ。頭を起こして軽く振り眠気を追い払う。ヴァルクレアが手にしていた本を閉じ言った。
「あと少しで目的地に着くそうだ」
「ごめんね。放っておいちゃって」
「構わない。その分、読書が捗った」
電車を降りるとむうっとした空気がまとわりついてくる。雨が降っていないのは幸いだが、湿度が高く蒸し暑い。電車の中は少し空調が効き過ぎたぐらいだったが、これはこれで体にこたえる。駅前で客待ちをしていたタクシーに乗りこみ、行先を告げる。
10分弱で宿に着いた。中に入るとロビーに案内されて、お茶とお茶菓子が出される。プリントアウトしてきた宿泊予約票を見せ手続きが完了すると部屋に案内された。仲居さんがヴァルクレア用に浴衣を持ってきてくれる。どうも部屋に用意してあったものではサイズが小さかったようだ。
仲居さんが下がったので、早速浴衣に着替えることにする。服を脱いで浴衣を着ているとバルコニーから戻ってきたヴァルクレアが言う。
「こんなところに風呂がある」
「うん。露天風呂がある部屋にしたからね」
「あちらにも浴室があったぞ」
「そうね。クレちゃんも浴衣に着替えたら?」
ヴァルクレアは不思議そうな顔をした。
「そういえば、その変わった衣装になぜ着替えたんだ?」
「うーん。お風呂に入ると汗をかくじゃない。この浴衣は汗の吸いがいいし、温泉では普通この格好をするの」
「そうか。ならば私も着替えよう」
見よう見まねで浴衣を着ようとするヴァルクレアが合わせを左前にしようとするので直してやる。
「これではいけないのか?」
「いけないというか。死んだ人に着せる着せ方なんだよね」
「色々と決まりごとがあるのだな」
見慣れない浴衣を着てヴァルクレアは鏡の前でくるくる回って自分の姿を確認する。
「なんだかあちこちから空気が入ってきて頼りない感じだな」
「だから涼しいの。日本は夏はとても暑いから」
「これ以上暑くなるのか?」
「こんなの全然大した事ないよ」
ヴァルクレアはうえーという顔をしてみせる。筋肉が多い分体温が高めで暑いのは苦手のようだ。
「それじゃあ、温泉に行こう」
「あれがそうじゃないのか?」
「あれは部屋のでしょ。別に大浴場があるの」
「一体いくつ温泉があるんだ?」
「大浴場と貸切風呂が2カ所かな。そうだ。貸切風呂も予約してあるからあとで行こう。とりあえずは大浴場ね」
ヴァルクレアと連れだって大浴場に向かう。各浴場にバスタオルは用意してあるそうなので手ぶらでいいのが楽だ。脱衣所で浴衣を脱ぎながら、温泉でのマナーの説明をする。
「まず先に体にお湯をかけて流してから湯船に入ってね。それからタオルはお湯に浸けないこと」
ヴァルクレアは無頓着に浴衣を脱ぎ裸身をさらす。まったく恥ずかしいという感覚がないようだ。タオルで前を隠すようにする秋江を訝し気に見ている。改めて見るとヴァルクレアの体は引き締まり、まるでギリシア製の大理石の像を見ているようだった。
ガラス戸を空け浴室に入るとヴァルクレアが歓声をあげる。
「おお。大きいぞ。まるで池のようだ」
桶でかけ湯をしてから秋江が湯船に入ったのを見て、ヴァルクレアが続く。お湯は透明で僅かなぬめりを帯びている。思ったほど温度は高くない。
「確かに、あっちゃんの言う通りだな。このお湯は少し普通のものと違う。体にまとわりつく感じがする。これはいいな」
浅黒い手足を伸ばしてヴァルクレアが目を細める。それから屈託のない笑顔を浮かべた。まるで子供のような表情は秋江に小さかったときのヴァルクレアを思い出させる。
