部屋の探索

 まったく、何ということだ。むざむざと囚われの身になってしまうとは。とりあえず、黒い板のある部屋へ戻りながら、ヴァルクレアは自分に腹を立てる。しかし、あの女は一体何者なのだろうか。外見はまだ若く、優しそうな外見をしていて、自分に食事を与えた。その一方で、この私の魔法を全く受け付けない。


 まずは、この部屋を調べてみるか。玻璃の窓は閉まっていた。力を入れて動かそうとしても横に動く様子はない。ヴァルクレアは先ほど女がやっていた様子を思いだし、玻璃をはめた金属製の枠についた棒を触ってみる。上に動くようだな。動かしてみると窓が開いた。外はテラスになっており、自分の背丈より高い壁で遮られている。


 一旦窓を閉め、金属の棒を元に戻す。なんだ、この簡単な仕掛けは? 自由に出入りできてしまうではないか。これでは中の人間を拘束できているとは言えないだろう。ここは高い位置にあるようだが、それでも簡単な浮遊の魔法で降りれないことはあるまい。先ほど食べた食事により、体内で少しずつ魔力が生成されているのを感じてヴァルクレアは心強く思う。


 さて、まだ見ていないところがあったな。通路の途中、左右に一つずつ木の扉があって閉まっていた。そのうちの一つは先ほどあの女が入っていたが、まずはそちらから見てみるか。ヴァルクレアが扉を開けるととても狭い小部屋だった。真ん中に白い甕のようなものが鎮座している。不意に閃いた。なるほど、ここは不浄の間か。今は用はない。


 通路を挟んで反対側のドアを開けてみる。ベッドといくつかの小物が置いてあった。綺麗に整えられており、最近使った形跡がない。通路を戻り、手を洗った小部屋の奥の部屋を覗くと床にタイルが張られ濡れていた。ふむ。女の濡れた髪を思い出し、どうやら体を洗い清める部屋なのだと推測する。扉を閉めて、元居た部屋に戻りながらヴァルクレアは考える。


 ここはあの女の私室かと思ったが、ベッドで寝た形跡がない。だが、それ以外の生活はここで行っている様子がある。やはり、ここは誰かを拘束する場所とは思えない。あの女の私的な空間に私を連れてきたということに間違いは無いだろう。だが、その後、私を放置してどこへ何をしに行ったのだ? 分からぬ。


 それと、これからどうするかだ。魔力は少しであるが回復しつつある。魔力消費の少ない浮遊の魔法を使えばここから出ることは可能だが出てどうするかだ。浮遊の魔法は浮揚の魔法と違い出力最大の状態でもあくまで浮くだけだ。上昇することはできない。一度外に出てしまえばここに戻ってくるのは難しい。浮揚の魔法は意外と魔力を消費する。従ってここに戻って来るにはあの女と同じルートを辿るしかないが、この建物やこの部屋の扉を開けるための道具を所持していないためだ。


 あの女からは悪意は感じられなかった。むしろ、慈愛に満ちた聖職者のような印象だ。最初にあったあの薄汚い男とどちらかを選べと言われれば考えるまでもない。ここなら、あの男が入って来ることはないだろう。というところまで考えて、外への扉の仕掛けの意味に気が付いた。あれは中のものを外に出さないのではなくて、外のものが入って来るのを防ぐためなのだ。


 ということは、しばらくはここに居る方が安全なのではないか。そうだとするならば、この魔力は別のことに使うべきだろう。この程度の魔力では退縮した体を元に戻すには全く足りない。まずは、あの女が何を考えているのか知りたい。そのためには言葉が分からぬとな。よし、幸いなことにあの黒板からは、あの女が話していたのと似た音が聞こえてくる。あの黒板の仕掛けも気になるが、自分の感応力を高めてこの世界の言葉を身につけるとしよう。


 ヴァルクレアはクッションの効いた椅子に座り、体の緊張をほぐして、目を閉じた。右手の指を軽く額に当て、呪文を口の中でつぶやく。

「我が体内に宿りし、万物の根幹よ。我が心の枷を解き、すべてをあるがまま受け止めよ。異国の言の葉と旋律を我がものと為せ」


 そして、体内の魔力を耳と目に集中させる。呪文の効果が表れるのを感じると目を開け、自然な状態のまま、黒い板を凝視することなく、意識を漂わせるに任せた。


 どれくらい経ったのだろうか。ヴァルクレアが意識を戻すとまずは猛烈な空腹感を覚えた。どうやらなけなしの魔力もかなり消費してしまったようだ。低いテーブルの上の箱と器を見て、食事をすることにする。器に薄い小さな切片を入れ、手を洗うときに使った台に乗り、乳を取ってきて上から注ぐ。ヴァルクレアは匙を使って香ばしく甘い食べ物を食べ始めた。


 乳まで飲み干してもまだ足りない。箱にはまだ薄く軽いものが残っている。少し考えて、先ほどと同じように器に入れて乳を注ぎ、もう一杯食べることにした。まあ、ここに置いていったのだ。全部食べたとしても文句は言わないだろう。結局全部箱の中のものを食べてしまい、乳も飲み干してしまった。甘さが疲労した体と心に心地よい。


 さて、先ほどの続きをするとするか。お腹が膨れたことで軽い眠気を感じるが、暢気に寝てもいられない。呪文を唱えて精神を開放する。耳から音が体内に吸い込まれ、自然と唇が開き、その音を反芻する。映像がその音とヴァルクレアの脳内の言語とを結びつけ、新たな知識として脳に刻み込んでいく。


 やがて魔法の力が効力を失いヴァルクレアは意識を取り戻すが、疲労困憊していた。体内の魔力もほぼ無きに等しい。そして、体が休息の必要性を訴えかけていた。まずい。この状態で寝てしまっては危険すぎると思うが、酷使しすぎた体は言うことを聞かなかった。退縮した体はヴァルクレアの想像以上に無理が利かないようだ。そして、再び意識を失い、今度は深い眠りに落ちて行った。


 次に目を覚ました時には、窓の外は真っ暗になっている。ぐうう。目覚めてすぐのお腹が鳴り、ヴァルクレアは赤面する。まったく、何ということだ。これでは浮浪児と変わらぬではないか。まあ、色々と大変な1日だったのは間違いないが。しかし、あの女は一体どこへ行ってしまったのだろう。まさか、何か間違いがあったのではあるまいな。


 ふと、気付くと黒い板から漏れる音の連なりが意味を持って、ヴァルクレアの耳を打つ。ふむ、多少はこの世界の言葉が分かるようになったようだな。黒い板の表面の謎の踊りをしている二人組を見ながらヴァルクレアは考える。そこへ、外への扉の方から物音がする。扉が開く気配がして、あの女の声がした。 

 

 ***


 洞窟の中で異形の者たちが跪き、鈍く黒光りを放つ像に祈りを捧げている。その中の一人が進みでて、呼びかけた。

「我らが母ヨグモースよ。お応えください。あなたの忠実な下僕にこざいます」


 それに応えて、洞窟の中にいる者たちの頭の中に直接に重々しい言葉が届く。

「わが思索の邪魔立てをするとは、いかがいたした?」

「どうやら、あの女が異世界に旅立ったようでございます」

「そうか。ならば予定通り計画を進めよ」


 呼びかけた者がためらいがちに問いかける。

「決して異を唱えるつもりではありませぬがよろしいのですか? あの女はまさに化物。折角我らが手駒の供給地として見つけた異世界に赴かれ、そこを支配下に置かれては却って……」


「そのようなことか。あの世界はここよりも魔力がとても薄い。それに基本的にあの世界の方がここよりも構造が緻密だ。あの世界から呼び寄せた者が尋常ではない力を有しておること体感したであろう。あの世界で争えばあの女とて無事にはすむまい」

「それは仰せの通りです」


「送り込んだ我が手先も魔力の低さが災いして満足な活動ができておらん。あの世界に倦んだ魂を唆し、こちらに来ることを自発的に望むように仕向けて、この世界に紐づけるのがやっとだ。それゆえ、次々と呼び寄せるという当初の目論見はうまくいっておらん。ならば、あの女を送り込む方がマシというもの。うまくすればあの世界で立ち往生するかもしれぬ」


 呼び寄せた者に訓練を施して作り上げた魔王は一人ではあの女に及ばなかったことを思い出し、顔を伏せる者達は悔しそうな表情をする。そこへ追い打ちをかけるように威圧的な声が脳内に響いた。


「そもそも、そなた達は、あの女が現れるやいなや、『げえっ、ヴァ、ヴァルクレア。引けい。引けい』と慌てふためくばかりではないか。そなた達が全く役に立たぬから我がこのように策をめぐらさねばならのぬだ」

「ははっ。申し訳ありません」


「まあ良い。今はあの女がおらぬ。侵攻のチャンスだ。今度は失敗するなよ」

「もちろんでございます。各方面から浸透するとともに次の魔王の召喚とともに一気に攻めかかります。ご期待ください」

「そなた達が世界を手にいたせば、再び我が身をこの世に表すことも可能であろう。さすれば仮にあの女が戻ってきたところで我に敵いはせぬ。では行け」


 洞窟に集っていた異形の者たちが立ち上がり出て行く。その姿を物言わぬ像が見下ろしていた。かつてこの世界を争った神の1柱であり、人間からは邪神と恐れられているヨグモースをかたどった巨大な像だった。

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