魔力付与者
「ちょっと待っててね」
そう言って秋江は先にこのタイル張りの小部屋を出て行き、ごそごそと何かをしていたが、白い布を胸から下に巻き付けて再び入ってきた。ヴァルクレアをお湯から抱えて出し、板を以前と同じように戻す。
もう1枚のふわふわと柔らかい布を使って、ヴァルクレアは全身の水滴を拭きとられる。まるで鳥の羽のように軽く柔らかな布の肌触りはうっとりするほど滑らかだった。髪や体をこすられてもちっとも痛くない。しかもあっと言う間に体の水滴が拭きとられている。体を拭き終わると、小さな三角形の布を履かされと夜着を着せられる。
次いで、引き出しから取り出した太い筒の先の線を壁についている穴に差し込む。筒の一部を秋江がさわると轟音とともにそれは熱風を吐き出した。その熱風を使って秋江はヴァルクレアの髪の毛を乾かしていく。あの筒の中に火の精霊を閉じ込めてあるのか? 乾くと秋江が櫛を使って丁寧に髪をすいた。暖かく清潔な体となりヴァルクレアは眠気を感じる。
秋江は足を折って座ると膝の所に仰向けに寝るように言った。
「一杯食べたから、ちゃんと歯を磨かないとね」
秋江に口の中に小さな器具を突っ込まれて、最初は抵抗しようとしたヴァルクレアだったが、すぐに危害を加えるわけではないと気付き大人しくなる。歯と歯茎の表面を熱心にこすると抱え起こし、ヴァルクレアに水で口を漱ぐように言う。
何の為の行為か分からなかったが、鉢に吐き出した水を見て納得する。なるほど、口の中の汚れを取るためのものか。確かに塩を指に付けてこするよりはさっぱりする。
ヴァルクレアが観察している前で、秋江は自分の髪の毛も乾かし、服を身に着けるとヴァルクレアを連れて、入り口に近い部屋に移動する。
「遅くなってごめんね。さあ、寝ましょう。いい子は夢を見る時間よ」
促されてベッドに上ると、これまた驚くほど柔らかい。布はさらりと肌を心地よく撫でる。一旦部屋を出て戻ってきた秋江がベッドに入って来るとヴァルクレアを抱くようにして、背中に手を回した。背中をやさしくポンポンと叩きながら、何かゆったりとした節で歌を歌い始める。その声を聞いているうちにヴァルクレアは深い眠りに落ちて行った。
ヴァルクレアが息苦しさに目を覚ますと顔が何か柔らかいものに押し付けられていた。はっとして身をよじると案に相違して簡単に逃れることができる。誰かに窒息させられそうになっていたわけではないことに安堵した。薄暗さに目が慣れてくると、自分が秋江という女の胸に顔を埋めて寝ていたことに気づく。自分の勘違いに笑い出しそうになるのを堪えながら体内の様子を探る。
昨夜たっぷりと食事を取ったお陰で、魔力が大幅に回復しているのを感じる。通常、食事を通しての回復量はこれほどないことを考えると、この世界の食事は体により多くの力を与えることができるのだろう。確かにあの素晴らしい味ならばそうであっても不思議ではない。
さて、この魔力をどう使うか。非常時に備えてある程度は蓄えておくとして、ほんの少し使ってみるか。ヴァルクレアは退縮した体の隅々まで思い浮かべ、体内の魔力を変換し供給する。
「危急存亡の秋に臨みて、縮みし血と肉と骨よ。与えし魔力を糧に元の姿へ。退縮反転」
うまくいったようだ。今回の施術はテストなので極わずかだけ体を元に戻した。一気に元の姿に戻れない以上、子供の姿のままの方がこの秋江という女の庇護を得られていいだろう。なにやら騙すようで気が引けたが非常事態なのでやむをえまい。いずれ何らかの形で礼をすればいいだろう。
しかし、この秋江という女は一体何者なのだ? 安らかな顔をして眠る女の体は隙だらけだ。それでも、この私の魔法で支配下に置こうとして失敗している以上、只者ではあるまい。もう一度試してみるかと考えたが、貴重な魔力の無駄遣いになるだけだと思いなおす。
ヴァルクレアは秋江の腕をムニムニと触ってみた。女らしく柔らかい肌で戦闘訓練を受けているとは思えない。自分の筋肉で引き締まった体とは大違いだ。様々な魔具を使いこなす姿からするとサポート役の魔法使いなのかもしれない。きっと優秀な
まあ、この私に敵対して攻撃してこないならばとりあえずは問題ない。この世界のことはまだ良く分からないのだし、すべてがあの邪神に与するというわけでもないかもしれないしな。納得がいったヴァルクレアは再び眠りにつく。
次にヴァルクレアが目を覚ました時には、横に秋江の姿はなかった。いったいどこへ行ったのだろう。暖かい毛布の中から出るのは億劫だったが、飛び起きて食事をした部屋に行ってみる。部屋に入る前から暖かくいい香りが漂ってきた。
「あら、ヴァルクレアちゃんお早う」
「お早う」
