帰宅

 ヴァルクレアが黒髪の女を出迎えると目を合わせて聞いてきた。

「寂しくなかった? お腹が空いたでしょう? 今すぐ支度するからね」

 おお、何と言っているか理解できるぞ、ヴァルクレアは心強くなった。

「寂しくはない。お腹は空いた」

 ヴァルクレアが返事をすると黒髪の女は目を丸くする。


 手に持っていたものを床に置きながら、女はしゃがんで目線をヴァルクレアと合わせる。

「やっと口をきいてくれたのね。私は秋江というの。お名前は?」

「ヴァルクレア」

「素敵なお名前ね。じゃあ、ヴァルクレアちゃん、すぐに食事にしましょう」


 秋江は器や皿を低い台に置き、食べ物を並べる。黄色い卵に包まれたもの、肉の塊に茶色のソースのかかったもの、それに何かの粉のようなものに包まれた細長いもの。鳥肉とおぼしき薄茶色の塊と緑色のスライスしたものが乗った野菜。ヴァルクレアには見たこともない物ばかりだが、とてもおいしそうだ。


 料理の横に玻璃の容器に入った何かの汁が置かれる。香りからすると林檎のしぼり汁のようだ。秋江という女の容器に入ったものからは細かい泡が立ち上っていた。


 手を洗うように言われたので、ヴァルクレアは手を洗ってきてローテーブルに座る。

「いただきます」

 秋江がそう言うので、ヴァルクレアも意味が分からないなりに何かの儀式なのだろうと考えて繰り返した。


「好きな物を取ってね」

 言われるがままに、ヴァルクレアはいくつかの食べ物を自分の皿に取り寄せ食べ始める。いずれもヴァルクレアにとってみれば見たことのないものが多い。フワフワと柔らかい卵に包まれたもの、ひき肉を固めて焼いたもの、何か弾力のあるものを揚げたもの、いずれも名前は分からないが衝撃的なおいしさだった。単に塩辛いだけの味付けではなく、複雑な味がするうえに、どれもあまり硬くない。

 

 少々味付が濃すぎるような気がして、ヴァルクレアは透明な容器に入った液体に口をつける。いい香りとともに新鮮な林檎の果汁の味が口の中いっぱいに広がった。この世界は苺と林檎を同じ時期に産するらしい。今朝苺を食べたことを思い出しヴァルクレアは推測しながら、秋江が注いだ林檎の果汁をまた飲み干す。


 気が付くと皿にはもうほとんど料理が無い。空腹のあまり、また、この秋江という女の差し出す食べ物を浅ましくも食べてしまった。その後悔の念と共に、なぜ、この女性が自分に親切にしてくれるのだろうかという疑問をヴァルクレアは抱く。そして、今までの礼を言ってないことにも思い至った。

「食べ物、ありがとう」

 なんといっても、育ちのいいヴァルクレアだ。他者から受けた親切に対し、礼を失したままというのはありえない。


「あら、きちんとありがとうが言えるのね。偉いわ」

 秋江はヴァルクレアを見てほほ笑む。何かを考えるようなしぐさをして頷く。そして、少しためらいを見せたあとに質問をした。

「ヴァルクレアちゃん。どうしてここにいるの? おうちは? 家族は?」

 

 ヴァルクレアはしばらく考えて、返事をする。まだ、すべてを明らかにしない方が良さそうだ。

「おうちは遠く。私はひとり」


 その返事を聞いて、秋江が心配そうな表情をする。

「それは困ったわね」


 思案顔を始めた秋江を見て、ヴァルクレアは確信を持つ。この秋江というのは、おせっかい焼きの善良な女だ。自分を非力な少女と見て保護したに過ぎないのだろう。魔法を受け付けないのが疑問だが、必要以上に警戒をしなくても良さそうだ。この世界はあの邪神の完全な影響下にあると危惧していたが、そうでもなないのかもしれない。


 そこまで考えているとヴァルクレアは困ったことに気づく。どうやら飲み物を飲みすぎたようだ。尿意が段々と強くなってきているのを感じる。そんなもじもじするヴァルクレアを見た秋江は察し良く立ち上がった。

「飲みすぎたのね。こっちへいらっしゃい」

 ヴァルクレアの手を引き、入り口の方に連れて行く。

 

 秋江に連れていかれながら、ヴァルクレアはほっとしていた。やはり、あそこが不浄の間だったのだな。今の私にはあの甕は少々大きすぎるのだが、どうしようか。そう思っているヴァルクレアの目の前で、甕の蓋がひとりでに開く。さすがに魔法の無駄遣いではないか、いや、不浄の甕の蓋に手を触れずに済むのはいいな。


 秋江がヴァルクレアの短衣をつかみ下にずり降ろすとヴァルクレアを抱えて便座に座らせる。落ち着かなげに座るヴァルクレアを見て、秋江は声をかける。

「終わったら、言ってね」

 トイレを出て扉を閉めた。


 甕には座面があり、腰かけられるようになっているがヴァルクレアには少々大きい。落ちないように気をつけながら下を覗くと、甕はゆるくすぼまり水が溜まっていた。取りあえず用をたそう。ふう。危機が去って余裕ができたが、この後はどうするのだ? 城にいるときは侍女が後始末をしてくれたが、布も汚物入れも見当たらない。まあ、声をかけるとするか。


 ヴァルクレアが終わったと声をかけると、秋江は扉を開ける。足の付け根を拭かれながら、目の前の白い筒状のものが薄い紙を巻いたものだったことにヴァルクレアは驚く。なんという柔らかさだ。城で使っている粗い布と比べて肌触りが全く違う。秋江がその紙を甕の中に落とすのを見て、ヴァルクレアは困惑する。そんなことをするとすぐに一杯になるし、処理が大変になるだけなのにどうするのだ?


