秋江と桜

 秋江はマンションを出ると駅とは反対方向に歩きはじめる。マンションのエレベータに乗るときにちょっと怯えたような顔をしていたヴァルクレアの手をしっかりと握って、近くの緑道公園を目指した。


 なんて可愛いんだろう。自分の手をぎゅっと握る女の子を見下ろして秋江は思う。時折、唇で指を噛み大人びた表情をするものの、あどけない顔は心を鷲掴みにして離さない。昨夜から言葉を話してくれるようになったし、だいぶ打ち解けて来てくれたようだ。こんな子が欲しいなあと思いながら、そっと密やかなため息をつく。一人では子供は産めない。そんな相手は秋江に居なかった。


 高校生の時に一学年上の先輩に告白されてお付き合いを始めたが、すぐにそれが仲間内でのおふざけによるものだったことを立ち聞きしてしまい別れを告げた。その先輩は必死に謝ってきたがどうしても許すことができなかった。密かに憧れていた人の裏切り行為が心に残した傷はあまりに大きい。


 その後、大学時代に声をかけてくる男という男が、なんというか、あまりにひどい男ばっかりだった。二股状態からの三股目狙い、マルチ商法の勧誘狙い、秋江の飲みかけのグラスに薬を盛ろうとした男……。何かの呪いではないかとさえ思った。

 

 今の勤め先にも秋江の対象になりそうな男性が非常に少ない。ほとんどが既婚者だし、若手の男性も眼中には入らなかった。さすがに休憩スペースで昨夜の風俗の話を辺りに聞こえるような声で話す男性は御免こうむりたかった。それに昨年ぐらいまでは仕事が面白くてそれどころではなかったというのもある。


 人通りの少ない住宅街の裏道を目的地に向かって歩いているとヴァルクレアが質問してきた。

「どこに行くの?」

 さっき、余計なことを言ったせいか心配そうな声をしていた。


「桜の花がきれいな場所があるの。ヴァルクレアちゃんの住んでいるところに桜の花はあるかしら?」

「サクラ? 見たことない」

「そう。とってもきれいなのよ」


 周りの物をキョロキョロと物珍しそうに見ているヴァルクレアというこの子はどこから来たのだろう。先ほど警察に行くと言ったらとても怯えた様子を見せた。ひょっとすると不法滞在者なのかもしれない。まあ、今日一日は一緒に過ごそう。手がかからないし、騒ぐでもなく大人しい子だから、周囲に迷惑をかける心配も無い。


 考え事をしていた秋江の手をヴァルクレアが急に強く握る。気が付くと5メートルほど先で中型犬が唸り声をあげていて、その向こうにとぼけた顔をした初老の男性が立っていた。この界隈では有名なトラブルメーカーだった。気性の激しい飼い犬をノーリードで散歩させていてしょっちゅうもめ事を引き起こしている。


 まだ、人に直接怪我をさせたことはなかったが、小さな子に吠え掛かり、驚いた子供が走って転び怪我をしたこともあった。そんなときでも、うちの子は良く訓練してあるから噛みつくことはない、勝手に転んだんでしょうと言ってのけたという話だった。


 正直言って秋江も犬は苦手だ。子供の頃に追いかけ回された経験があり、大人になっても怖い。ただ、その点を差し引いても目の前の犬の様子はちょっと異常だった。いつものように無駄吠えをするでもなく、歯をむき出しにして、低く唸り声をあげており、口からは涎もたれている。まさか、狂犬病じゃないわよね。秋江は心臓が止まる思いがする。


 一応、日本には狂犬病ウィルスに感染した動物はいないはずだ。ただ、昨日までそうだったことが今日においても同じである保証はない。狂犬病でないとしても、こんな小さな子が自分より大きな犬に咬まれたりしたら、体と心に大きな傷を負うだろう。


 秋江は震えそうになるのを堪えながら、ヴァルクレアを庇うように一歩前に出た。肩からかけたハンドバッグを外し、手に構える。実用一点張りのものでしっかりとした作りだから、いざとなったらこれで力いっぱい打ち据えてやろう。恐怖よりも怒りと女の子に対する保護意識が上回る。


 すると、犬が駆けだし、大きくジャンプして飛び掛かってきた。スローモーションのように大きな口と牙が迫ってくるのが見え、ああ、これはダメだなと秋江は思う。その瞬間、犬は何かに当たったように目の前の地面に落ちた。頭を振って体制を立て直して再び飛び掛かろうとする犬の鼻先にスッとヴァルクレアが立った。


 危ないという声をかける間もなく、ヴァルクレアの手が犬の鼻先に伸びる。するとキャウンという情けない声を上げて、犬は飛び退った。そして、尻尾を股の間に挟みながら、飼い主にも目もくれず一目散に走り去った。ニヤニヤ笑いからまずいという表情に変わっていた男性も慌てて犬の後を追いかける。


 ガクガクとするひざを抑えつけるようにしゃがんで秋江はヴァルクレアを後ろから抱きしめる。振り返ったヴァルクレアの目は輝き満足そうな表情を浮かべていた。

「大丈夫? 怪我はない?」

 その問いかけにコクンと頷く女の子。体の向きを変えると力いっぱい抱きついてきた。そのまま頬を秋江の頬にすりすりと擦り付けてくる。


 脚の震えが収まると抱擁を解き、立ち上がって手をつなぐ。あの犬急にどうしちゃったのかしら? 実は見掛け倒しで弱虫だった? まあ、二人とも怪我が無くて良かった。安心すると同時に、無責任な飼い主への怒りが湧きおこってきた。

