第18話 拙作問わず語り 「コップの中の漣」編


 「自分で描いた作品について解説する」というのは、気恥しさもあるが、エッセイ内で最もやってみたいことの一つだった。

 気が付けばもうエッセイも十八話目、ここで自分のめんどくさい創作自意識をさらけ出してしまおうかと思う。


 今回は、二〇一八年七月に公開した「コップの中の漣」についてだ。同題異話・七月号の参加作品でもある。

 何故、半年以上前の作品を唐突に解説するのかと言われれば、今カクヨム上で公開している作品の中で、一番「コップの中の漣」が、色んな事をこだわりまくって書いたからだ。


 ここから先はネタバレもがっつり含んでいくので、これから読む予定の方は注意していただきたい。

 本編のリンクはこちら→https://kakuyomu.jp/works/1177354054886381112








 まず、タイトルについて。


 「コップの中の漣」は、「コップの中の嵐」という慣用句の文字りである……のだが、自主企画を投稿する際にパソコンで打った時に出てきた予測変換で、その存在を意識した。

 「同題異話のタイトル、どうしようかなー」と頭を悩ましていた時に、ぱっと思い付いたのがこのタイトルだったのだが、どこかで見聞きした「コップの中の嵐」を覚えていたのかもしれない。

 こちらが七月号になったのは、七月には海の日があったから。


 この先は、まあまあ昔の話なので、ぼんやりとしている。

 色々前後していると思うが、思い出せることから説明していこう。


 内容は、タイトルが決まった後から考え始めた。

 「コップに漣が立つときって、どんな状況だろう?」という事から考えて、コップを手で持っている状態を想像した。


 「コップを持っている」というのは、ある意味では緊張状態ではないかなとも考えた。

 コップを持っている人が、気まぐれにコップを落としたり、中身を引っ繰り返したりも可能だからだ。


 次に考えたのは、「コップは何を表している?」という事だった。

 中の水は、下と周りが囲まれているが、上は開いている、つまりは半密室だ。そこから、寮付きの学校が思い付いた。


 その先は、断片的なイメージや、書いてみたいと以前から思っていたことを、パズルのピースのように当てはめていくことになった。


 例えば、いじめを止めた人が新しいターゲットになってしまうけれど、それを止める方法は無いのか。

 それから、卒論を書きながら分析した、『地獄変』の語り口について。

 最後に、『夜と霧』を読んだ時に考えたこと、及びホロコーストについて。


 主題を「いじめ」にしようと決めた時に、語りは主人公ではなく、完全なる第三者である「私」にしようと思った。

 この「私」は、『地獄変』の「私」と意図的に共通点を作った。


 一つは、名前や容姿など、個人的な情報は殆ど伏せられていること。

 もう一つは、「私」は完全に蚊帳の外にいて、知絵とエリーとの間に何があったのかは知るすべを持たないという事だ。


 「私」にとって、知恵とエリーの関係ややり取りは、グラウンドゼロとなっている。

 これは、『地獄変』の語り手も同じであり、良秀の娘が牛車の中で何を思っていたのか、良秀が地獄変の屏風絵の完成後に首を吊ったのは何故なのかなどの理由を、予想して話すことしか出来ない。


 ミステリーの用語で、「信頼できない語り手」という言葉があるが、『地獄変』の「私」はまさしくそうだろう。真実を知らないからこそ、あのように語ることしか出来ない。

 ただ、『地獄変』と「コップの中の漣」が一番異なる点は、『地獄変』が過去を回想して、誰かに話しているという体裁で進んでいくのに対し、「コップの中の漣」は、「私」が今起こっている出来事について思ったことを素直に語っているのである。


