六章 一日の終わりに
ホームルームを終えた教室は茜色に染まっている。普段なら
薫と嶺亜も、それぞれ部活へ向かうらしかった。薫は文芸部、嶺亜は女子バスケットボール部に所属していて、別々の方向へ去っていった。
教室に残った生徒は、だからそう多くはない。まだ夕焼けに魅入る者もいるが、部に属さない者は、早々に教室をでて校門をくぐっている。
意外なことに、茜音は
頬杖をつき、燃ゆる茜に見惚れてひとみを
〈
今の彼女になら、たしかに〈
「……九条さん」
呼びかけに、茜音は驚いた様子もみせない。
こちらを一瞥して微笑み「キレイだね」と
「……うん」
〈
またぞろ胸の奥に湿った風が吹いた。
気持ち悪い。
その質感は、やはり
暗闇のなかで不意に壁を探り当てたような。頼もしくも、不明を恐れてしまうような――。
その正体を探り当てる間もなく、
「帰ろっか」
「あ、うん」
おもむろに茜音が立ちあがる。重力を感じさせない、不可思議な
今日の彼女は、どうも様子がおかしい。対峙した〈
「……」
二人はろくな会話も交わさず、気付けば校舎の外にいた。体育館やグラウンドのほうから運動部のかけ声が聞こえてくる。
空はまだ赤々と燃え
少し前を歩く茜音が、思い出したように〈
「今日はなにも予定ないの?」
「うん。基本いつも暇だから」
「そうなんだ。じゃあさ、どっか寄ってかない?」
後ろで手を組んで前のめりに距離をつめてくる茜音。彼女の背後に
「いいよ。どこ行く?」
「ファミレスでも行こうよ。あたしソコスのチョコミントケーキ好きなんだー」
ようやく調子が戻ってきたらしく、茜音はその場でくるりと回ると、口角をあげニッと笑った。
「チョコミント好きなんだ。
「ええ? 珍しいのかな。あ、もしかして、チョコミントのこと歯磨き粉みたいって思ってないよね?」
「ちょっと思ってる」
茜音は
「うわぁ……。今、全チョコミント派を敵に回したからね。マジ許されない発言だったからねっ?」
むすっと正面へ向きなおった茜音は、どうやら本当に機嫌を
〈
「ホントにごめん!」
と繰り返せば、茜音はこちらを流し見た。
「じゃあ、今日は永田くんのオゴりね」
〈
「……わかった。
「おっ、ラッキー」
現金なもので、茜音はすっかり機嫌をなおしたようだ。ニカリと笑って、またくるりと回ってみせた。
それからは
そうこうしているうちに、ファミレスソコスへ辿り着く。
店内の客はまばらで、
二人は店員に案内されるまま、窓際の席に向かい合って
水が運ばれてくると、茜音は「ありがとうございます!」と礼を言って、酒でも
「永田くん、なに頼む?」
「ドリンクバーだけでいいかなぁ」
「えー、せっかくだし何か食べないの?」
「奢らなくちゃいけないから」
「あー……財布ペコペコ男子だったのね。なら、いいよ。無理しないで。自分で払うから」
「いやいや、奢るって。大丈夫」
「おっ、男らしいねぇ。じゃあ、特別に! チョコミント
べつに欲しくもなかったが、小腹は空いていた。どうせ自分の財布から金がでるのだから、分けてもらっても
「ありがとう」
「いやぁ、お礼言うのはこっちのほうなんだけどね」
苦笑気味に肩をすくませると、茜音はまたくだらない話をはじめた。二人でサーバーの前に立ち、ドリンクを
〈
答えはすぐに
彼女の性格からして、ノートを貸して欲しいとか、より
だが、どうも様子がおかしかった。
いざチョコミントケーキがやって来ると、それまで沈黙を恐れるようだった言葉の波が、ふいに
挙句の果てには、フォークで三角の先端をきると、力尽きてしまったように静止してしまう。
〈
「……」
にもかかわらず、〈
「……今日ね、おとうさんが来るんだ」
奇妙なニュアンスに〈
「お父さんが来る?」
訊ねると、茜音が
「実はさ、あたしの本当のお父さんってね、もういないの。あたしが三つか四つくらいの頃に事故で死んじゃったんだって。だから、ずっとお母さんと二人で
いざ話しだせば茜音は、中途でつかえることもなく冷静に話した。
〈
クラスメイトが
たっぷりと濡らした絵筆で縁取ったような
「ごめん、急に。ヘンなこと言っちゃって」
「ううん。変じゃないよ。それで?」
「話していいの? きっと長くなるよ」
「大丈夫。俺も帰宅部だから」
クラスメイトの言葉に、茜音は心底ほっとした表情をみせた。
「ありがと……。それじゃ、もうしばらく付き合ってくれる?」
「もちろん」
