秋江の世話好き
う~ん。これは反則。
目の前でマグカップを両手で持ち、ふうふうしながらココアを飲むヴァルクレアを見て秋江は身悶えせんばかりだった。もちろん、そんな気持ちは相手に微塵も悟られないように慎重に表情を作っている。
さきほど、ソファに座り絵本のページをめくっている姿も良かったし、小さな手で一生懸命洗濯物をたたむのを手伝ってくれた姿も良かった。だが、鼻の先を湯気で湿らせながら上目遣いでこちらを見ているこの姿は破壊力がありすぎる。これは危険だ。この子をきちんと世間の荒波から庇護せねば。決意を新たにする秋江であった。
でも、この子をどうしよう。結局、泣きつかれて今日一日ふたりで過ごしてしまったけど、きっと、この子のご両親も心配しているはず。やっぱり明日は警察に行かなくちゃいけないわね。
女の子は思い出したようにポケットから桜の花を取り出して眺めている。秋江の髪の毛から取った花だ。
「そのお花、いつまでもとっておきたい?」
「うん」
元気よく返事をするヴァルクレアの為に、桜の花をティッシュで挟み、さらに新聞紙で包んで上に重しを置いておいた。
「こうしておけば、水が抜けて、ずっと保存しておけるわ」
ヴァルクレアと一緒にお風呂に入り、髪の毛を乾かしてやってから、夕食の支度をして食卓についた。ずっと一人きりの食事をしてきただけに、目の前に人が居て、おしゃべりをしながら食事ができることが本当に嬉しい。自分一人の為だけにはそれほど手間をかける気になれないが、ヴァルクレアちゃんの為に頑張ってみた。
豚の生姜焼き、揚げとほうれん草の煮浸し、大根と人参の味噌汁。最近はほとんど料理をしていなかった割には悪くない出来栄えだと思う。ヴァルクレアちゃんもスプーンとフォークでよく食べている。お昼もかなり量があったからどうかと思ったが、気に入ってもらえたようだ。
デザートの苺を食べながら、口調を改めて切り出す。
「ねえ。ヴァルクレアちゃん。お父さんとお母さんも心配していると思うんだ。やっぱり警察に行こう?」
口に運ばれる途中の苺が急停止する。そして、それを皿に戻すとヴァルクレアが言った。
「お父さんもお母さんもいないよ。だから心配はしていない」
秋江は胸を突かれる。まさか、このような返事が返ってくるとは予想をしていなかった。
「えーと。お父さんとお母さんはどうしたの?」
「お父さんは病気で。お母さんは私を庇って死んじゃった」
目に悲しみを湛えるでもなく淡々と言うヴァルクレアに秋江の胸はつぶれそうなほど痛んだ。いったい、この子はどんな人生を送ってきたのだろう? 考える秋江に対して女の子が遠慮がちに言う。
「私がここにいない方がいい?」
「そんなことはないよ」
即座に秋江は否定をしながら、今更ながらこのようなことを聞いたことを悔やんだ。ただ、聞いてしまった以上は最後まで続けなくては。
「それじゃあ、ヴァルクレアちゃんがここにいて心配する人はいないの?」
「いないよ」
女の子の目を覗き込むと嘘を言っているようには見えない。これくらいの年齢の子は本人も認識しない嘘を吐くことがあるが、どうやらそういうことではなさそうだ。
「あのね。私は明後日からまたお仕事にいかなきゃいけないの。ずっと一人になっちゃうのよ。だから……」
「一人で大丈夫。いい子にしてるから、ここに居ちゃダメ?」
首をちょっと傾けて訴えるような目をしている女の子に抵抗できる秋江ではなかった。
「いいわよ。ヴァルクレアちゃんの好きなだけここに居ていいわ。だから、一つだけ教えて。あなたが私にあったあの場所にどうやって来たの?」
「良く分からない。変な男の人に追いかけられて逃げてたら、お姉ちゃんに会ったの」
まあ、聞いて分かるくらいなら苦労はしないわね。やっぱり、しばらくは私が預かるしかないのかな。話が全部本当だとすると何か大きな話に巻き込まれていたりして。実はこの子、お姫様か何かで命を狙われていたりするのかも。なーんて、まさかね。
「食事中に変なことを聞いちゃってごめんね。それじゃ、苺食べちゃって」
心配ないからね、と笑顔を向けるとフォークに手を伸ばして苺を食べ始めた。可愛らしいお口一杯に苺を頬張って幸せそうに噛みしめている。
翌朝、朝食を取りながら、今日はどうしようかと秋江は考えていた。いつもなら、土曜日は爆睡し、日曜日に渋々家事を片付けているとあっという間に夜になるというのが定番だったが、昨日規則正しい生活をしたおかげで、今日は自由に過ごしても支障が無い。
今日も天気は悪くなさそうだし、二人で家に籠っているのも女の子は退屈だろう。特に明日からは一人でお留守番だ。よし、今日はどこかに遊びに行こう。ぱくぱくと良くご飯を食べるヴァルクレアを見ながら決める。体が小さいのに本当に良く食べる。