返事を返すヴァルクレアを見て秋江は首をかしげる。目線で上から下までヴァルクレアを見ていた。まずい、少し体を戻し過ぎたかもしれない。昨日より身長が伸びているのを感じていたが、ここは誤魔化すに限る。
「どうしたの?」
「ううん。何でもないわ。顔と手を洗ってきて。もうすぐ朝食ができるわ」
言われたとおりにして戻ると低い台の上には、いくつかの食べ物が湯気をあげている。
真っ白く粒粒としたものと茶色のスープ、卵を焼いたものと、おそらく魚の切り身を焼いたとおぼしき薄赤色のものが並んでいる。秋江の前にだけ茶色い豆が置いてあった。
「今日はワショクにしてみたの。お口に合うかしら。それじゃ、頂きます」
この世界では食事の前に唱和する儀式をするのだな。頂きます、といいながらヴァルクレアは考える。秋江を見ると2本の棒を使って器用に料理を口に運んでいた。ヴァルクレアの前には匙と先が4つに分かれた金属製の器具、秋江がスプーンとフォークと呼ぶものが置いてある。
白い粒粒をすくって口に運ぶ。少し粘り気があり、噛みしめるとほんの僅かに甘い味がした。スープは少し塩気がきつく、今まで味わったことのない香りと味がする。卵を口に入れると汁がじわっとあふれる。パクパクと食べ進めている秋江の様子からするとこれがこの世界の通常の食事なのだろう。変わった味ではあったが嫌な感じはしない。
秋江が豆を白い粒粒の上に移すのを見て、ヴァルクレアはびっくりする。
「だめ。糸が引いてる。悪くなってるよ」
ヴァルクレアの警告の声に秋江はほほ笑む。
「これはナットウというの。腐ってるわけじゃないから大丈夫よ」
あんなに糸を引いている物を食べて大丈夫なのだろうか、というヴァルクレアの心配をよそに秋江はナットウという食べ物を無造作に口に入れた。
「ヴァルクレアちゃんにあげてもいいけど、匂いが気になると思うからやめておくね」
いや、気持ちだけで結構だ。心の中で思いながらヴァルクレアは首を横にブンブンと振る。こんなに美味しいものがいっぱいあるのに、あんなものを食べなくてもいいだろうに。まてよ。それでも食べるということは、死ぬほど苦い薬草の煎じ汁と同様に何かの効果が高いのかもしれない。次回、機会があれば試してみよう。
ゴハンという白い粒粒が気に入って、お替わりまでして食べてしまった。食事が終わって、暖かいお茶を飲んでいるとヴァルクレアはお腹が痛むのを感じる。
「ごちそうさま」
そう言って、不浄の間に向かう。
不浄の間、お手洗いと呼ばれるところまでついてきた秋江がヴァルクレアを座らせながら言った。
「終わったら、ここを押すと洗ってくれて、こっちを押すと乾かしてくれるわ。止めるときはこれね」
用を済まして、ヴァルクレアは先ほどの話を思い出す。確かこれを押すと洗うと言っていたが、どういうことだ? 使い魔でも呼び出すのだろうか? そう思いながら言われた場所を押す。
「ひゃああっ」
思わず声が漏れてしまう。事前に聞いていたからまだ良かったものの、そうでなければ飛び上がっていたところだ。外から秋江の声がする。
「どうしたの?」
「ちょっとびっくりしただけ」
最初は驚いたものの暖かい水で洗い流されるのは気持ちが良かった。これは布や紙で拭くよりも快適だな。もうそろそろいいだろう。洗うのを止めて、乾かしてくれるというものを押す。温風が出てきて濡れた場所を乾かし始めた。どうやら、昨夜髪の毛を乾かしたのと同様の仕掛けらしい。
しかし、一体いくつの精霊を使役しているのだろう? 姿が見えないことからするとこれらの魔具に拘束されて働かされているようだ。水に火、光に冷気、比較的扱いやすいものから悪戯者まで多くの種類と数を使用している。秋江という女は精霊の扱いにも長けているのか。
うーむ。やはり、どうにかしてこの秋江という女を篭絡したい。我が城の上級顧問として迎え入れるという条件で配下にすることはできないだろうか。既に誰かに雇われているとしても気前よく報酬を出せば可能性はあるかもしれない。そんなことを考えているうちにすっかり乾いていた。温風を止め座面から飛び降りる。
お手洗いから出て、秋江の所に戻ると、
「ヴァルクレアちゃん、お手洗いから出たら、ちゃんと手を洗いましょうね。病気になるわよ」
ふーん。手を洗うことで病気を防いでいるのか。これは興味深いな。言われた通り泡をこすりつけ水で流す。
部屋に戻ると仕切りの向こうで秋江が器を洗っていた。水を流したまま器を洗うその姿を見て、改めて水の豊富さに驚きを覚える。一度、城の厨房を覗いたことがあったが、桶に張った水の中で洗っていた。専用の水源をもつ城ですらそうだというのにどういうことなのだろう?
