第48話 マイナー寄りの芥川龍之介名作紹介


 七月二十四日は芥川龍之介の命日である。この日は、「河童忌」「我鬼忌」という季語にもなっている。

 私は、最も好きな小説が「地獄変」であり、読書感想画や卒業論文の題材にしたほどである。また、芥川の全集も持っている。


 芥川の代表作と言えば、皆さんは何を思い浮かべるかだろうか。教科書にも載っている「羅生門」、出世作の「鼻」、絵本にもなっている「蜘蛛の糸」「杜子春」、晩年の「河童」「歯車」の人もいるだろう。

 今回は、せっかくの河童忌なので、私が大好きだけどどちらかと言えばマイナーな芥川作品を紹介していきたいと思う。ライトなのからヘビーなものまで、よりどりみどりなので、気になった方は本や青空文庫など読んでもらえれば幸いである。




「捨児」  (一九二〇年)

 浅草のお寺に、男の子の赤ん坊が捨てられているのを住職が発見した。その子を育てながら、お寺で住職は親子に関する故事を話し、母親がいつ現れても説得させようと思っていた。

 男の子が五歳に立った時、とうとう母親と名乗る女性が現れて、その子を引き取っていった。母子は慎ましく暮らしていたが、母親にはとある秘密があった……。


 個人的には「杜子春」と並ぶ、母子に関する傑作短編。ちなみに、発表年は「杜子春」と同じである。

 芥川と言えば人間のエゴイズムを描いた作家だとよく言われるが、「捨児」はストレートに母子の愛を描いている。ラストの一文を読んだ時は、感動で打ち震えてしまった。




「あばばばば」 (一九二三年)

 「保吉もの」と呼ばれる、芥川が横浜の海軍高校で教鞭をとっていた時の出来事がモチーフになった作品群のうちの一つ。

 とある何でも屋で、保吉は十九歳くらいの恥ずかしがり屋でちょっとドジな女性店員と出会った。何度もその店に通う間に顔見知りとなるが、ある時期から彼女の姿が見えなくなる。久しぶりに店の前で見かけた女性の姿は、意外なものだった。


 現在のネットスラングでは、混乱した時の叫び声みたいに言われている「あばばばば」だが、元を辿ったらこういう話だよってことでご紹介。

 ミステリー作品ではないけれど、最後のどんでん返しがスカッとする。




「山鴫」 (一九二〇年)

 一八八〇年、モスクワに住むトルストイを友人のツルゲーネフが訪ねた。二人はトルストイの子供たちと愛犬と共に山鴫を打ちに出かけるが、ツルネーゲフが打ったという山鴫が見つからないために、ちょっとした口論になってしまう。

 二人の文学や言葉に関する会話も交えながら、老境の作家同士の和やかな交流を描く。


 芥川と言えば、「今昔物語」を下地にしたり、隠れキリシタンを題材にしたりした小説が有名だが、こういう引き出しもあったのかと驚かされた一作。

 個人的には大好きなのだが、西欧を舞台にして実在した作家などが出てくる作品はこれ以外に思い付かないのがちょっと寂しい。




「白」 (一九二三年)

 犬の白は一人で散歩中に、隣家の愛犬で仲良しの黒が犬殺しに狙われている場面に出くわす。しかし、犬殺しに睨みつけられた白は怖くなり、黒を見捨てて逃げてしまう。

 家に帰った白だったが、飼い主の姉弟は彼のことに気付かずに追い返した。白の毛皮が、いつの間にか真っ黒になってしまっていたからだ。帰る家を無くした白は、あてもなく放浪する。


 丁寧語で描かれているため、一見子供向けのようにも見えるが、白の贖罪の旅は胸に迫るものがある。また、白の活躍を新聞を引用して紹介するという描き方も印象深い。

 芥川は大の犬嫌いだと有名だが、実は「白」と「犬と笛」という犬関係の作品を二作残している。




或敵打あるかたきうちの話」 (一九二〇年)

