黒髪の女との邂逅
角を回って姿を現したのは、変わった服装をした人間だった。砂のような色の丈の長い着物を羽織り、歩きにくそうな踵の高い黒い履物を履いた自分よりやや年配の黒髪の女。ヴァルクレアに気が付くと一瞬立ち止まったが、すぐに近づいてくる。
ヴァルクレアは相手の行動に緊張するが、黒髪の女は近くまでくるとしゃがみこむ。身長差の優位を捨てたということは一応敵対しないという意思表示なのかもしれない。女は何か言っているが、先ほどと同様に意味は分からない。黙っていると笑みを見せた。油断はできないが、さきほどの人間よりはマシだ。近くで見ると顔に疲労が浮いているのが見て取れる。
この相手なら、簡単に従属下に置けそうだ。残り少ない魔力でもなんとかなるだろうとヴァルクレアは判断し、他者の意志を支配する魔法の印を手で描きつつ、呪文を唱えて、女に意識を向ける。
「我が抱擁に身を委ね、汝の心を明け渡せ。その膝を屈せよ。絶対服従の縛め」
その途端に、強力な守りの力が魔法の干渉を弾く。
「女。何者だ? 我が魔術を拒むとは? 無能を装って何が狙いだ?」
ヴァルクレアは思わぬ抵抗に会い、口早に黒髪の女を詰問する。しかし、女は外見通りの無害な感じの困った表情を浮かべるだけで、ヴァルクレアには分からぬ言葉で話しかけてくるだけだ。
言葉が通じないので何と返答すればいいのか分からず、ヴァルクレアは沈黙を保つ。先ほど倒した人間がいつ意識を取り戻すのかも気がかりだ。目の前の女は、困惑を浮かべた表情から何かを決めたように顔つきを変え、また何か話しかけてくる。これは何かを提案しているのか?
しかし、これはどういう状況なのか判断ができず、焦りつつもヴァルクレアは返事をすることができない。相手はしびれを切らしたのか、肩から紐で下げていた黒い革製の袋を開き何かを探している。ヴァルクレアから視線を外したその動きは戦いの訓練を積んだ者とは思えない無防備さだった。
体格差が大きすぎるが、格闘をしかけるか、とヴァルクレアが思ったその時、お腹が鳴った。きゅるる。く、王の中の王ヴァルクレア・イグノードともあろうものが無様な真似を。知らず知らずのうちに顔が赤くなる。目の前の女の瞳が驚きに見開かれた。そして、妖精の羽のように透き通った袋を取り出すと、その袋を割いてヴァルクレアに差し出した。
これは何だ。薄い茶色の柔らかそうな丸みを帯びた物体。今まで見たこともない物だ。鋭利さは無く武器とも思えない。何かの魔具か? こちらの魔力を吸収するための物か? しまった。先に攻撃を仕掛けておくべきだった。機先を制された形で身動きのできないヴァルクレアの前で、女はその茶色い物の一部を裂くと自分の口に入れて噛み始めた。
女が噛み終わると喉が動くのが見える。そして、満足そうな吐息を漏らした。ということはつまり、あれは食べ物なのか。私の空腹を察して食べ物を差し出した? 女はまたほほ笑むと茶色い物をヴァルクレアに向かって差し出してくる。自分は既に慣れている毒物を食べて見せて安心させようとしているのかもしれず油断はできない。
だが、何か食べ物を食べて魔力を回復させねば手詰まりなのは確かだ、とヴァルクレアは考え、とりあえず、透き通った袋を手にした。つるつるして今まで触ったことのない感触だ。用心ぶかく中の物を取り出す。外側は茶色だが、表面だけで、先ほど千切った切断面は白い部分が厚い。そして、それは何か黄白色のものを包んでいた。
慎重ににおいを嗅いでみる。甘くいい香りがした。この切断面は祝いのときにだけ供される白いパンに似ていた。切断面の部分を少しちぎると中に包まれたものがむにゅんと飛び出しそうになる。それを恐る恐る口に入れてみた。甘い。ねっとりとした乳のような甘さと小麦の味が口の中に広がる。美味しい。
