二十章 ヒーロー

 先に仕かけたのは、〈奈落の霊牙サーベラス〉でなく〈黄金峰アッサル〉のほうだった。

 手中しゅちゅうに棍を回し、先端に鋭利えいりな四角錐をみあげたのだ。


 彼の名は、長腕のルーが所持した必殺必中の槍を由来とする。棒状武具の先端に固定される黒い粒子ダークマタは、その穂先ほさき――。


「……イヴァルいけ


黄金峰アッサル〉が敵のふところへ飛びこむことはない。メットの奥のくちびるが、謎めいた文言もんごんを呟けば、固定された穂先はそれにこたえる。

 黄金の輝きに翼をひらき、一直線に空をけるのだ!


「ゴメンナサイ……」


 無論、漆黒しっこく異形いぎょうやいばとどかない。

 粒子にかたく編まれた爪が穂先をはじき飛ばしてしまう。

 黄金のきらめきはくだける。穂先は漆黒に。羽をもがれたちょうのごとく落ちていく。


奈落の霊牙サーベラスは、すぐさま反撃にてんじた。

 その一挙手一投足を、〈黄金峰アッサル〉はみとった。虚空こくうより生ずる牙がリズムをくずすも、彼の極限的な集中をほどくにはいたらなかった。弧をえがくように立ち位置をかえ、沈黙した穂先と自身との間に獲物えものを配置する。


 そして、その唇がつむぐ。


アスィヴァルもどれ


 と。


 沈黙した穂先が、突如とつじょ、息を吹き返した。

 黄金の輝きを取り戻し、主のもとへと飛翔ひしょうする!



――



柘榴グレネード〉の生成する弾は、たった一撃を命中ヒットさせるだけで敵に致命傷を与える。


 相手が〈仔犬パピー〉であったなら、今ごろは支局へ帰投きとうし報告書でもまとめているはずだったろう。そうでなかったとしても、地上へ降りたっての至近射撃などこころみる必要はなかったはずだ。


 いざ対峙たいじして初めて、〈猟犬ハウンド〉の厄介やっかいさを思い知る。


 おそらく相棒バディの〈籟魔パズズ〉は奴にやられた。以前に何度か共闘経験のある〈雌蟷螂エンプーサ〉も、奈落への招待しょうたいをはねのけられなかった。

 必殺の弾丸も、硬質な追加肢オプションには通らず、容易に弾き飛ばされてしまう。


「だが」


柘榴グレネード〉の戦意せんいついえることはない。

 彼は自身の立場を理解している。たとえ一撃のもとに敵を撃滅げきめつできずとも、自分がいることの意味を知っている。


 牽制で充分だ。

 追加肢オプションの動きを封殺ふうさつできるメリットは大きい。


 ……あとは奴らがやってくれる。


 仲間の死にいちいち感傷かんしょういだくことはないけれど。

 自分が独りでない事くらいは〈虚無エンプティ〉にも理解できる。


「……」


黄金峰アッサル〉に翻弄ほんろうされる〈奈落の霊牙サーベラス〉の背後へ、〈柘榴グレネード〉は慎重しんちょうに回りこむ。



――



紫煙スモーカー〉の役割は敵の位置を捕捉ほそくし、早急さっきゅうかつ的確てきかくに〈黒犬ブラック・ドッグ〉を討滅とうめつへ導くことだ。仲間が危機にひんした際には、粒子の柱を構築こうちくたてとすることもできる。


 だが、柱はしょせん盾にぎない。攻撃能力は皆無かいむである。棒の先端に固定して鉄槌代わりになぐることも可能だが、片腕に古傷をもつ彼女は、やはり戦闘要員としては欠陥品だった。


 体力をおおむね使いたした今では、柱も間断かんだん的にしか構築できない。


 それでも、まだやれる事はある。


「……マズい」


 仲間たちに作戦をつたえ、煙草を吐きだした彼女は、靴底くつぞこで火をにじり消すと室内をふり返った。


 にぶく点灯したコンソールの前。

 大柄おおがらの彼女にもおとらない大男が、ぶるぶると捨て犬のように震えていた。


「話はついた。合図あいずをしたら発車させてくれ」

「は、っ、はい……!」


屍肉喰らいスカヴェンジャー〉逃走直後、この男が泣きついてきたのは僥倖ぎょうこうというより他なかった。

 最初は「早く逃げろ」とだけ伝えたものの、化け物を見た所為せいか、一人ではとてもおそろしくて逃げるに逃げられなかったらしい。「私はこういうもので……」と、突然、身上説明を始めたときには「邪魔だ」と一蹴いっしゅうしようかとも思ったが、ジェットコースターの管制かんせいをしていると聞いて、これは使つかえると考えた。


