二十一章 闘争の果てに

死神グリム・リーパー〉は、茜音あかねの温い身体をきよせた。

 かろうじて背中に回った腕の感触かんしょくは力なく。ほんの一瞬動揺どうようしたけれど、耳もとに聞こえるのは安らかな寝息ねいきだった。


『……〈奈落の霊牙サーベラス〉の沈黙を確認』


紫煙スモーカー〉の実質的な任務完了報告。


奈落の霊牙サーベラス〉はほろびた。力だけが消滅しょうめつしたのか、それとも茜音自身が〈虚無エンプティ〉と化したのかは分からない。目を覚ましたときには何もおぼえておらず、心のないがらになっているかもしれない。かつての自分がそうであったように。


 あるいは、白犬ホワイト・ドッグ残酷ざんこくな決定をくだすのだろうか。


 いずれにせよ、ここまでだ。

 狩人に、これ以上できる事など何もない。


「馬鹿なことをしたな、〈死神グリム・リーパー〉」


 いつの間にやら相棒バディの声は、通信機越しでなくかたわらにあった。

死神グリム・リーパー〉は茜音の身体をささえてやりながら、相棒バディを見上げた。


「……」


 沈黙はいつものやり取りだ。

紫煙スモーカー〉はつかれたように息を吐く。


「なぜ、あんな無茶むちゃ真似まねをした?」

「〈自我エゴ〉を生かすためだ」

「なぜ生かした?」

「必要だったからだ」

「そうか」


 尋問じんもん早々そうそうに打ち切られた。

 今後のために、〈猟犬ハウンド〉の宿主を確保かくほした、とでも解釈かいしゃくしたのかもしれない。


 おもむろに煙草たばこをとりだし、火をつけた。任務はもう終わったというのに。

 わざわざきらいなけむりを吸いこんで、


「ゲホッ! ゴホッ、ゴホッ!」


 むせた。

 それから忌々いまいましげに煙草をにじり消して言う。


「……お前は、彼女の特性とくせいを報告するか?」


 と。

死神グリム・リーパー〉には、その意味が理解できなかった。

 煙を嫌ってしかめた相貌そうぼうを見上げ、首をかしげる。

 すると〈紫煙スモーカー〉が、その口許が、かすかに笑ったように見えた。


「〈猟犬ハウンド〉がそうなのか、彼女が特別なのかはわからんが、とにかく不思議な力があるようだ。お前、感情を知ったのだろう?」

「……!」


死神グリム・リーパー〉は絶句した。

 胸に冷たい刃を突きつけられたような気がした。


 何故それを。

 焦りが凍えた胸を焼く。

 なんと答えるべきだ。

 背筋を汗が伝った。


 茜音によって感情が芽生めばえたことを知られれば、白犬ホワイト・ドッグは茜音も自分も処分しようとするに違いなかった。〈虚無エンプティ〉は奴らにとって、便利な道具に過ぎず、人としての価値かちなど求められてはいないのだから。


 しかし〈死神グリム・リーパー〉は、ややあって、


「お前もなのか?」


 そう返した。


「……」


紫煙スモーカー〉はすぐに答えなかった。

 夜の忍び寄る黄昏たそがれの空を見上げ、そっと吐息をもらしてから言った。


「〈自我エゴ〉と接触せっしょくしてから、どうも様子がおかしくなった。不要ふようなことを考えるようになったり、胸の奥になにかがうごめくような感じがしたり。得体えたいの知れない感覚があった」

「では、やはり……彼女には、そのような特性があるのか」

「私はそう考えている」


紫煙スモーカー〉は茜音を見下ろした。無感情な冷たい眼差しに見えた。

 けれど、ふとこちらに目をやってから、彼女は正面に向き直った。


「私は、この事を秘匿ひとくしようと思う」

「なに?」


死神グリム・リーパー〉は耳を疑い、相棒バディを見上げた。そこに一瞥が返った。


「お前が上に報告しないのなら、私も報告しないと言ったのだ」


 そして〈紫煙スモーカー〉は、バサリとロングコートがひるがえらせた。

死神グリム・リーパー〉は、茫然とその背中を見送った。 


 入れ違いに、統制部隊の屈強くっきょうな男たちが、場内じょうないへと押し寄せてくる。

 一人が、茜音を支えた〈虚無エンプティ〉を見出みいだした。

死神グリム・リーパー〉は簡潔かんけつに状況を報告した。

 胸中きょうちゅうふくれあがる不安などおくびにも出さず、茜音の身柄みがらを引き渡した。



――



 その部屋は壁も天井もすべてが白に統一とういつされている。中央ちゅうおうをアクリル板によってへだてられ、それぞれの空間に一脚の武骨ぶこつなパイプ椅子だけが用意されていた。


