秋江と迷子

 沢渡秋江はタクシーを家の近くのコンビニの前で止めると金を払って降りた。肩にかかるカバンが重い。薄明るくなり始めた周囲の明かりで腕時計の時間を確かめる。午前5時30分。これから家に帰り、シャワーを浴びてギリギリ1時間の仮眠が取れるかどうか。ふああ、と一つあくびをして家路を急ぐ。


 東京23区内とは言え、この時間の空気は清々しい。まだ寒い4月の空気は秋江にとって不快ではなかった。コンビニの所から入った脇道を足早に2分ほど歩いたところで、近道をすることにする。本当ならば真っすぐ行って右折するのだが、斜めに抜けると少しだけ距離が短くなる。少しでも早く家に帰りたかった。秋江は道を曲がり、心の中で頭を下げながら、家の近所の神社の鳥居をくぐった。


 正面のお社の下、階段を降りたところに赤毛の女の子がいるのが目に入る。朝日を浴びて光る髪の毛がルビーのように見えた。女の子はまだ就学前の年頃だろうか、体に合っていない不思議な光沢のミニドレスを着て、年齢に不釣り合いな厳しい表情を浮かべている。なぜ、こんな時間にこんな小さい子がと思いながら、秋江は女の子に声をかけてみることにした。基本的にお人よしで放っておけない性分なのだ。


 1メートルほど離れた場所に行き、女の子の正面から少しずれたところにしゃがみ込むと声をかける。

「えーと。こんな時間にどうしたのかな? お家分からなくなったの?」

 そう言って、飛び切りの笑顔をしてみせる。まあ、10時間の残業を終え、目の下に隈ができている状態しては最高の笑顔だろう。


 女の子は手を複雑に動かし、口をもごもご動かし始めたが、急にやめると、何か話しかけてくる。しかし、何と言っているかさっぱり分からない。あまり秋江は得意ではなかったが英語ではないのは分かった。フランス語?

「ごめん。その言葉は分からないんだ。日本語は……分からないわよね」


 うーん。困ったな。あと、2時間ちょっとで家を出なければならない。今日は来年度の新卒向け会社説明会だ。何があっても休めないが、最近、不審者がでるという話だし、こんな小さな可愛い子を放っておくわけにはいかない。かといって、警察に連れて行けばすぐに開放してはもらえないだろう。秋江は疲れた頭で考え、すぐに決めた。


「ね。私の家においで。後で、一緒におうちの人探してあげるから」

 そう言ってみるが、女の子は硬い表情を崩さない。はあ、そうよね。言葉が通じないんじゃあね。秋江が仕方ない警察に頼るしかないかと思い、バッグを開けてスマートフォンを取り出そうとしたときに、女の子のお腹がぎゅるると鳴った。見る見るうちに女の子の顔が赤くなる。はにかんだ表情の女の子の顔はとても可愛いい。


 秋江がバッグをのぞきこむとスマートフォンの横に菓子パンの袋が見えた。練乳入りのクリームパン。甘いものが欲しくなって買ったものの結局手を付ける暇がなく、朝食に回せばいいやと持って帰ったやつだ。菓子パンを取り出し、ビニール袋を開けて女の子に渡そうとするが、警戒しているのか、受け取ろうともしない。


 クリームパンの四分の一ほどをちぎって、秋江はそれを自分の口に入れて咀嚼して見せた。口の中にねっとりとしたクリームの甘みが広がる。思わずふーっとため息が漏れた。疲れた体と脳にこの甘みはヤバい。そして、ほほ笑みながら、女の子に残りのクリームパンを渡そうとする。


 今度は女の子も袋を受け取り、中のパンを取り出すと、匂いを嗅いでいる。それから先ほど秋江が取った側をほんの少しちぎって口に入れる。その途端、目を見開いて驚きの表情を浮かべた。そして、次から次へと千切って食べ始める。それを見ると秋江は菓子パンの袋を受け取って綺麗にたたんでカバンの中に入れた。