 肥後の侍の田岡甚太夫は、剣術の武芸仕合で新陰流の指南者である瀬沼兵衛に打ち勝つ。それを逆恨みした兵衛は、甚太夫と間違え加納平太郎という年配の侍を闇討ちし、行方をくらませた。

 平太郎の仇を取るため、嫡男の求馬もとめ、従僕の江越喜三郎、求馬の同性の恋人である津崎左近、そして平太郎の死に責任を感じた甚太夫の五人は、旅に出た。


 あらすじだけ紹介すると、時代劇の題材になりそうな敵討話だが、やはり芥川作品とあって、五人の旅路は一筋縄にはいかない。ラストの余韻が、尾を引いて、様々な感情を呼び起こさせる。

 私が一番、映像化してほしいと思う芥川作品だ。二時間くらいの時代劇が理想。ただネックは、津崎左近である……同性の恋人という関係は、中々現代では描き辛いとは思うものの、当時は普通だったので、ここは「親友」とかせずにそのままにしてほしいと妄想している。




「奇怪な再会」 (一九二〇年)

 お蓮は、陸軍将校の牧野の妾として囲われて、目の悪い老婆と暮らしている。実は彼女は中国の出身で、日清戦争後、牧野に日本へ連れてこられたのだった。

 彼女には、故郷に恋人がいたが、ある時からぱったりと現れなくなった。その行方を占い師に尋ねたところ、その男とは東京が森や林になったら会えることもあると告げられた。


 個人的な印象だと、悲恋の物語である。しかし、お蓮が単純に「幸薄い美女」という印象に留まらないところが好き。

 ラストシーンがひたすらに物悲しい。と同時に、男の支配欲や戦争などに対して、怒りが浮かんでくる物語でもある。




「疑惑」 (一九一九年)

 とある教授が、岐阜県に講義をしに行った際、彼を訪ねた男から聞かされた話。

 その男、小学校教師の中村玄道は、結婚して間もない妻と大地震に巻き込まれてしまう。家の屋根が落ち、井戸端にいた玄道は無事だったが、妻は梁の下敷きになってしまい、彼一人では助けることができない。血まみれで苦しむ妻、一方屋根を渡って火が迫ってくる……その状況で、玄道が下した判断は。


 教授は、この話をした後に、何も答えずに物語は閉じる。玄道に対して、どう思うかは読み手に任されているという「藪の中」タイプの話。

 個人的には、イヤミスっぽい印象がある。それから、恐らく当時には珍しく、「狂人」と呼ばれる人が、どうしてそうなったのかを自ら語るというのも重要な点だと思う。




「黒衣聖母」 (一九二〇年)

 「私」は、友人から隠れキリシタンの持っていた聖母像を紹介された。珍しく黒い服を着たその聖母像には、不思議な話が付随されていた。

 江戸時代、この聖母像を持っていた稲見家のまだ八つの嫡男が重いはしかに苦しんでいた。祖母は、その男の子の姉を連れ、普段は隠されていたこの聖母像に、ある祈祷を行う。


 キリシタンものの一編。この後味の悪さは芥川作品の中でも一級品で、一番怖い芥川作品はと尋ねられたら、この「黒衣聖母」か「疑惑」かで悩んでしまう。

 人間にとって運命とは、神とは何かを考えさせる。もしもこの聖母像が本当にあったのなら、私は何と願ってしまうのだろうか。




 以上七編が、マイナーだけど大好きな芥川作品である。ライトからヘビーまでと言いつつ、ヘビーな方が多い気がする。

 あと、大体が一九二〇年に書かれた作品になってしまった。この時代の芥川の小説が私の好みというのもあるし、一番精力的だったというのもあるのかもしれない。


 最後に、芥川の辞世の句を引用で、このエピソードを締めくくろうと思う。




  水洟みづぱなや 鼻の先だけ 暮れ残る
















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