「まったく、飼い犬の管理もできないなんて。きちんとリードにつないでないと」


「リードって何?」

「ああ、紐のことよ。本当はあんな風に飛び掛からないように犬の首輪に紐をつけて、それを握ってなきゃいけないの」

「では、あの人は悪い人なの?」

「悪い人かはともかく、いい人ではないわね」


 しばらく歩いて、目的地に着いた。橋の脇を降り、川を埋め立てた緑道公園に入って桜の木に向かって進んでいく。あちこちにビニールシートが引かれており場所取りがしてあるが、午前中ということもあってまだ宴会をしている姿は少ない。


 薄桃がかった白い色の五弁の花が咲き誇っていた。満開は少しすぎているのかもしれない。風が吹くと広い花びらがひらひらと舞い落ちてくる。今年もこの景色が見れた。微かなあるかなしかの花の香りに包まれる。胸に満足感と高揚感、そして一抹の切ない気持ちがあふれる。


 無意識のうちに呟きが漏れる。

「願わくば花の下に春死なん。この如月の望月の頃」

 ハッと気づくと女の子の手の感触が無い。慌てて周囲を見渡すと少し離れたところに立ち秋江の姿を見ていた。


 秋江の視線に気が付くと駆け寄ってきて弾んだ声で言う。

「とってもキレイ」

 目が潤み陶然としていた。

「お姉ちゃん。ちょっと座って」


 秋江がしゃがむと髪の毛についと手を伸ばし、髪の毛についていた桜の花をつまむ。その花をワンピースのポケットに大事そうにしまった。昨日、秋江が帰り際に他の物と一緒に買って帰った服だ。

「これは秋江お姉ちゃんのお花」

 そう言って嬉しそうなヴァルクレアの姿を見ていると心が和む。


 もう少し、ここに居たい気もするが、だんだん人も増えてきた。酔っ払いに絡まれるのも嫌なので、少し早いがお昼にしよう。

「それじゃ、お昼を食べに行こうか?」

「うん」


 再び手を繋いで、お気に入りのイタリアンに向かう。出る前に電話をしたら幸いに席が取れた。住宅街の中にあるお店で駅からも近くはない。それでも、予約なしでは入れないお店だった。この町に住んで数年になるが、このお店がある限りは住み続けてもいいなと思うくらいには気に入っている。


 緑道に面した建物に入っていくと顔見知りの店員が挨拶する。すぐにテラス席に案内された。外で食事をするのに快適な季節にはまだ少々早い。ただ、この店は店内は小学生以下の子供はご遠慮くださいとなっている。ランチタイムにテラス席に限り子供同伴でも入ることができた。


 二人分のオーダーを手早く済ませる。前菜のサラダをつついているとメインが運ばれてきた。頼まなくてもシェアするための取り皿を用意してくれるのがうれしい。シラス入りのトマトソースのパスタとエビのリゾット。自分の分とヴァルクレアの分を取り分ける。


 一口食べて、ヴァルクレアは目をクリクリとさせて驚いていた。このお店の鉄板メニューの2品なので当然だ。程よい酸味と旨味のトマトソースと臭みのないシラスが調和したスパゲティーニも一押しだが、エビの旨味の凝縮したリゾットは一度食べたら忘れられない味。目の前に海が広がり、潮騒の音が聞こえる気がする。


 皿に残るソースをバゲットで丁寧に拭って残らず食べる。お行儀がどうのという話は関係ない。これを残す方が料理に対する冒とくだ。秋江の真似をしてヴァルクレアもお皿のソースを残らず堪能しているようだ。バゲットが無くなり、まだ残っているソースを眺めていたが、指ですくって口に入れていた。


 その姿を秋江に見つかり、たちまち恥ずかしそうに頬を染める。

「お行儀は良くないけど、仕方ないわよね。お家なら、お皿舐めちゃうかも」

 そう言ってやると、うんうんと頷いている。

「それだけ気に入ってもらえたなら私も嬉しいわ」


 食後の余韻に浸っているとデザートと飲み物が運ばれてくる。チーズケーキとカスタードプリンを頼んだら、最初から半々にして盛り付けてくれていた。自分はコーヒー、ヴァルクレアには紅茶の用意がされ、デザートにスプーンを入れる。


 まずはチーズケーキ。どっしりとしていて濃厚なチーズの風味が効いている。少しずつ口に入れないと顎が張り付いてしまいそうになるほどねっとりしている。次にプリン。ここのプリンはしっかりと焼いてあって固い。甘さは控えめでバニラの香りがしっかりとする。ちょっと甘くなった口をコーヒーの苦みが和らげる。ああ、幸せ。


 ヴァルクレアが食べられるか心配したが、それは杞憂だったようだ。幸せそうに二つのデザートを交互に食べている。あっという間に無くなって、最後の一口を名残惜しそうにスプーンで口に運んでいる。空になったお皿を残念そうに眺めていたが、スプーンを置き、紅茶を口に含んだ。

「お姉ちゃん、とっても美味しかった」


 お店の人がコーヒーと紅茶のお代わりを勧めに来てくれたが、少し風が出てきたのでお勘定を頼む。伝票を持ってきたので、千円札を4枚置いた。その様子をヴァルクレアはとても興味深そうに見ている。お釣りの硬貨を財布にしまい、ご馳走様と言って店を出た。


 

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