 言われるままに甕から滑り降り、ヴァルクレアが短衣を身に着けていると背後で甕の蓋がしまった。秋江が手を動かすと甕の中で何か激しい水音がする。秋江について小部屋を出たものの、気になって戻ってみると、蓋が空き中が見える。そこには先ほどの紙はなく、澄んだ水にさざなみができているだけだった。


 ヴァルクレアがついて来ないのためだろう、秋江がもう一度声をかけてきたので、洗面所に向かう。秋江がヴァルクレアの手を洗ってくれる。やたら、手を洗うのだな。水が豊富だからなのだろうか。それとも何か意味があるのか。


 部屋に戻るとまだいくつか残っている。目線をむけるとどうぞと言われたので、ヴァルクレアは喜んで頂くことにする。その間に、秋江は仕切りの向こうに消え、何か音を出して作業をしていた。しばらくすると何かの箱と新たな飲み物を運んでくる。皿の上の料理がきれいに片付いているのを見て聞いてきた。

「おいしかった?」

「うん」


「まだ食べれるかしら?」

 そう言って、箱から色鮮やかな果物が乗った菓子を取り出す。なんと甘い物まで用意してあるのか。城でも滅多に食べられない甘い物を前にして思わずつばを飲み込む。

「好きな方をどうぞ」


 ヴァルクレアは艶々とした赤い苺を薄く切ったものがいくつも乗る菓子を選び、口に入れる。苺は想像していたよりもずっと甘く、それでいて程よい酸味があった。その下の黄白色のクリームはなんとも言えない良い香りがする。かなりの量の食事をした後だったが、この菓子のおいしさはそのことを忘れさせるほどだった。無我夢中で食べてしまう。


 ああ、またしても、この魅惑の食べ物の力に屈して、わき目も降らずに食べてしまった。王たるもの、もっと上品に食事をしなくては。いや、そうではないな。この食べ物は危険だ。もし、何らかの毒物を仕込んであっても食べてしまうのではなかろうか。それ以前に、この秋江という女は料理した様子も無いが、次から次への料理が出てきた。いったいどのような魔法を使っているというのだ?


「ヴァルクレアちゃん、どうしたの? おいしくなかった?」

「ううん。おいしかった」

「それなら良かったわ」


 ヴァルクレアは秋江が自分を気遣っていることに気づき、難しい表情をするのを止める。まあ、今更、そのような心配をしても始まらない。これで明日にはだいぶ魔力も回復するだろう。


「あまり寝るのが遅くなってもいわね。いらっしゃい」

 秋江は台の上のものを仕切りの向こうに運ぶと、手を洗った場所にヴァルクレアを連れて行き、服を脱がせた。見下ろすとお腹がぽっこりと出ている。

「あらあら、ちょっと食べ過ぎたかしら?」


 服を脱がされ、首からかけていた宝石も外されそうになるので、慌ててその手を止める。

「濡らさないようにするだけ。取り上げるわけではないから」

 皮のペンダントを首から外され台の上に置かれる。


 体を布で清拭するのかと思っていたら、自分も服を脱いだ秋江にタイル張りの小部屋に連れていかれる。そして、小さな穴が無数に空いた金属製の筒から細かい水を出してかけられた。冷たい水を浴びせられることを予測して身をすくめたが、予想に反して暖かなお湯だった。


 目をつぶって居るようにと言われるとヴァルクレアは髪の毛を濡らされ、花の香りのようないいにおいのする泡で洗われた。秋江の指はその腹で地肌を揉むようにさすりとても気持ちがいい。頭髪に付いた泡をお湯で流し終わると、別のものを髪の毛にすりこまれる。そして、今度は別の香りがするもので、顔から首、肩、腕と上から下に向かってやさしく洗われた。特に耳の後ろを念入りに。抱きかかえるようにして、足の指を洗われると少しくすぐったかった。


「先にお湯に入っていて」

 秋江が灰色の板をのけるとお湯を張った大きな棺のようなものが現れる。ヴァルクレアは秋江に抱きかかえられ、その中に入れられた。言われるままにその中にしゃがんでみると暖かく、体が解放される感じがする。

 

 お湯の中で座りながら見ていると、秋江は自分の髪と体を手早く洗っている。改めて見ると、黒い髪と対照的に白く透き通った肌をしており、体つきはヴァルクレアよりも肉付きがよかった。何やら、ヴァルクレアには使わなかったものを使い念入りに顔を洗い終わると髪の毛をまとめ布で包むと秋江も湯の中に入って来る。


「お風呂に入るのは初めて?」

 ヴァルクレアが頷いて見せると、

「どう? 気持ちいいでしょ?」

 伸びをしながら、秋江は目を細める。少し、上気して頬を薄い紅色にした姿はヴァルクレアの目からしても大人の女性の魅力に溢れている。しばらくすると秋江があくびをした。

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