野獣との遭遇
こうして、ヴァルクレアと秋江の奇妙な同居生活が始まった。同居するに当たってのルールは3つ。一つは家事は分担すること。例え王様であっても働かざる者食うべからず。家事を手助けする様々な魔具の使い方もすぐに慣れた。とはいえ、ヴァルクレアには魔力の波動を感じることができず、別系統の未知の魔法が使われているのだろうとしか推測できない。
ルールその2は、他人の目の前でむやみに魔法を使わないこと。ヴァルクレアが異質な存在であるということがバレてしまうのは避けなければならない。皆が持っている四角い物は、映像や音声を記録することができ、瞬時に遠方の人間に連絡できるというとんでもない代物だった。確かに魔法を使ってるところを記録されたら面倒だ。
そのスマートフォンというものを大きくしたようなタブレットという名の板を秋江がヴァルクレアに貸してくれた。秋江の部屋で使うという約束で、その使い方を教えてもらう。この世界の色々なことを知ることができるまさに魔法の板だった。しかも、この板を使えば、秋江が不在のときでも文字で連絡をとることができるのだ。
そして、3つ目の約束は、当面、ヴァルクレア一人で外出しないことだった。この世界の事物に慣れたとはいえ、いつ不審な行動を取ってしまうか分からない。若い女性が一人でいると良からぬことを企む輩がどんな風に言い寄って来るか予測ができないしトラブルの元だと言う。
「そりゃあ、クレちゃんは非常時にはもの凄い力を発揮できるでしょうけど、騒ぎが大きくなったら大変だと思うよ」
「そうだろうか?」
「クレちゃんだって銃で撃たれたら危ないんじゃないかな」
「そういう物は一般的には所持を禁じられていると聞いた」
「そうなんだけど、悪い人は持ってるかもしれないし、警察は持ってるよ」
「なんで私が警察に狙われるんだ? 私は身を守ろうとするだけだぞ」
「じゃあ、逆だったらどう? クレちゃんの世界にもし私が迷い込んで銃を撃ったら? 私の言い分聞いてくれる?」
「分かった。確かに私は余所者だからな」
「でしょ? だいたい最初はこの世界を征服するつもりだったとか言ってたし、完全に潔白ってわけでもないじゃない」
「う、それはこの世界のことが良く分かってなかったからで……」
そんなこんなで秋江が不在の時は、ヴァルクレアは結局タブレットをいじっているか、テレビを見ているかの生活になった。ずっと屋内に閉じこもっていると気が滅入るということで、秋江が働きに行かない日、週末と呼ぶ日には外に連れて行ってもらう。
山歩きがしたいと頼んだら、遠くまで連れて行ってくれた。途中でシンジュクという所を通る前には、しっかりとくっついて歩くように注意される。
「通路が複雑でシンジュクダンジョンとも言われているわ。はぐれたら大変だから気を付けてね」
おお、この世界にも魔物が跋扈するダンジョンがあるのか、とヴァルクレアは気を引き締めた。いざという時の為にいつでも攻撃・防御できるように心の準備をする。しかし、実際に着いてみると人が物凄く多くて、通路が複雑なだけで危険なことは何もなくて拍子抜けした。
何もないというのは言い過ぎだったかもしれない。秋江の後をついて歩いていると横合いから中年の男性が、ヴァルクレアに向かって突っ込んできた。明らかに体当たりを狙った行動だ。ぶつかろうとする直前についと前に出て回避すると共に後ろ足で相手の足を引っかける。おわっ、という声が響き無様に転倒する音を聞きながら後ろを振り返りもせずに足早に歩き秋江に追いつく。フン。無礼者め。本来ならば切り捨てたいところだが特別に許してやろう。
秋江に連れてこられたオウメという場所の山道は人も少なく、落ち着いたところでヴァルクレアの気に入った。良く晴れており空の下、心地よい春の空気の中をそぞろ歩く。この世界に人が多すぎることに窮屈な思いをしていたこともあり、新緑の香りに包まれていると心身が活性化されるのを感じる。
「こういう人気のないところもあるのだな」
「そうね。そういえば、クレちゃんの住んでるところってどれくらいの数の人が住んでいるの?」
「城内に30万人というところだな」
「へー。それじゃ結構な数じゃない」
「そうだが、あんなに狭いところに大勢が詰め込まれることはないぞ。それに城を出ればこのような山林が近くにあるからな」
「まあ、電車が混んでるときはしょうがないね。仕事に行く時間はもっとすごいんだよ。人が人の形を保てないっていうぐらいなんだから」
「それは、人に化けていた粘液状の怪物が正体をさらすということか?」
「違う、違う。もののたとえよ。それぐらいぎゅうぎゅう押されて手足がばらばらの方向に引っ張られるということ」
「それでは毎日疲れてしまうだろう?」
「そうねえ」
