五章 コード〈自我〉

黒犬ブラック・ドッグ〉の特異とくいな行動パターン。

 あるいは監視対象の特異な性質について。


虚無エンプティ〉らの報告をもとに、白犬ホワイト・ドッグでは緊急会議の場がもうけられた。様々な意見が飛びい、中には「ただちに九条くじょう茜音あかねを管理下におくべきだ」と主張する者が多数いた。

 それは彼女を監禁し人権を無視する行為に他ならないが、今更それを問題視する組織ではない。


 実際、〈黒犬ブラック・ドッグ〉を引き寄せる特性があるのだとすれば、彼女を一般社会に留めるのはリスクをともなう。〈ノートゥ〉被害の恐れはもちろん、物理的な害も避けがたい。


 情報統制の面で見ても白犬ホワイト・ドッグの立場は危うかった。〈帽子屋マッド・ハッター〉の能力は万能でなく、辻褄つじつま合わせの記憶をでっち上げるのにも限界がある。〈死神グリム・リーパー〉がグラウンドを横断する映像などは、すでにネット上で拡散かくさんされていた。


 一方で、イレギュラーを九条茜音と断定するのが早計そうけいであるのも、誰しもが理解の及ぶところだ。


 少数派マイノリティの人権擁護派はさておき、タルタロスの面々からは「正常な精神構造をもつイレギュラーにストレスを与えれば、〈黒犬ブラック・ドッグ〉誘発の恐れがある」との否定的な意見も寄せられた。


