あなたは誰?
秋江と動物園という所に出かけた翌日以降、ヴァルクレアは昼間は秋江のいない部屋でだらだらと過ごした。テレビを見たり、絵本を読んだりするものの基本は食べては寝るだけの生活だ。久しく剣の稽古をしていないとは思うが、剣も無いし部屋の中で暴れるわけにもいかない。
食べてばかりだが、秋江が作ってくれるものも、不在時に用意しておいてくれたものも、どれも満足できる味だった。これでは元の世界に戻った時に食事の味気無さに閉口するだろうと思わなくもない。たっぷりと食事を取ったお陰で、魔力も充実し、3個の魔晶石に余ったものを充填することもできた。
昼食後に軽く昼寝をして起きてみるともう外は暗くなっている。体の隅々まで魔力が満ち溢れているのを感じた。秋江に頼まれていた通りにカーテンを閉めると、なんとはなしに部屋の中を見渡し、ヴァルクレアは体を元に戻すことにする。体が小さなままではやはり色々と制約が多い。無理ができないし、いざという時の事を考えると不安だった。
大人の体に戻った後に秋江にどう説明するかが問題だが、それは体を元に戻してから考えることにする。時間を知らせる時計という物の短い針を見ると数字の6を差していた。ここ数日、秋江は8かそれを過ぎないと帰ってこない。まだ、しばらく時間はある。
ヴァルクレアは床に座り込んで、壁に背中を預けて体の緊張をほぐす。目を閉じて在りし日の自らの体を頭の中に思い描きながら、退縮反転の魔法の呪文をゆっくりとつぶやいた。痺れに似た感覚が頭の頂きから足の先に向けて広がり、骨が軋りをあげて伸び始め意識が一瞬フッと途切れる。意識が戻って目を開けてみるとまずスラリとした脚が伸びているのが目に入った。視線を動かすと手や腕も元に戻っていることが分かる。
立ち上がり洗面室の鏡に全身を映してみる。完全に元の姿に戻っていることに安堵すると同時に、子供用の服がはち切れんばかりの状態で体を締め付けていることに気づいた。裾は臍を辛うじて覆っている程度で下着が露わになってしまっている。
ヴァルクレアは自らのひどい格好に苦笑すると部屋に戻る。片隅に置いてある棚の中にこの世界に来るときに来ていた短衣が置いてあるはずだった。先に着替えておけば良かったと思いつつ、短衣を見つけそれを抱えてあげた途端、外への扉が開閉する気配がして、すぐに秋江が部屋に入ってきた。
「ただいま~。ヴァルクレアちゃ」
のんびりとした言葉が途切れ、秋江が息せき切って誰何する。
「ちょっと。あなた誰なの? ここで何を? ヴァルクレアちゃんをどうしたの?」
「私がヴァルクレアだ」
そう言ってみても秋江は反応しない。それはそうだろう。呆然とした表情のままヴァルクレアのことを見つめている。
「いい加減なことを言わないで。ヴァルクレアちゃんをどうしたの?」
「だから、私がヴァルクレアだ。信じられないだろうが、これが本当の姿だ。事情があって子供の姿をしていたが元の姿に戻ったのだ」
「そんなこと信じられるわけがないでしょう。急に大人になるなんて。魔法を使ったとでもいうの?」
「そうだ。その通り。魔法を使った」
ヴァルクレアの返事に秋江の顔に血の気が昇る。
「魔法だなんて。よくもそんなデタラメを。さあ、ヴァルクレアちゃんをどうしたのか言いなさい。さもないと」
荷物を投げ出した秋江がヴァルクレアに掴みかかってくる。ヴァルクレアはその手を避けると秋江の背後に回り、後ろから羽交い絞めにした。怪我をさせないように力加減には細心の注意を払った。そして、口早に秋江の耳にささやく。
「信じられないだろうが、本当に私はヴァルクレアなんだ。暴れないで欲しい。秋江を傷つけたくない」
秋江は自由になる足で思い切り、ヴァルクレアの足を踏みつける。その痛みに拘束が緩んだ隙に上半身の自由を取り戻そうと体をよじった。ヴァルクレアは引き続き秋江にささやき続ける。
「今まで色々なことをしてくれて感謝している。ここに住まわせてくれたことも、食事を与えてくれたことも、サクラの花を見に行ったことも……」
出会ってからの出来事を続けざまにいい続けていくうちに、秋江の体の動きがゆるやかになっていった。
「まさか、そんな。どうして……。ヴァルクレアちゃんとのことをあなたが知っているの?」
大人しくなったことを確かめてからヴァルクレアは秋江の体を離す。自分の方を向いた秋江に対して、服をたくし上げ、左の脇腹を見せる。
「この髪の色を見てくれ。ここではこの色の髪は珍しいのだろう? この傷跡にも見覚えがあるだろう? 私がヴァルクレアなんだ」
秋江は脇腹に視線を向けた。そして、風呂でヴァルクレアの体を洗っているときに気になった小さな傷跡と同じものを目の前の女の腹に見出し驚きの表情をする。
「そんな。まさか。それじゃあ、本当に……。でも……」