昼頃になり、適当な切り株に座って秋江が用意してきた食べ物を広げる。四角い箱の中には、色とりどりのものが入っていた。甘い味付けがしてある溶き卵を焼き固めたもの、鳥肉に下味をつけて揚げたもの、青い野菜を茹でたもの。それをご飯を三角の形に固めたおむすびというものと一緒に食べる。
一応、串が用意されていたが、外でこのように食べるときはこの世界でも手づかみで食べていいらしい。肩肘張らずに豪快に食べる食事は、派手さこそないもののこれはこれで美味であった。
「しかし、あっちゃんは本当に食べるものを作るのが上手だな」
「いやあ、大したことはないよ」
「いや。冷めると大抵のものは味が落ちるが、これはそんなことはない。実にうまいな。いくらでも食べれそうだ」
「そんなに褒められると照れちゃう。たくさん用意してあるから好きなだけどうぞ」
食事を堪能してから再び歩き出す。下生えの生い茂った見通しの良くない坂道を上り終わったところで、そいつに出くわした。真っ黒な体毛の人より巨大な四つ足の獣も突然現れた二人に驚いた様子だったが、さっと二本足で立ち上がり吠える。すぐ後ろにいた秋江を振り返ってみると蒼白な顔をしている。
「うそ。熊なんて。どうしよう」
ヴァルクレアは秋江を安心させるように笑顔を見せる。
「大丈夫。心配ない。あれはそれほど危険なのか?」
秋江が答えるよりも前に獣が近づいてくる。ヴァルクレアはその巨体を脅威と判断して、左の手のひらを相手に向け口早に呪文を唱えた。
「森羅万象の根源よ。我が眼前にて見えざる盾となれ。絶対障壁」
それと同時に獣が鋭い爪を持つ前脚をヴァルクレアに向かって振り下ろし、見えないものにぶつかってはじき返された。この世界での魔法の効きがどうか確信が持てなかったヴァルクレアは魔法障壁に意識を差し伸べ確認する。思った通り障壁は作り出したときのまま健在だった。詠唱付きで展開した魔法障壁ならこの程度の衝撃にはびくともしないことに安堵する。
余裕ができ、改めて観察すると目の前の獣は体毛の艶もなく、そこはかとなくやつれた印象を受けた。なるほど。冬の間餌が無くて腹を空かして人里に出てきたというところか。いや、この感じ、まさか。そうか哀れだがやむを得ないな。
右手に魔力を集中させると、左手を払う動作をして魔法障壁を解除する。
「魔弾の咆哮!」
こぶし大の輝きが獣の胸をとらえ炸裂する。血をまき散らしながら草むらにどうと倒れた獣はそのままごろごろと斜面を転がり落ち、木の幹に引っかかって止まった。2,3度体を動かすものの獣はやがて動かなくなる。
その方向に目を凝らしていたヴァルクレアだったが、目視でも気配でも相手が死んだことを確信し、再び秋江に向き直る。秋江は目を見開いて口をパクパクさせていた。ヴァルクレアは秋江の手を取りそっと握る。
「もう大丈夫だ」
しばらく、口がきけないでいた秋江もやっと声が出るようになる。
「い、今のは?」
「あれが私の得意な攻撃魔法だ。どんな守りの魔法も無効だ。以前話しただろう?」
「熊が襲ってきたとき、なんではじき返されていたの?」
「あれは防御魔法。使う魔力にもよるがあれを破壊できる衝撃はまずない」
「じゃあ、あの躾のなっていない犬が私に飛び掛かってきて地面に落ちたのも……」
「そうだ。私の仕業だ」
「それじゃあ、クレちゃんが私のことを助けてくれたのはこれで2回目なんだね」
「私の身を護るためでもあったから、そんな大したことじゃない」
秋江はヴァルクレアの手を両手で掴むと、その手を胸の前にあげて強く握りしめる。
「ううん。ありがとう。クレちゃんは命の恩人。すごいよ」
「いや。王であればこれしきのことは当然だ」
と言ってみるものの、ストレートな感謝と称賛の言葉を浴びて、ヴァルクレアは少し照れずにはいられない。
「本当に魔法が使えるんだね。信じてなかったってわけじゃないよ。でも、なんていうか、目の前で実物を見ると実感できるというか……」
「それよりも魔法はあまり使わないように言われていたんだが、仕方がなかったということでいだろうか?」
慌てて周囲を見回す秋江だったが、他に人がいないことを確認すると、
「助けてもらって文句は言えないよ。まあ、できるだけ知られないように気を付けた方がいいとは思う」
「気を付けよう。そうだ。なるべくここから離れた方がいいんじゃないか」
歩きながら、ヴァルクレアは先ほどの場面を思い返す。やはり、この世界の生物は魔法に対する基礎的な抵抗力が高いようだな。あのサイズの魔弾を食らえば即死するはずだが、あの獣はしばらく息があった。この世界に来てすぐ男に放った時も同様だ。あの時は体が小さくなっていたこともあるがやはり魔法に抵抗された疑いが強い。
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