 仲間へのサポートはおこたらず、おそいかかる牙は避け、男の首根っこをつかんでここまでやって来た。


奈落の霊牙サーベラス〉は、間違いなくこちらの存在を知覚ちかくしている。だが、意図いとまではめまい。執拗しつような多段攻撃を仕かける〈黄金峰アッサル〉や一撃必殺の〈柘榴グレネード〉を警戒し、安易あんいにこちらにまで能力は展開できない。


 それでも〈紫煙スモーカー〉は牙を警戒しながら、仲間からの合図を待った。真っ直ぐに下り、円をえがき、あるいは螺旋らせんにめぐるレールの上に影を待った。


 今や世界は、濃霧の外にあかねにじませている。天にくすぶり黒煙さえもがす、はるかなる燎原りょうげんのごとく。


 そのねつを受けながら、今、漆黒の翼が濃霧をいててんおどった。


『こちら〈大鴉レイヴン〉。所定しょていの位置へ到達とうたつ

了解オーケー。今だ、発進はっしんさせてくれ」

「りょ、了解しましたぁ……!」


 風の音にかき消えてしまいそうな声音こわねとともに、ホーム上のブレーキが解除される。わずかに傾斜けいしゃをなしたレールが、ゆるやかな発進をうながす。チェーンリフトの巻き上げが、車両を坂道へ押しあげる――。


「コースターの起動を確認」


 仲間への連絡れんらくえると、〈紫煙スモーカー〉はあらたな煙草に火をつけた。わずかにむせながら、長くながく煙を吐いた。


 あとはお前次第だ、〈死神グリム・リーパー〉。



――



大鴉レイヴン〉に抱えられ〈死神グリム・リーパー〉は天をう。

 間もなく、車両はレールの頂点にたっする。最大になった位置エネルギーは、運動エネルギーに転換てんかんされ、濃霧の世界を穿うがち駆けるだろう。


 眼下がんかの地上では〈奈落の霊牙サーベラス〉が猛威もういを振るっていた。

黄金峰アッサル〉が真横から尾に弾き飛ばされ、地をたたきつけた触手がつぶてをまきらし〈柘榴グレネード〉をいためつけた。


 二人が犠牲ぎせいになるのは時間の問題だ。

 ゆえに〈死神グリム・リーパー〉は、極限の集中にぼっさねばならない。


 この作戦の〈死神切り札〉である以上は――!


 ガゴ。


 今、車両がレールの頂点に達する。チェーンリフトの手をはなれ、縹渺ひょうびょうたる速度の世界へはなたれる。


 ななめにかしぎ、加速する!


大鴉レイヴン〉が羽搏はばたく。車両に追従ついじゅうする。

死神グリム・リーパー〉はカッと目を見開く。

 その形を脳裏のうりきざみこみながら。不可視の手を伸ばしひろげた。


 こめかみを伝う汗が、きつける風にった。背からきだした蒸気がうっすらと白いをえがいた。手のひらからのように粒子が爆ぜる。


 もう少しだ……!


 車両は最高速。

 その先頭を、大気を焼くようにして粒子がおおっていく。レールをすべる一輪一輪までのがすことなく。


死神グリム・リーパー〉の鼻から血の糸がれる。

 頭のなかを稲妻のような痛みが駆けぬけた。


「くぁっ……!」


 それでもなお〈死神グリム・リーパー〉は集中を乱さなかった。


 濃霧にけた茜が。

 心象しんしょうの燎原が。

 眼間まなかいに揺れれば。


 彼のかざした巨大な手のひらは、すっぽりと神速しんそくはこみこんだ。

 漆黒の車両が、動きを止めた。


「……設置した。頼む〈大鴉レイヴン〉」

「心得た」


 翼をたたみ〈大鴉レイヴン〉ははやぶさのごとく滑空かっくうをはじめた。

 地上がってきた。凄まじい勢いで降ってきた。


黄金峰アッサル〉の背中を、奈落ならくの牙がえぐった。〈柘榴グレネード〉の腕を触手がかすめた。

 血が飛び散り、それぞれの命の灯火ともしびが揺れていた。


 地上が迫る。もはや眼前がんぜんに。

大鴉レイヴン〉は羽搏はばたいた。錐揉きりもみ回転し、真横に吹きぬけた。神の振るうやりのごとく。


 正面、〈奈落の霊牙サーベラス〉が向き直る。二つの首を殺意に震わせながら。


 このまま真っ向から切りむすぶか。


 否!


大鴉レイヴン〉は急制動をかけ、双翼そうよくをひらいた。

 数度羽搏き〈死神グリム・リーパー〉を地上へ吐き捨てた。


死神グリム・リーパー〉は前転で体勢を整える。

 起きあがると同時に手をかかげた。

 茜色をくもらす絶望へ向けて。


「……来い」


 レール上で静止せいしした車両がぐずぐずと瓦解がかいした。

 そして、〈死神グリム・リーパー〉の手のひらで。

 巨大な、超重量、のジェットコースターは。


「来ぉい!」


 止まった時をとり戻す!