 畢竟ひっきょう、会議は有耶無耶うやむやのまま幕をじた。

 イレギュラーへの措置そちは保留とされ、〈虚無エンプティ〉らによる監視体制が継続された。


 緊急会議によって新たに定められた事は一つだ。


 コード〈自我エゴ〉。


 此度の事件の中心に存在するイレギュラーは、今後その名で呼ばれることとなった。



――



自我エゴ〉候補たちは、〈黒犬ブラック・ドッグ〉襲撃の恐怖を改竄かいざんされ、安穏とした日常を送っていた。

 前回の襲撃から、かれこれ一ヶ月が経とうとしていたが、彼女らの周囲で新たな〈黒犬ブラック・ドッグ〉が観測されることはなかった。無論、三人にも変化はみられない。


 変化しつつあるのは〈死神グリム・リーパー〉を取り巻く環境のほうだ。

 監視任務を円滑えんかつ遂行すいこうするためには、他生徒との交流は避けられない。何となく話す機会の多い相手ができてくる。


「永田はいいよなぁ。いつも女子に囲まれてさ」


 その一人が高山だった。

 クラスこそ違うが、選択授業のさいに知り合い、なぜか懐かれてしまった。


 今は、選択授業を前にした休み時間。

 高山は背もたれに頬杖をついて、反対向きで席についている。〈死神グリム・リーパー〉の隣を陣取った九条茜音をちらちらと観察しながら。


「まあ悪い気はしないね」


 と同級生の余裕の態度に、高山は顔をしかめた。


「なんだよ、勝者の余裕か?」

「でも高山だって、九条さんと話してるじゃん」

「まあ、そうだけどよ。それってなんつーの、おこぼれみたいなモンじゃん?」

「なんの話してんの?」


 囁きあう二人へ掣肘せいちゅうしてきたのは、くだんの茜音だった。

 高山は跳びあがり、ひきつった笑みを浮かべた。


「いやぁ、べつに大したことじゃないんだぁ。漫画の話だよ」


 もう少しマシなうそはつけないのか。

死神グリム・リーパー〉は瞑目した。


「えー、ホントは恋バナとかじゃないの?」

「まあ、そんなとこかな」


 と〈死神グリム・リーパー〉が言えば、


「いやいや、恋バナとかそういうんじゃ……」


 目に見えて高山は狼狽ろうばいした。

 女子は恋の話題に敏感びんかんだ。当然、茜音は食い付いてきた。


「マジ? 高山くん、好きな人いるの?」

「いや、マジでそういうんじゃないから。特定の誰が好きとかじゃなくてさ、もっとくだらない話よ」

「あ! じゃあ、あれだ。ワイダン?」


 高山がむせる。


「まあ、そんなとこかな」

「へぇ、やらしぃ……」


 この展開が、高山には望ましくなかったらしい。

 捨て犬のような眼差しが返ってきた。

死神グリム・リーパー〉としては、犬の世話など〈黒犬ブラック・ドッグ〉だけで充分だ。

 目をらすと、不覚にも茜音と目があった。


「そういえばさ」


 茜音は、意味深な笑みを浮かべた。


「永田くんって好きな子とかいないの?」


 期待にちた眼差しが〈死神グリム・リーパー〉を見つめた。


「俺はこっちに来たばっかだし、そういうのはないかな」

「えーっ、前の学校で再会を誓い合った恋人とかいないの?」


 やたらと具体的だった。


「残念ながら。こっちでイイ人が見つかるといいけど」

「じゃあさ、カオちゃんとはどうなの?」

「西園寺さん?」

「うん。よく話すでしょ」

「まあ、席近いし。でも恋愛とかそういうのは、よく解んないよ」


 実際、〈虚無エンプティ〉に恋愛感情などわかるはずもない。

 ゆえに、この話題を続けるのは危険だと〈死神グリム・リーパー〉は危惧きぐした。あまり深く踏みこまれれば、人間性を疑問視されるおそれがある。


 ここは上手うまく高山をスケープゴートにすべきだ。

 しかし高山は、すでに教卓のほうへ向きなおっており、我関せずの体を貫いていた。先手を打たれた。


「カオちゃん、イイと思うんだよね。メガネっ子で可愛いし、そこそこおバカですきがあるよ?」


 めているのかけなしているのか。

 真意はともかく、なぜ彼女が薫をわざわざ推挙すいきょするのか理由が解らなかった。


 やはり小手先だけの対話能力など、さして役立つものではないらしい。感情にまみれた人間のコミュニケーションには、非合理で不可解な部分が多すぎる。


 どうしたものか。


 その時、担当教師の坂口が姿をあらわし「恋バナ」は有耶無耶のまま終わった。


 茜音はしばし名残なごり惜しげにこちらと坂口を見比べていたが、最低限のモラルはあるらしい。鉛筆型のペンケースをがちゃがちゃいじり回すと、意外なほど真面目まじめに授業を受けはじめた。背筋を伸ばしてペンを構え、決して無駄口をかない姿勢は模範的ですらあった。


 ところが、授業が半分を過ぎた頃。

死神グリム・リーパー〉は異変に気付く。


 授業が始まってからというもの、茜音はぴくりとも動いていないのだ。


 改めて彼女を観察すると、ペンは紙面しめんに触れるか触れぬかのきわどい位置で止まっていた。教科書は、いちページたりともめくられていなかった。やや俯いた横顔はロングヘアが邪魔になって見えない――。