ヴァルクレアは初めて味わう味覚の衝撃に思わずもう一切れ取って口に運んでしまう。こぼれそうになった黄白色のねっとりとした物を指で受け止め口に入れた。ああ。もし、これが何かの罠ならマズい。そう思うが、空腹なのも手伝ってこの食べ物を口に運ぶのをやめられない。気が付くと透けた袋は女が回収してしまっている。そして、たちまちのうちに食べ物は最後の一切れとなってしまった。
特に体に変化は感じられないな。少なくとも即効性の効果は無いようだ。この女はただの親切な者で単純に食料を分けてくれただけなのかもしれない。女は最後の一切れを指さすと、ヴァルクレアの右手の方を指さし、何か言っている。これを食べたのだからあちらに行けということなのか。
女は立ち上がるとヴァルクレアの左手を取った。慌てて最後の一切れを口に入れる。毒物ならどれだけ食べても毒に変わりはない。この甘美な味を捨てるのは惜しかった。ヴァルクレアは覚悟を決める。身長差のハンデができた今、格闘戦を仕掛けるのは無謀すぎる。
子供の大きさの石を敷き詰めた道は途中で暗灰色の一枚の巨大な地面に変わる。ふと顔をあげると砦のような巨大な垂直の壁を有する建物が見えた。壁は陶器でできているようで、1階ごとに張り出しがある。この建物は何だ? 女に手を引かれ、灌木の間を抜けると巨大な玻璃の扉が目の前にそびえた。その扉には取っ手がない。
女は何も手を動かさず、何も唱えず、無造作に扉に進んでいく。にもかかわらず扉は左右にさっと開いた。この女、やはり魔法使いか? 正面にはやはり玻璃の扉。今いる部屋自体がすべて玻璃に囲まれていた。これだけの巨大な玻璃が支え無しに直立して部屋を形成するなど、魔法なしには考えられなかった。しかし、魔力の波動は感じられない。
女の右手にある大理石の台に女は何かをかざす。すると正面の扉が同じように左右に別れた。こちらは何かの魔具を使ったな。それがないと開かぬ仕組みなのだろうとヴァルクレアは推測する。中は白と黒のタイルを敷きつめた小部屋になっていて、女は勝手を知っているようにどんどん奥へ進んでいく。
ヴァルクレアは今や圧倒され絶望していた。このような砦に連れ込まれ、自分の魔力はほとんどない。しかも、この女には魔法が効かなかった。この先、どのような過酷な運命が待ち受けているのかと思うと震えが出そうになる。私はヴァルクレア・イグノード。これしきのことで狼狽えた姿など見せられぬ。そう気力を振り絞って女の顔を見上げるがそこにはさきほどと同じ表情しか伺えない。
小部屋の突き当りには、金属製の戸があり、女が壁の一部に触れるとするすると横に動き、更に小さな部屋が現れる。女はその部屋にヴァルクレアの手を引き入っていった。その中で女は壁の一部に2度触れ、鳥の鳴き声を短くしたような音がすると扉がまたするすると閉まった。木でも金属でもない材質の壁に囲われた狭い部屋に閉じ込められ、ヴァルクレアは圧迫感に胸が苦しくなる。
次にどうなるかと考える間もなく、部屋は軽く揺れる。そして、転位した時に似た浮揚感が体を襲った。恐怖の声を漏らさぬよう必死に耐えるヴァルクレア。すぐに浮揚感は止まり、薄い金属製の器を金属製の棒で叩いたような音がして、扉が開く。外に出られることに安堵するヴァルクレアが女に手を引かれて、小部屋を出ると左右に廊下が広がっていた。
女は迷うことなく、左に進む。途中にいくつかの金属製の扉と玻璃のはまった部分があった。玻璃には金属製で棒状の覆いがついている。これは、牢獄か何かなのか。ヴァルクレアを後悔が襲う。うかつにもついて来てしまい囚われの身となるのか。行き止まりまで進み、一番奥の金属製の扉の前で止まった。
黒髪の女は、先ほど玻璃の扉を開けるのに使った何かを扉の上の方にある小さな穴に差し込んでひねり戻す。そして、穴から抜き出した物を取っ手の側の部分に当てた。そして、取っ手を手前に引いて金属製の扉を開ける。ヴァルクレアは黴臭くじめじめとした牢獄の空気を予想し身を固くする。中は暗かった。
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