 ギギギギギギギギィッ!


 火花が散る!

 触手に刻まれた軌条きじょうを、車両が駆けぬけた!


「……ガッ!」


 その轟音ごうおんはがね疾風はやてに。

 もはや〈奈落の霊牙サーベラス〉がなす術はなかった。

 最高速の運動エネルギーを維持いじしたまま放たれた車両は、一対いっついの触手を盾とする間もあたえなかった。


 わずかに中心をれ、残された左頭部目がけ、


「ギャロォォオォオオオオオォォオオォオオオオンッ!」


 衝突!

 頭部は即座に爆散ばくさん。左前肢後肢ともにぎ落され、衝撃に弾き飛ばされて無残に地をころがった。


『……!』


 しかし仲間たちの息遣いは、一斉いっせい絶句ぜっくのそれへと変じた。

 ねらいをはずしたからだ。

死神グリム・リーパー〉は真正面から能力を発動させる手筈てはずだった。


 ところが彼は、ねらいをらしたのだ。

奈落の霊牙サーベラス〉を、一撃のもとにほうむるのをこばんだ。


 きっと他の〈虚無エンプティ〉には、誰一人理解できない行動だったろう。

 理解される必要ひつようもなかった。

 その心は、化け物にも、他のどんな人間にさえもれることのできない、彼だけのものだった。


死神グリム・リーパー〉は鋼の意志を胸にかけ出した。

 絶望サーベラスとらわれた、彼女のもとへと。


 絶望はそれを拒んだ。無残に地を舐めながら。

 なお瘴気を吐いて、目につくものすべてを喰らい尽くさんと顎をひらいた。


死神グリム・リーパー〉は鎌を構えなかった。その手には刃のない警棒があるだけだった。


「……九条くじょうさん!」


 少年は、異形いぎょうの口中へ跳びこんだ!



――



『アタし、最低。カオ、カオカオ、カオちゃン、裏切ッた。シってたノに。アノ子のキモち』


 獣の残酷ざんこくなげきが、茜音あかねを優しく抱擁ほうようする。暗闇のなかには、ただ絶望がある。自分をむしばむわけでなく。ただそこにあって、助けてくれともがいている。


 微睡まどろみ心地好ここちよい。どこまでもふかい。うしなってしまった幸福をとり戻すためには、獣に身をゆだねてしまうのが一番だ。ずっと昔に経験したから知っている。


 このまま獣がすべてをりつぶしてくれればいい。自分という存在さえも。こんなうすっぺらで醜悪しゅうあく自我じがなど消えてなくなってしまったほうがいい。そうすれば、九条茜音という存在が、かおるのような不幸な人をみだすことはなくなる。それこそが、真の幸福だ。


 ずっとねむっていられればいい。もう目覚めなくていい。

 父の死の悲痛ひつうも、眠りの中まではやって来ないだろう。


 そう思うのに。

 何かが眠りをさまたげている。

 眠ってはいけない気がしてしまう。


『ギャロォォオォオオオオオォォオオォオオオオンッ!』


 獣が憤怒ふんぬと悲鳴をさけぶ。


 この子まで、眠りを邪魔じゃまするのだろうか。

 何故だろう。


 考えようとするけれど、すぐに億劫おっくうになってやめた。

 まぶたが重い。身体がだるい。何もしたくない。

 今度こそ、眠れるような気がする。


 それなのに。


「……九条さん!」


 声が聞こえる。微睡のなかに押し寄せて、暗闇をやす声だった。


 誰かが、あたしの名前をんでいる。



――



「九条さんっ!」


 閉じかけた顎を警棒で押し留め、〈死神グリム・リーパー〉は闇の中へ手を伸ばす。


 際限さいげんなくあふれ、すべてを憂鬱に染めあげてしまう瘴気。

 その中に、あの日この身を抱きとめてくれたぬくもりを探した。


「君が、俺を救ってくれたんだ……! 〈黒犬ばけもの〉になった俺を、救ってくれた!」


 瘴気が奔流ほんりゅうとなって手を拒んだ。針のようにささくれ立って傷つけた。

 それでも〈死神グリム・リーパー〉は、深くふかく手をさし伸べる。


「それなのに俺は、君の友達ではいられなかった。君のそばにいられなくなった。君のこともずっと……忘れてた」


虚無エンプティ〉として目覚め、忘れてしまった過去かこがあった。

 忘れたくない、大好きな友達がいたのに。

 茜色の空の下。

 絶望におぼれ、化け物になり果てた自分を。

 救ってくれた人がいたのに。


 ずっと忘れていた。


「俺はヒーローになれなかった。君が、そう呼んでくれたのに。人をしんじる心さえ、くした……」


 瘴気が腕を傷つける。コートの袖も、スーツも無残むざんに裂け、皮膚から血がしぶいた。


 痛い。


 剥がれていく爪が?