洗い物を終えた秋江がヴァルクレアのところにやってきて言う。
「それじゃ、着替えて、お巡りさんのところに行きましょう。あなたのお家を探してもらわないといけないわね」
お巡りさんか。この世界の巡視隊のところに連れていかれると厄介だな。どの程度の腕前かは知らぬが、この秋江という女と違って、私の身分を探ろうとするに違いない。別世界から来たというのがバレると面倒なことになりそうだ。ましてや、あの邪神の影響下であったりしたら目が当てられない。
「イヤ。行きたくない。私、秋江お姉ちゃんと一緒にいる」
さて、どうやって切り抜けるか。このタイプなら泣き落としといこう。目にいっぱい涙を溜めて、ふるふると震えながらヴァルクレアは秋江を見つめた。
「イヤ……」
秋江は胸を突かれたような表情をするとヴァルクレアを抱きしめる。
「ごめんなさい。そんなつもりじゃなかったの」
思った通りだ。ちょろい。涙ひとつでこうなるとは、この女大丈夫なのか? 今までもだいぶ他人に騙されてきたんじゃないだろうか? 思わず余計な心配をしてしまう。
秋江の肩に顔を乗せながら、してやったりと思っていると、背中をさすりながら、強く抱きしめてくれる。ヴァルクレアの鼻腔を秋江の甘い香りがくすぐる。胸の内に沸いた罪悪感を打ち消すように頭を振る。まあ、非常事態だからな。
「分かったわ。もう、お巡りさんのところに連れて行くなんて言わないから安心して」
秋江は抱きしめていた手をほどき、顔と顔を近づけるようにしてヴァルクレアに言う。
ヴァルクレアは悲しそうな表情を装いながら、小さな声を出す。
「本当?」
「本当よ。私がなんとかしてあげる」
「ありがとう」
秋江は離れたところに行き、箱から何かを引き出して戻ってくる。
「さあ、これで涙を拭いて、鼻をかんで」
渡されたのはお手洗いという場所にあった紙に似たごく薄い紙だった。向こう側が透けるほどの薄さだ。
涙を拭き、鼻をかむ。ここではこういうときに布を使うのではないのか。濡れた紙をどうするか考えていると秋江が受け取り、近くの籠に入れる。随分と気前よく何でも一度限りで廃棄することにヴァルクレアは驚く。
「それじゃ、ちょっと待っていて」
あの黒い板に映像を浮かび音が出る。ヴァルクレアがそれに気を取られている間に、秋江は何やら大きな音を立てて作業を始めた。しばらくすると先に横棒がついている杖を使って床の上をなぞり始める。こちらの杖も大きな音を立てていた。
黒い板の画像に夢中になっていてふと気が付くと、秋江が衣類の束を抱えて、玻璃の窓の外に出て行く。そこの棒に衣類の束を掛けていた。どうやら日に当てて乾かすつもりのようだ。それが終わると秋江は服を替え、ヴァルクレアにも着替えるように言った。
いぶかるようなヴァルクレアの表情を見て、秋江は安心させるように言う。
「大丈夫よ。ちょっとお出かけするだけ。天気もいいしね」
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