 その一方に腰を下ろしているのは、囚人服しゅうじんふくのような白服に身を包んだ少女だ。ながい黒髪はたばねられ、背もたれの後ろで馬の尻尾のようにれ下がっている。かすかにれた双眸そうぼうは大きく可憐かれんだが、不安にかげり本来の輝きを損なわせていた。


 やがて、対面のドアがひらくと、姿を現したのは黒ずくめの人物だった。ロングコート、革手袋、ブーツ。黒一色だ。無論、その顔をかげにかくすつば広帽子も漆黒しっこくであった。


 帽子の人物は、壮年そうねんの女性を引きれて入室。少女を見るなり肩をすくめた。


要望ようぼうこたえるのは骨が折れたナ」


 最初に頭をさげて頼みこんできたのは彼女ではないが、〈帽子屋マッド・ハッター〉は当てつけのように言った。


 まあ、それだけだ。

 事情を知らぬ彼女を責めても詮無いことである。

 彼はドアを閉めると、壁にもたれかかり腕をんだ。


「茜音ッ!」


 壮年の女は娘を目にした途端、狭い室内を駆けだし、すわろうともせず、アクリル板にひたいを押しつけた。

 茜音は、そんな母の姿を穏やかに見返した。微笑を浮かべると、呟くように「お母さん」とぶ。

 母はそれで、目の前の少女が自分の娘に間違いないと確信したようだ。表情には興奮を残したまま、へなへなと椅子に腰をろした。


「びっくりしたよね」


 茜音はつくろうように口角を上げた。

 母の前では、最後まで明るい娘のままでいたかったから。


「急にこんなところ連れて来られて、色々わかんないでしょ。でも、安心してね。お母さんは、無事ぶじにここをでられるから」


 母はすぐに、そのニュアンスの違和いわに気付いた。


「待って、どういうこと? 茜音は……茜音もここをでられるのよね?」


 茜音はしずかにかぶりを振った。

 母の身体が雷に打たれたように硬直こうちょくした。


「あたしはここを出られない。二度とお母さんに会うこともない」

「なにを、どういう……?」

「ごめんね、お母さん。でも、時間がないの」


 狼狽うろたえる母を、茜音はじっと見つめる。双眸に揺れるのは悲愴ひそうだ。しかし視線をらすことは決してない。

 母との最後の時間だ。

 茜音は母の姿を脳裏のうりに焼き付ける。

 この機会を、ふいにするわけにはいかない。

帽子屋マッド・ハッター〉に無理を言って、ようやくこの舞台ぶたいを設けた。


「お母さん、聞いて」


 本来なら、母は拘束こうそくされることなく、今ごろむすめに関する記憶を抹消されているはずだった。

 しかし〈帽子屋マッド・ハッター〉は、勾留されていた茜音の許にあらわれるなり、こう訊ねたのだ。


『お母さんに会いたいかナ?』


 と。

 茜音はすぐに『会いたい』と言った。

 彼は『それが最後になる』と返した。


『会わせて欲しい』


 茜音はくり返し答えた。

帽子屋マッド・ハッター〉は頷いた。

 踵をかえした〈虚無エンプティ〉に、茜音は訊ねた。


『どうして、あたしの言うことを聞いてくれるの?』


帽子屋マッド・ハッター〉は帽子のつばを指で押しあげ、まっすぐに茜音を見返して答えた。


『君に感化かんかされてしまったからナ』


 そして彼は、本当にこの場を設けてくれたのだ。

 二度とこんなチャンスはない。茜音は自分の立場を把握しきれていなかったけれど、それだけは確信していた。

 だから母の娘でいられるうちに、本当の気持ちをげなければならなかった。


「……あたし、ホントはね。お母さんが結婚けっこんするの嫌だったんだ」


 母は口をもごもごと動かし、何か言おうとした。けれど、言葉はでてこない。この場にどんな返答が相応ふさわしいのかはんじかねているようだった。


「あの人に、お母さんをられちゃう気がしたの。結婚したら、あたしの事いらなくなるんじゃないかって、不安だった……」

「そんなわけ……」

「大丈夫。分かってるよ、今なら」


 本当に。今ならばわかる。

 人はいつも失う瞬間ときになってから、本当に大切なものを知る。


「あたしね、お母さんに伝えたいことがあるの」


 沢山あるの。

 けれど、そのすべてを伝えることはできない。上手く言葉にできないし、そんな時間も残されていない。

 だから茜音は、演技ではない、心からの明るい笑みを贈った。

 