少年はごくごく自然に頷いた。
教えられた所作ではなかった。演じられた仕種ではなかった。
身体がそうすることを知っていたような〈
〈
深呼吸をくり返す茜音に目をやり、彼はまた頷いた。
すると茜音は微笑んで、続きを
「えっとね、聞いて欲しいのは、あたしとあたしのお母さんの話なの。親子の関係がうまくいってないとか、そういうんじゃないよ? お母さんのことは大好き。とっても優しい最高のお母さん。小さい頃からずっとそうなの。お父さんが死んだ頃のことって、あんまり覚えてないんだけど、お母さんが笑顔で接してくれてたことは覚えてるくらい。きっと
語り進めるうち、茜音の焦点は〈
「なんていうかね、自分以外の事に一生懸命な人なの。だからあたし、小さい頃から、その
そこで茜音はいったん言葉を切った。つとこちらを見つめ、意味不明のはにかみを
茜音はその整った
「それでね、綺麗事みたいだけど、あたしってみんなに幸せでいて欲しいんだ。あたしがバカやってるみたいに、みんながケラケラ笑ってたら嬉しいの。お母さんにも、そうあって欲しい。あたしの事ばっかじゃなくて、もっと自由気ままに笑って欲しい。でも、最近お母さんに恋人ができてね。
茜音は今まさに
けれど意味が
〈
湿った風が胸を
「それでね、お母さんの恋人が、ときどき家へ遊びに来るようになったの。普通のサラリーマンで、とっても優しい人。文句の付け所がないほどイイ人。お母さん、素敵な人見つけたなって嬉しくなった。だけど……」
窓外から
茜音の表情も、呼応するように翳を落とした。徐々に強張ってゆく肩のうえ、ざわざわと闇が
「お母さんから再婚しようかと思ってるって言われたとき、何でか急に怖くなったの。あの人がお母さんに
普段の彼女からは想像できない低くかすかな声音が、空気を
それを目の当たりにした瞬間、
「あっ……」
〈
それは彼女に対する
ふとして胸中にわいた
続く言葉など知らなかった。それが必要かどうかも判じかねていた。
沈黙はもどかしかった。
では、何と声をかけるのが正しいのか?
〈
それは
茜音が
涙の
「……ごめん。その人がね、明日うちに来るの。その人の口から、お母さんと結婚させてってお願いに来るの。そんな最高の瞬間がある、はずなんだけど……受けとめきれなくて。自分だけじゃ整理できなくて。せめて話だけでもって、永田くんを――」
〈
彼女の言葉が、中途で剥がれ落ちていった。
そこにいたからだ。
彼女の
そこから滲みだすように、
先の感覚は、決して錯覚などではなかった。
それは形と質量を有する、心の闇だ。
憂鬱だ。
無数の牙が蠢き、
「……!」
闇によって命を与えられた黒い犬だ。
〈
しかし茜音から
犬を
「……永田くん?」
胸の
ただならぬ動揺を、赤く泣き
〈
「ごめん、驚いたんだ。九条さんが、そんなに苦しんでるなんて知らなくて……」
この
九条茜音の悲しみを見るたびに、彼は自分自身が何者か判らなくなった。
そして垣間見た〈
「……優しいね。永田くんを選んで正解だった」
茜音の涙は、いつの間にかその傷痕しか見出せなくなっていた。〈
痛々しくも端正な横顔が、ふと窓外の景色にひき寄せられる。
「もうすぐお母さん帰ってくる」
「大丈夫?」
そう訊ねるのが、今の彼にできる精一杯だった。まるでそれ以外の言葉を知らない子どもになってしまったようだった。
けれど茜音は、そんな何の価値があるとも思われない一言に、柔和な微笑を返すのだった。
「分かんない。でも、話してみてちょっと楽になった。あたしってやっぱ
「そっか。俺、なにもできなかったけど……話聞くくらいならいつでもできるから」
「帰宅部だもんね?」
「うん」
そのやり取りを〈
この肉体のなかに、別の人格が迷い込んだような感情の波は、もうどこにもないと自覚できた。
小首をかしげ笑う茜音の姿に、何も感じるものはなかった。
義務的に支払いを
それでも何も感じなかった。
その小さい、あまりにも小さい背中が、いっそう小さくなることにも。
心細く振り返った彼女の視線が、まっすぐにこの身を
宿舎へ帰り、
何も感じなかったはずだった。
監視任務の引継ぎをすませ、日報の作成にとりかかり。
己を持たぬ〈
九条茜音というイレギュラー――〈
それが正しい運命の
ところがこの日、〈
〈
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます