邪神死すべし
ヴァルクレアの仕事先は意外と簡単に見つかった。秋江が働いている場所のすぐ近くの飲食店だ。正確にはカフェというらしい。
ヴァルクレアが秋江の働いている場所を見てみたいという希望を伝えたところ、昼食を一緒に食べようということになった。働いている建物の前で待ち合わせし、かなり辛いスープに浸かった細長いものを食べた後、時間がまだあるからと入った店で飲み物を頼んだ。
少し辛すぎた味でヒリヒリする口を宥めるための飲み物を待っていたが、店内が混んでいるためになかなか来ない。さして広い店ではなかったが、店主一人で切り回すには客が多すぎた。ようやく来た飲み物を秋江は急いで飲み干して、お金を置いた。
「私は仕事に戻るけど、クレちゃんはゆっくりしていって」
黒いコーヒーという飲み物に乳を入れてすすってみる。少し苦かったがその苦みは乳で緩和され、その香りの良さの方が勝っていた。いつもは茶を飲んでいたが、前から気になっていたので頼んでみたのだ。うん、悪くないな。みな仕事に戻るのだろう、客が少し減った店内を見回しながら、ゆっくりとコーヒーを楽しむ。
コーヒーの器が空になったところで、店主が横に立った。口ひげを生やした穏やかな感じの中年男性は言った。
「お替りはいかがです?」
「お替り?」
「もう一杯コーヒーを召し上がりますか?」
ヴァルクレアがちらりと料金を書いた書付に視線を走らせると店主は笑顔を見せる。
「料金は頂きません。サービスですよ」
「では、もう1杯頂こう」
そこから会話が始まり、気がついたらなぜかその店で働くことが決まっていた。勤務時間は朝から夕方までの週4日。仕事の内容は早く言えば給仕だった。この店は近隣の職場にコーヒーの配達もしているというのでそれも含まれる。とりあえず2・3日様子を見てそれからどうするかを決めればいいとのことだった。
帰宅した秋江にそのことを言ってみると、最初は驚いた顔をしたが、あのお店ならということになった。なんでも、この春まで働いていた人が2人ともやめてしまい店主が困っていたらしい。そこへ暇そうな、実際暇な様子のヴァルクレアに目を止めて勧誘したのはある意味当然だったのかもしれない。
記憶力に優れるヴァルクレアにとって、注文を取り、店主が作ったものをその人の所へ運び、商品名と金額を書いた紙を置いてくるという作業はそれほど難しいものではなかった。3日働いて報酬としてこの世界で2万円を手にしたヴァルクレアは店主の要請を受けしばらくそこで働くことを決める。
ヴァルクレアが働きだしてから、そのカフェは男性の客が増えた。目元に少々険があるが健康的な美人が飲み物を提供する際に見せる微かな微笑に魅了された客たちだ。本人は自分の容姿がこの世界の男性にどのような印象を与えているのか全く分かっていない。お客が増えて忙しくなったが、運動神経に優れたヴァルクレアは舞うかのように店内を移動し、きびきびと業務をこなす。
そんな中、ヴァルクレア目当ての客たちに冷水を浴びせる事件が起きた。注文通りの飲み物が来ないと騒ぎ出した客がヴァルクレアに難癖をつけ始めたのだ。
「確かに先ほど、アイスコーヒーと聞いた。こちらは間違えていない」
「口答えをするな。俺は客だぞ。お客様は神様だ。土下座をして謝れ!」
青筋を立てて怒る客に対して、ヴァルクレアは冷たい声を出した。
「そうか。神を名乗るか。その態度、善神とも思えんな。邪神とあらば滅するのみ。人でないならば罪には問われぬな」
最初は声音に、次いで発言内容の不穏当さに客が気づいて顔色が変わる。
それでも虚勢を張って恫喝の言葉を並べようとする客に、ヴァルクレアは氷のような笑みを見せる。
「その飲み物を飲んで代金を払って出て行くか、私に放り出されるか……」
ヴァルクレアはその客の前のテーブルをトレイを持っていない方の片手で少し持ち上げて見せる。大の大人でも動かすのが大変なはずの金属製のそのテーブルが空中に浮いており、その上のアイスコーヒーは僅かなさざ波を立てている。ヴァルクレアはそっとテーブルを置くと言った。
「この飲み物をあちらのお客に出して帰ってくるまでに好きな方を選べ」
悠然と歩み去るヴァルクレアを見たその客は悟る。こいつは本気だ。カウンターにいる店主の元に行き、震える手で代金を払うと倉皇として店を出て行った。息を潜めて成り行きを見守っていた他の客は一斉に息を吐く。ヴァルクレアは何事も無かったかのように次の客の注文を取り笑顔を見せた。
カウンターに戻ってきたヴァルクレアに店主が言う。
「どうやって、あの騒いでいたお客を帰したんだ?」
「何か問題だったろうか?」
「いや、そんなことはないが、ああいう客の相手は面倒ではないのかね?」