一方で、この子を連れて歩くのは目立つわよね、とも心配する。昨夜のヴァルクレアの話を全て真に受けたわけではないものの、この目立つ赤毛の子を連れ回して何かあっても困る。帽子を被せてみるか。
近所の総合スーパーに開店と同時に入り、キャップを買って被せてみた。まあ、多少は目立たなくなった。外国人旅行者も増えているし、顔も隠れるので余程注意深く見ないとこの子と気づかれないのではないか。本人は帽子を被り慣れていないのか、何度も帽子に手をやっている。
自分が見立てたからというわけではないが、帽子はヴァルクレアに良く似合っている。ほっそりした体型もあって、帽子で顔を隠してしまうと男の子のようにも見えるが、これはこれで悪くない。
地下鉄に乗って、上野動物園に向かう。小さな子供と行く場所で、動物園というのが何とも安直だが、無難といえば無難。水族館とどちらにしようか迷ったのだが、折角の晴天なので屋外の動物園にした。上野広小路駅で降りて地上に出る。途中でおやつを買って弁天門から入った。
表門と違って、弁天門はそれほど混んでいない。大多数の人のお目当てであるパンダ舎から離れ過ぎているからかもしれない。パンダはどうせ大行列だ。他の動物をゆっくり見ればいい。あまり混むところだとヴァルクレアちゃんも退屈だろうし、私も疲れるからと秋江は考える。
不忍池を巡りながら、いくつかの動物を見て歩く。想像していた以上にヴァルクレアちゃんは動物に興味を示してくれた。ペンギンやキリン、カバなどは特に気になったようだ。西園を一巡りしたところでおやつを食べた。大きなどら焼きにかぶりつく。ふんわりとした生地がやさしい味だ。ヴァルクレアちゃんは結局3つも食べた。本当に良く食べる。
東園も概ね見て回って、だいたい2時間ちょっとの滞在になった。遅めの昼食を軽く食べて帰途につく。家に帰ると疲れたのか、女の子はソファで糸が切れたように眠ってしまった。秋江はヴァルクレアにタオルケットをかけてやりながら、寝顔をまじまじと見る。丸まってスヤスヤと眠る姿は母性を掻き立ててやまない。良く天使のような寝顔というが正にその通りだった。
昼寝をしているスキにぱっと買い物を済ませ、食事の支度をする。昼寝から起きたヴァルクレアと二人で風呂、食事。一人だけだとダラダラしてしまうのに、なんと規則正しい生活が送れていることだろう。寝る前に洗面所の鏡に映った自分の姿は生き生きとしていた。
自分はやはり世話好きなのだと改めて自覚する。叔母の志津香に言われていた事を思い出した。
「あっちゃんが世話好きなのはいいんだけど、ダメ男に惚れたら破滅よ。とことん尽くすだけ尽くして苦労するだけだからね」
ふふ。自然と笑みが漏れる。この子なら尽くしても問題ないわ。
静まり返った寝室でヴァルクレアの寝息が聞こえる。その音に耳を澄ましながら秋江は考える。このしっかりとした子なら将来大きくなっても私のように苦労はしないんだろうな。私と違って障害を乗り越えていく芯の強さを感じるもの。私ももう少し他人に強く出れたなら、今のような境遇に甘んじていなかったのだろうか。いや、よそう。明日は早く起きなきゃいけないし、無益な考えはやめよう。
秋江は手を伸ばして、ヴァルクレアの髪を一撫ですると毛布を引き寄せて眠りにつこうとする。規則正しいヴァルクレアの寝息を聞いていると心配していたよりも容易に秋江は眠りにつくことができた。
翌朝、食事を終え出かける前に、ヴァルクレアに食べ物の在りかや昨日図書館で借りてきた絵本のことを伝える。合わせて、暗くなっても秋江が帰ってこなかったら先に寝るようにとも言った。玄関でぎゅうっとヴァルクレアを抱きしめてから、秋江は家を出る。
「それじゃお留守番お願いね。いってきます」
***
それから1週間というもの、なんとか20時には帰宅できるように頑張った。まだ自分の裁量で時間を自由にできる立場ではなく、それなりに大変だったが、最後は半ば強引に失礼しますと挨拶して職場を離れる。どうせ、どんなに頑張っても評価してもらえないんだというどす黒い気持ちが滓のように心の中に沈んでいることもあったし、ヴァルクレアのことが気がかりで仕事どころではなかった。
そして、金曜日。終業時間になると同時に職場を飛び出す。この1週間というものあまり凝ったものを夕食に出せなかったので、ヴァルクレアが喜びそうなものをいくつか買って家路についた。悪戯心をおこし、いつもより早く帰ったことで驚かせようとそっとドアを開けてリビングに向かう。
そこにはサイズの合わない服を着て下着を丸出しにした見知らぬ女が立っていた。下着の表面に描かれた熊らしき動物の顔が大きく伸びてしまっている。緊急時というのに変なところに意識がいった。頭がやっと状況を理解始める。え? 誰?
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