最初はぬるいかなと思った湯温だったが、しばらく浸かっているうちに体の芯からじわじわと温まってきてじんわりと汗がにじむ。ヴァルクレアも、ああだの、ううだの言いながらうっとりとした表情を浮かべていた。少し熱くなってきたので湯船から上がり、髪や体を洗う。同じようにしていたヴァルクレアが聞いてきた。
「確かに温泉は気持ちいいが外ではないな。露天風呂と言うのは……」
秋江は首を巡らせて、向こうの方角を指さす。
「たぶん、あそこから外に出られるんじゃないかな。ほら、人が入って来たでしょ」
ガラス戸を開けて外に出た。多少湿度があるとはいえ、浴室内よりは快適だ。風が吹き抜け体を冷ます。早速、ヴァルクレアは外の湯船に入って満足そうな声をあげた。
「なんという解放感だ。これは癖になりそうだな」
中年の女性と女の子が先客でいたが、中年女性がジロジロと遠慮のない視線をヴァルクレアに向ける。本人が気にしていないからいいようなもののちょっと凝視しすぎだった。やきもきする秋江を尻目にヴァルクレアは思い切り伸びをする。
「あっちゃん、どうかしたのか?」
返事をしようとしたとたん、きゃあという声があがる。女の子がタオルを振り回していた。その先には黄色と黒の特徴的な模様のスズメバチがブンブンと羽音をさせて飛んでいる。女の子は叫びながら風呂の入口の方に走り始める。スズメバチは女の子を追いかけ、追いつこうとしたその刹那、何か白いものが空中を走りパンという音がしてハチはバラバラになった。
湯の中に立ち引き締まった裸身を惜しげも無く晒していたヴァルクレアは手にしていたタオルを手すりにかけるとまたゆっくりと体を湯の中に沈める。
「クレちゃん? 今のは?」
「ああ、この布であの虫を叩いただけだ。あの虫は刺すのだろう? 派手な色をしていたし毒があるだろうと思って」
「うん。刺されると痛いし死ぬこともある」
「そうか、それなら良かった。私がしたことは正しかったようだな」
「あれって、布で叩いただけなの?」
小声で尋ねる秋江にヴァルクレアは頷く。
「濡れた布は意外と強いんだ。手首を効かせて打てばあれぐらいのことはたやすい」
***
「ヨグモース様。あなたの忠実な僕ハーコンです。お応えください」
ヨグモースを象った像の前で魔族が呼びかける。
「何の用だ?」
「お騒がせして申し訳ありません。実は例の侵攻の件ですが……」
「うまくいっておらぬのだろう。たわけめ」
「ははっ」
首をすくめてハーコンは小さくなる。
「あの女がおらぬなら少しはうまくいくと期待した我が愚かであった。そなたたちに期待するだけ無駄であったな」
「申し訳ございません」
「あの世界にやった我が手先の一人も呼びかけに応じぬ。誰もかれも我を侮るか!」
怒気が膨れ上がりハーコンを圧倒した。報告の役目を押し付けられたハーコンは仲間を呪う。
「恐れながら申しあげます。あの女も多少はこの事態を予想して対策を立ててから旅立ったようにございます。あの世界に送り込んだ者の反応がないのもあるいはかの女めの仕業では?」
「それぐらい分かっておる」
しばらくすると怒りの波動が収まり、ハーコンはようやく普通に呼吸ができるようになる。
「あちらの世界であの女が魔力の薄さに困り身動きができなくなると期待したのが甘かったかもしらん。あの女に会うては運の尽き。とても対抗できまい」
「できる限り体制の立て直しを急ぎます。あの女が帰ってくる前にできる限り状況を改善してご覧にいれます」
「大言壮語は聞き飽きた。まずは結果を示せ。我は残った2人に魔王候補の選定を急がせる。一人は半端ものゆえあまり役には立たぬがこの際背に腹は代えられん」
「ははっ」
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