「むやみに神を名乗ると不幸になると諭しただけだ」
次の土曜日、ヴァルクレアははじめて手にしたこの世界のお金で秋江を昼食に連れて行く。まだ子供の姿だったときに秋江に連れて行ってもらったお店だ。あの時と同じものを注文し食べる。相変わらずの味だった。楽しいひと時を過ごして支払いになると胸をはってヴァルクレアが紙幣を取り出す。
「ねえ、クレちゃん。そんな気の使い方しなくていいんだよ」
「いや。こんなささやかなことしかできないが、あっちゃんには感謝してもしきれない。私のためにここは私に払わせてほしい」
最初は稼いだお金をそのまま秋江に渡そうと思ったのだが、思い直してこのような形にした。ヴァルクレアの気持ちが伝わったのか秋江も素直に受ける。
「それじゃ、ありがとう。ご馳走様」
それからというもの、平日は働き、土日は秋江と過ごすという生活のパターンができた。自分で稼いだお金があるので、出かけた先で秋江ばかりに負担をさせるという負い目もなくなり、週末のうちの1日は外出する。残りの1日は家で過ごした。
外出したある日、ヴァルクレアは店の壁に貼ってある絵に興味を引かれる。屋外でお湯に浸かっている人が精巧に描いてあった。
「どうしたの? あの写真? ああ、あれは露天風呂の温泉よ」
「ロテンブロとは何だ?」
「えーとね、外にあるお風呂で、家のものと違って体にいい成分が入っているの」
興味津々というヴァルクレアの表情を見て、秋江が言った。
「そういえば私もずっと温泉行ってないな。そうだ。クレちゃん。折角だから温泉行こう」
絵にかいてある数字を見てヴァルクレアは返事をするのをためらった。決して小さくない。きっとこれがその温泉とやらの代金なのだろう。
「ねえ。行こうよ。ほら、温泉て一人じゃ行けないんだよね」
「そうなのか?」
「あまり歓迎されないし、一人はダメってところも多くてさ。ね? 行ってみようよ。温泉に入ると肌がスベスベになるんだよ。疲れも取れるし。それに美味しいものが一杯出てくるんだよ」
なに。今まで迷っていたヴァルクレアが反応する。美味しいものが一杯あるのか。迷っていた心が行くという選択肢に傾く。
「それじゃあ、後で温泉探そう。露天風呂の温泉があって、食事の美味しいところ。いくつか気になってたところがあるから任せといて」
帰宅後、秋江はタブレットで宿を探し始める。
「うーん。曜日でこんなに金額が変わるのか。クレちゃんは月曜日は仕事無いよね。じゃあ、私もお休み取っちゃおう」
「仕事が忙しいのに大丈夫なのか?」
「1日ぐらいなら平気、平気。クレちゃん、ここなんかどう?」
ヴァルクレアが見ると、いくつもの美しい器に盛りつけられた料理の写真と、満々とお湯を湛えた風呂の絵が映し出されていた。秋江は次々と新しい絵を見せる。ヴァルクレアにはどれも良さそうに見えた。
「私には判断がつかないな……」
「うーん。そうだよね。でも、こういうのって、出かける前に色々考えるのも楽しいんだよね。迷っちゃうなあ。それで、クレちゃんは何してるの?」
ヴァルクレアは糸を適当な長さに切ると片手でその端をつかみ、もう一方の手でしごきながら口の中で何かをつぶやいていた。区切りのいいところで秋江に返事をする。
「出来上がったら教える。温泉はどこも良さそうなので、あっちゃんの判断に任せるよ」
秋江がさんざん悩んだあげくにようやく温泉を決め、申し込みを終えたのを見計らって、ヴァルクレアは手にしたものを差し出した。
「あっちゃん。これを受け取って欲しい」
ヴァルクレアが指先でつまんで秋江に渡そうとしていたのは5色の糸を編み上げた輪だった。
「クレちゃん、これは何?」
「私の魔力を込めたものだ。あっちゃんの身に危険が迫ったときに役に立つと思う」
「お守りね。ありがとう」
ヴァルクレアは秋江の左手をとって、その腕に輪をはめてやる。
「見た目は良くないが効果は補償する」
「大切にするね。クレちゃん。でも、私がそんな大層なものをもらっちゃってもいいのかな? これを作るのって大変なんでしょ?」
「あっちゃんと出会えたからこそ、この品を作る余裕もできたんだ。それこそ、手間のことなんか気にしないでくれ」
春が過ぎて、雨の日が多くなった頃、ヴァルクレアと秋江は予定していた温泉へ出かけた。幸いに今日は雨が降っていない。ヴァルクレアは車窓から林立する高層建築物を呆れたように眺めている。どこへ行っても高い建物ばかりだな。感慨にふけっていると秋江が昼食を取り出しながらほほ笑んだ。
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