 えぐられる肉が?


「でも今は……」


 違う。


 伸ばしても届かない、もどかしさが。

 大切な人をみこんだ悲しみが。


 こんなにも胸に痛い。


「九条さん、君を、たすけに来たんだ」


 もう忘れない。

 あの懐かしい日々のこと。


 初めて行ったファミレスも。

 夜の公園で一緒に食べたおにぎりの味も。

 隣で「任せなさい!」と胸を叩いた、その笑顔も。


 すべておぼえている。


「目を、覚ましてくれ……九条さん!」


 バリバリと瘴気が存在を蝕む。

 痛みは手許に無限にはじける。


 それでも、この胸の痛みにくらべたら。

 いまくるしみ続ける彼女の痛みに比べたら。


「目ぇ覚ませよ――」


 こんなものは痛みですらない。



――



 いくつかの告白があった。

 俺を救ってくれただとか。ヒーローになれなかっただとか。

 うるさい声はしゃべりつづけている。


 それが何だというのだろう。茜音には理解できない。

 この声が何者なのかも分からない。


 ただ声を聞くたびに、胸のおくに、ぼうとほのおが燃えあがる。闇にした視界に、美麗びれいくれないが明滅する。


『でも今は……九条さん、君を、助けに来たんだ』


 助けに?


 茜音は茫洋ぼうようとした意識で、首をかしげた。

 すると、脳裏に懐かしい情景じょうけいがひらめいた。


 茜色の空を背景に、両腕をいっぱいにひろげた背中だ。男の子の小さくて広い背中だ。


 誰だろう。

 分からない。やはり分からない。

 なのに胸のなかの炎は、いっそう熱をしていく。


『目を、覚ましてくれ……九条さん!』


 ふと声にしたがってみたくなった。

 とても懐かしい感じがするから。


 けれど暗闇はあばれる。もだえるようにささやく。


『カエッテ来ないヨ。帰っテ。誰も、誰も誰もダレも』


 とたんに目をけるのがこわくなる。

 世界には何もない。あたしを待ってくれている人なんて、誰もいない。

 お父さんは死んだ。目の前で死んだ。お母さんは幸せになる。あの人と結婚して幸せになる。カオちゃんは、あたしをうらんでる。レーちゃんだって、きっと軽蔑けいべつしたに決まってる。


 誰も、誰も誰も誰もいない。ひとりぼっち。


 そんな世界に目を覚ますくらいなら――。


『アカネちゃん!』


 そう思うのに。ああ、こんな時に、どうして。

 ひどく懐かしい声を思い出すのだろう。

 痛くて痛くて、怖かった日々に。

 両腕を拡げて立ったあの子の。

 大好きだいすきな友達の。



「茜音ええええええええぇえええぇッ!」



 声が、聞こえるのだろう。

 温もりを感じるのだろう。

 暗くて、怖くて、冷たい闇に。

 熱いあつい指先を感じるのだろう。


「ア、アア、……あ」


 茜音はおそるおそる瞼をもちあげる。


「九条、さん……!」


 今、穿うがたれた、針の穴のような隙間すきまから。

 しこむ茜色が網膜もうまくに焼きついた。


「あっ、ああ……」


 そして、自分のおろかさを思い知らされた。

 どうして今まで気付かなかったんだろうと、思わずにいられなかった。


「あ、ああぁ……!」


 あたしを待っていてくれる人なら。

 こんなに近くに――。


「……いっくん」


 茜音は差し伸べられる手に、自分の手を伸ばす。

 するとまばゆい光を前にしたように、闇は恐れてっていった。

 あたたかい感触が指先に触れた。そのねつが、陰鬱いんうつな微睡を焼いていく。


 眼前にあるのは黒い人影だった。その相貌そうぼうは、茜色の逆光ぎゃっこうで見えない。けれど、分かる。この人が、暗いくらい闇の中から、自分を引きあげようとしてくれていることだけは。


 ああ、こういう人のこと、なんて言うんだっけ?


 その問いの答えは、風が教えてくれた。

 黒い人影の、破れたコート、その袖が舞いあがった。

 両腕を拡げたように。

 あの日の、


「ヒーロー……」


 のように。


 そして闇は吹き飛んだ。獣の声は灰になった。

 たちまち世界が温かな炎の色にわたって、


「……っ!」


 ちょっと痛いくらいにきしめられた。


「おかえり、九条さん」


 その両腕の感触があつくて、

 声はとても優しくて、


「……ただいま」


 本当に心地良い微睡が、つかれとともに押し寄せてくる。

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