「……お母さん、大好きだよ。結婚おめでとう」


 本当は、ずっと前に言うべきだった。

 もっと前に、安心させてあげられたらよかった。

 それなのに、こんなに遅くなってしまった。


、幸せになってね」


 母はこの言葉さえ忘れてしまうけれど。

 彼女の娘は、いなくならなければならない。


「待って、茜音っ……! 私は!」


 母からの言葉は必要ない。

 もう充分に知っているから。

 自分が母を愛し続けてきたように。

 母がずっと自分を愛し続けてきてくれたこと。

 言葉なんてなくても、痛いほどわかっている。


「……お願いします、〈帽子屋マッド・ハッター〉さん」


帽子屋マッド・ハッター〉が組んでいた腕をほどいた。足音ひとつたてず、母の背後にしのび寄った。


 母は叫んだ。

 何度も「茜音ぇ!」と呼びかけた。

 訳も分からず己をめたてるような、不条理ふじょうりを呪うような、その声は〈虚無エンプティ〉の胸にも痛いほどだった。


 しかし彼は、女のとうちょうに手をかざすと、漆黒のつば広帽子を紡ぎだした。たちまち女の目から光が失われ、悲痛なさけびは途絶えた。もう二度と、彼女が娘の名を呼ぶことはなくなった。


「さて、とっ」


帽子屋マッド・ハッター〉は女の身体をかつぎあげた。

 ドアに手をかけると、背後からすすり泣きが聞こえた。

帽子屋マッド・ハッター〉は肩越しに茜音を見た。


「君は、記憶を消さなくていいのかナ?」


 少女はうつむいたままだった。

 決して目を合わせず、顔もあげなかった。

 けれど、毅然きぜんとした声色で返した。


「……あたしはお母さんが大好きだから。忘れずに、いつまでも背負っていきます」

重荷おもににならなければいいが」

「大丈夫です。あたしが化け物になったとき、大好きな友達が、あたしをすくってくれた気がするんです。だから、お母さんは、あたしの心の救いなんです」

「そうか」


 今、まさに自分の心を苦しめているものが救いか。

 合理的とは言い難い。滑稽こっけいとすら思える。


 しかし感情とは、心とは、畢竟ひっきょう、滑稽なものなのだろう。


帽子屋マッド・ハッター〉には、人間こころのままならなさがほんの少しわかるような気がする。


「やあ」


 部屋をでると迎えがあった。

 腕を組んで壁にもたれかかる男がいた。先ほどまで自分も同じ姿勢をしていたな、と〈帽子屋マッド・ハッター〉は可笑おかしな因果を自覚した。


相賀おうがくんのお願いを聞いてくれてありがとう」

「〈死神グリム・リーパー〉の願いを聞いたつもりはないがナ。泣きついてきたのはお前だろう?」


 男――御堂筋みどうすじとうは肩をすくめた。


「まあね。でも、九条茜音あの子を母親に会わせてやってくれと僕に頼んできたのは相賀くんだからさ」

「ほう、奴もわたしと同じか」

「うん」

「そうか」


帽子屋マッド・ハッター〉は女を担ぎなおしきびすを返す。


「そろそろ行く。目を覚まされても困るからな」

「そうだね。ありがとう、兄さん」

「ああ」


 そうして二人は、別々の方向へとあるきだした。

 それは二人の運命が激変した、あの日にも似ていた。


 人と人の運命は重なることがない。

 だが、たとえ互い違いの道の先で、ほんの一瞬でも交わることならあるかもしれない。


 弟の背中がかどに消える頃、〈帽子屋マッド・ハッター〉は、ふとその背中へふり返ってつぶやいた。


「……また面談室で、東吾」

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