 そう、「私」は、作中の地の文では、一つも嘘をついていない。

 「私」は、本気で「神様からの試練」が知絵に与えられているのだと思っていたからこそ、それを支持している。知絵を純粋に応援している。


 他のキャラクターたちは、いじめに積極的か消極的かに限らず、「神様からの試練」というのは、いじめを肯定する言い訳だと分かっている。

 「神様からの試練」という言葉を本気にしているのは、実は「私」だけなのだ。


 さて次に、『地獄変』とは別に、「コップの中の漣」を構築する上で重要になった、『夜と霧』についてだ。

 『夜と霧』のワンシーンで、私が印象的だったのは、作者のフランクルが、終わりの見えない収容所生活で仲間たちに語った言葉である。


 今、手元に『夜と霧』が無いのでうろ覚えだが、「神様は乗り越えられない試練は与えない」のだと、フランクルは仲間たちを励ました。

 この素晴らしい言葉に、私は感動した。この言葉を糧に、彼らはあの地獄のような日々を生き延びていったのだろう。


 しかし、私の捻くれた部分が、こんなことを考えた。

 ……これ、収容している側が言ってきたら、ムカつくどころの話じゃないな。と。


 つまりは、「これは神様からの試練だ。だから乗り越えて見せろ」というのは、苦しい状況下の人々にとっての光明であり、それを強いている人々たちが口にすれば、ただの言い訳に成り下がってしまう。

 それから思い付いたのは、「いじめを試練と称して押し付けてくる話」だった。


 また、ユダヤ人の収容以前に、ナチスが行っていた、病人や障碍者の安楽死についてのエピソードも、多少意識している。

 エリーの苗字、ガーレンの元になったガーレン司教は、ナチスの病人や障碍者に対する安楽死に反対した人物である。


 ガーレン司教は、「病人や障碍者たちは、将来私たちがそうなるかもしれない姿だ」というような主張をして、それは市民に支持された結果、安楽死計画は中止した。

 素晴らしい逸話だが、私はやはりこう思ってしまう。この思想だけでは、「私たち」が決して成り得ないユダヤ人たちを救うことは出来なかった、と。


 これを、学校内に落とし込んで、決して変えることが出来ないものとして、出席番号が思い付き、それがきっかけで、いじめられてしまうという話になった。

 ちなみに、この伝統が出来たそもそもの始まりは、ちょっと気に入らない生徒をいじめたいけれど、その事によって自分の風当たりが悪くなることを恐れたある生徒が、丁度いい言い訳として思い付いただけ、という裏設定がある。

 結局、知恵がいじめられてしまう正当な理由は無いに等しい。


 このように、ホロコーストについてのことを色々考えながら書いたので、そのエッセンスはちょいちょい作中に入っている。

 担任の先生の苗字は、杉原千畝からお借りした。

 また、ラストシーンでエリーが呼んでいるのは、ドイツ語版の『夜と霧』である。余談だが、『夜と霧』の原語タイトルがあまりに長くてびっくりした。


 ただ、「コップの中の漣」の舞台は、ホロコーストではない、コップのような半密室の学園である。

 だから、ラストでは知絵が転校するという形で、コップの中から脱出した。


 このことを知った時、「私」は始めて、「私たちがやっていたのは、神様の試練ではなかったのでは?」という疑問が芽生えるが、そのことはチャイムが鳴ったことで中断されてしまう。

 「私」は最後まで「私」のままで、エリーのようになることは出来なかった。


 「愛の反対は無関心」という名言があるのだが、私は現代では「無関心」だけではなく、「慣れ」も入ってくるのではないかと思う。

 どんなに異常な状況でも、「仕方ない」「こういうことになっているから」という理由で、あっさり諦めて、思考停止になってしまうという、悪い意味での「慣れ」である。


 思考停止に陥っているからこそ、「私」はコップを持つ手が、それを引っ繰り返そうとしていることに気が付かないまま、物語は閉じる。

 




 ……というようなことを、えらそうにつらつらと書いていったのだが、こうして自作を説明してみると、不勉強な所が少々目立つ。

 もっとキリスト教の思想や、ホロコーストや一人称語りなどを詳しく勉強して、機会があるのならば、書き直してみたいなと、振り返って思った。

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