ぎゅるる。緊迫した状況に間抜けな音が響き、ヴァルクレアは赤面する。その姿を見て秋江の顔が見る見るうちに明るくなった。
数分後、ヴァルクレアは秋江に今までの事情を説明していた。秋江が買ってきた物をつまみながらの自分語りだ。時折、質問を挟みながら、秋江はフンフンとヴァルクレアの話を聞いている。その顔は少々赤い。手には黄金色の泡立つものが入った器を持っている。
「つまり、あなたはこの世界の人じゃなくて、悪い奴が送り込まれてこないようにこの世界を征服しにきたのね? うーん、ちょっと信じられないわね」
器に口を付け、黄金色の液体を喉に流し込んで秋江が言った。ヴァルクレアが黙って肩をすくめる。
「とはいっても、朝までは小さかったのにこんなに大きくなったのを見ると、丸っきりウソってわけでもなさそうよね。それで、ヴァルクレアさん……て呼んでいいのかな? それとも王様だから陛下と呼んだ方がいい?」
「ヴァルクレアでいい」
「じゃあ、遠慮なく。ヴァルクレアさん、これからどうするつもり?」
「これから先の話をする前にまず礼を言わなくてはならない。今までありがとう」
ヴァルクレアは頭を下げる。
「別にそんなに畏まらなくても。私が好きでしたことだし」
「いや。今思えばこの世界で初めて会ったのが貴方だったことは僥倖だったと思う」
「さあ、それはどうかしら。あんなに可愛らしい子が困っていたら誰でも同じようにするんじゃないかしら」
ヴァルクレアはそんなことは無いだろうと心の中で思う。窮地に付け込んで卑劣な要求をする人間はそれなりにいるものだ。
「散々世話になっていて、こういうことを言うのもどうかと思うが、このまましばらくはここに置いてもらえないだろうか? もし迷惑なら出て行く」
ヴァルクレアの発言を聞いて考え込む様子をしていた秋江が言う。
「出て行ってどうするの?」
「それはこれから考える」
「泊るところも無いし、お金も持っていないんでしょう? それにその格好だと怪しまれると思うよ」
「この服はそんなにおかしいかな?」
「珍しいのは間違いないし、肌の露出が多いから、男の人の視線を集めちゃうかも」
「別に視線を集めるような容姿ではないと思うが……」
「えー。そんなことはないよ」
「肌も白くないし、貴方のように魅力的ではない」
「そうかなあ。それに別に私もそんなに魅力的では無いと思うけど。あ、なんか話がそれちゃった。行く当てがないんだよね。それじゃあ、しばらく、ここに居ればいいよ」
「それは真か? いや、私にしてみれば有難い話だが、貴方にはそこまでする義理がないだろう?」
「まあ、それはそうなんだけど、この後、ヴァルクレアさんに何かあったら後味悪いしね。私の中ではあの小さい女の子のイメージが強いから」
「感謝する。いずれ必ずこの礼はすると約束しよう」
秋江は手のひらをヒラヒラと振りながら、
「えー、お礼なんていらないよ。この1週間刺激的で楽しかったし。代り映えしない毎日に変化をもらえてむしろお礼を言いたいぐらい」
「そう言ってもらえると心苦しさが少しは軽減されるな。ただ、この礼はいずれ必ずさせてもらおう。そうしないと私の気持ちが落ち着かない」
「じゃあ、いずれね。それよりも、ヴァルクレアさんて長くて呼びにくいから、クレちゃんて呼んでいい?」
「ク、クレちゃん?」
「あ、やっぱり、王様に失礼だったかな? とっても綺麗な色の髪の毛でしょ。
「可愛い? 私がか?」
「うん。可愛い女の子だと思うよ」
その言葉を聞いてヴァルクレアは頬を染め手で顔を隠す。城では聖王だの英雄だのとは言われても面と向かって可愛いなどと言われることはなく、そういう評価に慣れていない。
「べ、別に失礼ということはないぞ。秋江さんがそうしたければ構わない」
「そう。それじゃあ、私も秋江さんなんて他人行儀な呼び方はやめて欲しいな」
「では、なんと呼べばいい。まさか秋江お姉ちゃんというわけにもいかないだろう?」
「そうだなあ。前は良く『あっちゃん』て呼ばれてたけど。もうちゃんを付けて呼ばれる年でもないか」
そういって、あーはーはーと笑う秋江を見ていたヴァルクレアは一つ頷くと言った。
「あっちゃん。いい呼び名ではないか。貴方の優しさが良く表れていると思う」
「クレちゃん、やめてよ。なんか恥ずかしい」
「それではしばらく厄介になるがよろしく頼む。……あっちゃん」
「あ、うん。よろしくね。クレちゃん。そうだ。このまま腰を落ち着けて飲み始めたら動きたくなくなっちゃうから、先に買い物に行こう」
「買い物? 何を買うのだ?」
「ずっとその格好ってわけにもいかないでしょ。私の服を貸してあげるけど、流石に下着は嫌じゃない? よし、それじゃ善は急げよ」
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