 そう、九条茜音は。

 姿勢を正したまま眠っていた。



――



 授業が終わると高山は、さっさと自分のクラスへ戻ってしまった。次の授業は体育で、早々に準備をしなければならないらしい。

 必然、茜音を起こすのは〈死神グリム・リーパー〉の役目になる。


「九条さん、授業終わったよ」


 肩をたたき呼びかけてみたが、目を覚ます様子はなかった。うめき声ひとつ上げず、姿勢を維持し続けている。まるで精巧な人形のようだ。

 やむを得ず、〈死神グリム・リーパー〉は肩をつかんで揺さぶった。


「九条さん、自分のクラス帰ろ」

「……んあぁ」


 ようやく声を発したものの、意識までは戻っていないようだった。黒髪のとばりから垣間見えた双眸そうぼうは、半目に白をむいた、思春期の少女にあるまじき姿だ。


「ほら、起きて。帰るよ!」


 揺らすのではらちが明かない。九条茜音は手ごわかった。思い切ってひたいをたたいた。


「んぎゃ!」


 すると、ようやく瞳が戻ってきた。

 ふにゃふにゃと口を動かせば、大きく欠伸あくびをした。


「んん……いっくん?」

「なに寝ぼけてんの。いっくんって誰だよ」

「……あ、ごめん。永田くんじゃん。嫉妬しっとしたぁ?」


 へらへら笑って眠気眼をこする茜音。残念ながら嫉妬どころか呆れもいてこない。〈虚無エンプティ〉とはそういう生き物だ。


 寝ぼけている所為か茜音の足許が覚束ないので、仕方なく隣り合って元のクラスへ戻る。

 幸い、彼女の興味はもう「恋バナ」にはないようで、道すがら別のことを訊ねてきた。


「そういえば永田くんって、部活入らないの?」

「あー、どうしようかなって。新入生にじって見学できればよかったんだけど、そんな時期でもないしさ」


 本音を言えば部活になど興味はないし、はなから入部するつもりもない。監視任務を終えたあとは、いつでも出撃できるようにコンディションを整える必要がある。


「そうなんだー。じゃあ、あたしと同じ部活入んない?」


 にっこりと笑って、顔を覗きこんでくる茜音。

 あとで適当な理由をつけて断るつもりで会話を続けると、


「そういえば、九条さんって何部員なの?」

「帰宅部だよー」


 茜音はそう言って、なぜかⅤサインを突きつけてきた。


「なんだ、部活してないんじゃん」

「へへぇ」


 しかし意味不明な笑いを返した直後、彼女の足がとまる。

 つられて〈死神グリム・リーパー〉も足をとめ、茜音の横顔を見つめた。髪は耳にかけられていて、今は目許がよく見えた。意外なほど思慮深くかげった双眸そうぼうに違和を覚えた。


「永田くんって、家どこだっけ?」

「え?」


 直後、投げられた問いは予想だにしないものだった。なぜそんなことを訊ねてくるのか理解に苦しんだ。

 だが相手は〈自我エゴ〉だ。監視対象だ。

 下手に拒絶すれば、任務に支障をきたす恐れがあった。


「……えっと、田鹿坂たがさか町の方だけど」

「同じ方向だ。歩きだよね?」

「うん」

「じゃあさ、きょう一緒に帰んない?」


 茜音がようやくこちらを見上げた。はり付いた笑みは、ひどく強張って見えた。

 その感情に適当な名は、不安だろうか。

 わずかに影をつくるえくぼの、あるいはり上がった口角の、目には見えない隙間のなかに、それがにじんで見えるような気がした。


「……!」


死神グリム・リーパー〉は、その異変を自覚した。

 茜音の感情を、知識としてでなく感覚として知覚している事実に戸惑った。


 なんだ、これは……?


 その質感は、胸のおくを吹き抜ける湿った風のようだった。

 とっさに胸を押さえ、感覚を殺そうとするができなかった。相手のもろうるんだ瞳と対峙している限り、胸に吹く風はいきおいを増していく。


「……いいよ」


 次いでこぼした、自分自身の答えに〈死神グリム・リーパー愕然がくぜんとした。


 俺は今、なんと言った?


 監視任務の一端をになっている者として、九条茜音と行動を共にするのは自然なことだ。しかし彼に与えられた任務時間は、あくまで校内にいる間のみ。以降の監視任務を引きぐのであれば、事前に連絡を終えていなければならない。


 撤回てっかいすべきだ。

死神グリム・リーパー〉は唇を湿した。


「やった!」


 しかし茜音の顔にパッと笑みが輝き、ねあがる姿を見ていたら、なぜか撤回の言は腹の底に落ちて、二度と上がってきてはくれなかった。


 後にトイレへ駆けこんだ〈死神グリム・リーパー〉は〈紫煙スモーカー〉に事後報告を済ませた。

 叱責しっせきは返ってこなかった。しわがれ声の『了解オーケー』の響きは平時と変わりない、淡々としたものだった。

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