 秋江はにこりともう一度ほほ笑むと女の子に向かって手を差し出す。女の子が名残惜しそうに見ているクリームパンの最後のひとかけらを指さすと、その指先を自宅マンションの方に向けた。

「家に行けば、もっと食べるものがあるわよ」


 立ち上がって、パンを持っていない女の子の左手をそっとつかむ。女の子はあわてて最後の一かけらを口に入れると急いで咀嚼して飲み込み、大人しく手を引かれて歩き出した。100メートルも歩かずに自宅マンションの入口に着く。8階建てのマンションの自動ドアを抜け、秋江は風除室のセンサーに自宅のキーをかざした。すぐに内側の自動ドアが開き、まっすぐにエレベーターを目指す。郵便受けは後でいいや。

 

 1階に待機していたエレベーターに乗り込むと5階のボタンを押す。5階で降りると右手に進み、一番奥まで歩く。秋江の部屋は一番東よりの501号室。この間、女の子は身を固くしている。部屋の前まで来るとシリンダーキーで上側を開錠し、部屋番号の表示の下部分にカードキーを押し当て、下側を開錠した。女性の一人暮らしなので大げさだがダブルロックにしてある。


 玄関に入るとセンサーが働いて自動で明かりが点いた。すぐに上下とも錠をロックする。秋江は誰に言うでもなく、習慣でただいまと声を出した。1日中履いていたパンプスを脱ぎ、ホッとしながら家に上がろうとすると、女の子は勝手が分からないのか戸惑って立っている。改めて、パンプスを取り上げ、掲げて見せてから揃えて玄関に置く。それを見て、女の子も自分の皮のサンダルのようなものを脱いで置いた。


 カバンを廊下に置き捨てると洗面所に行きハンドソープで手を洗う。女の子のために低い踏み台を用意してやるとその上に大人しく立った。ハンドソープを手に出してやり、手をこすり合わせる真似をすると上手に手を洗い、水で泡を洗い流す。秋江は戸棚から新しいタオルを出してやり、女の子に手渡す。女の子が手を拭き終わるとそれを流し台下の収納扉の取っ手にかけてやった。


 秋江は部屋に女の子を連れて行くとソファに座らせ、テレビのスイッチを入れる。とたんに女の子はテレビにくぎ付けになっている。これなら、短時間は大丈夫だろうと、秋江は浴室に行き、手早くシャワーを浴びた。本当は浴槽につかりたいが時間も無いし、つかれば確実に寝落ちする自信がある。最後に冷たい水を浴びて目を覚まさせるとパジャマ代わりのくたびれたジャージに着替えてキッチンに向かう。


 女の子はまだテレビを夢中で見ている。言葉も分からないニュース番組を見て面白いのかしらと思いながら、秋江は朝食の準備を始めた。いつもならここで1時間仮眠をとるのだが、今日は仕方ない。冷蔵庫には辛うじて賞味期限内のベーコンと卵があった。フライパンでベーコンを添えたスクランブルドエッグを作り、シリアルとヨーグルト、野菜ジュースを添えて、ローテーブルに並べた。


 女の子をテーブルにつかせ、いただきます、と言って秋江は朝食を取り始める。女の子も見よう見まねで、器用に食べ始めた。言葉が通じるはずも無いが、

「それはまだ熱いから気を付けてね」

 などと声をかけながら食事をする。食べ終わるといつもは流しに突っ込むだけの皿やコップを洗った。


 時計代わりのテレビが7時を回っていることを告げる。カーテンを開けて家の中に日の光を入れ、窓を開けて部屋の空気を入れ替えた。さて、この子のお昼はどうしよう。冷蔵庫にはほとんど物がない。結局、シリアルの箱をテーブルに置き、テレビを見ている女の子を冷蔵庫の前に連れて行って、牛乳のありかを教えた。どうやら、理解したようなので、歯を磨き、髪にドライヤーを当て、着替えて、メイクをする。


 鏡の中の自分は28だというのに目の下に隈はでき、血色が悪い。はあ、とため息をつく。化粧水をなじませ、ファンデで隈を隠し、明るめのチークを入れて、なんとか見られるようになった。ピチピチした学生に交じればすぐに年の差を実感させられるのだろうが、何もしないわけにはいかない。身支度を終えると窓を閉め、家の中をざっと見回す。


 もともとほとんど物のない寝るためだけの部屋だ。この子が触れて危ないものは無さそうだ。トイレを済ませて、7時45分。いつもより早い。テレビのチャンネルを教育テレビに変えてやる。子供番組の方が面白いだろう。準備を終えて、女の子に声をかける。

「なるべく早く帰ってくるから、大人しく待っていてね」


 廊下でバッグを拾い上げ、玄関で靴を履く。玄関までトコトコとついてきた女の子をギュッと抱きしめると、行ってきます、と告げて外にでた。扉を閉める前に隙間から女の子に手を振り、閉まった扉の上下ともしっかりロックする。閉じ込めるような気がして気が引けたが、あの子の安全のためにもよ、と思って実行した。


 マンションを出て、駅までは徒歩8分。いつもよりは数分余裕がある。駅までの道のりで、今日買って帰らなければならないものを考えながら歩く。下着と寝間着、歯ブラシと後は何だろう。色々と気がかりではあるが、まずは今日の仕事を終えてからだ。駅の改札を抜けると同時に戦闘モードに入る。とりあえず、殺人的に込んだ通勤電車に乗らなくては会社にたどり着くこともできない。


 ***


 まったくもう。本当はもうちょっと早く退社できるはずだったのに。秋江はデパ地下で買った品のビニール袋を持ち替え、急ぎ足で歩きながらため息をつく。入社2年目の高橋君に今日の会社説明会の参加者名簿を作成するように言っておいたのに終業間際になってまだやってないどころか、受付名簿が無いと言い出したのだ。


 紙の受付名簿にチェックが入っていない、つまり欠席者の名前を元データのファイルと照合し、その名前をデータから削除して、別ファイル名で保存するだけの簡単な仕事のはずなのにどうしてそれができないのか? しかも受付名簿を失くしたとは……。


 万が一のために、名簿をスマートフォンで撮影しておいて良かった。その画像を元に今日の分の受付名簿を加工して参加者名簿を作成し、大学、学部、性別の順に並べ替えをする。それをデータベースに取り込み、社員名簿から入社5年以内の職員を抽出したものを、大学名をキーに1対多の結合をしたファイルを作成した。


 高橋君にお小言を言いながら、ここまで作業して斎藤課長にメール送信するのに30分ちょっとかかってしまった。出席者に対して、OB・OGの誰を接触させるのかはこれから課長が考える。業務の忙しさも絡み、部門の力関係の影響するので面倒な作業だった。


「お疲れさまでした」

 そう言って退社する秋江に対して、珍しいなという顔をするが、誰も咎めだてはしない。ところが、タバコを吸って戻ってきた人事部長の大沢がいつものデリカシーのかけらもない声をかける。

「お、沢ちゃん、珍しいな。デートかい?」


 まじめに相手をせず、

「あ、部長。お先に失礼します」

 そう言って、更衣室へ向かおうとする秋江に対して、大沢のさらに余計な一言。

「早くしないと行き遅れちゃうからな」

 余計なお世話じゃ。クソオヤジ。


 最寄駅からちょっと遠回りして、総合スーパーに寄り、女の子のパジャマ、下着その他を手際良く買う。こんなところで叔母の保育園の手伝いをしていた経験が役に立った。亡き叔母の志津香に感謝する。秋江が今住んでいる部屋を遺してくれたのも志津香だった。物価の高い東京で秋江が不自由なく暮らせるのも、この叔母のお陰と言える。


 最後に卵や牛乳、納豆などの食料品とソーダ、リンゴジュースを買うと両手は荷物で塞がってしまった。幸いに家までの距離は徒歩で10分もかからない。エレベータを5階で降りて、自宅の扉を開ける。女の子は今日1日どうしていただろう? 寂しくはなかっただろうか?


「だたいま~」

玄関まで出てきた女の子の片頬が赤くなり、何かの模様がついている。どうやら転寝をしていたようだった。

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