十九章 不倒の影

「……ハッ」


 無限のもやに意識をかすめとられた一瞬は、たして一瞬だったのか。

 夢の世界をいだし、瞠目どうもくに目覚めた世界は、ひび割れていた。

 しかしいびつな映像の中でも、瘴気しょうきを吐きだす〈奈落の霊牙サーベラス〉の三つ首ははっきりと見てとれる。


 そう、瘴気だ。

 室内アトラクションのかべに叩きつけられた〈死神グリム・リーパー〉は、周囲からいた殺意を感じとる。気体のように浮遊ふゆうした粒子が、りあげられ牙とすのを。


 すぐさまその場をだっしようと腹の底に力をこめた。


「……ァ!」


 すると、かえってきたのは塗炭とたんの苦しみだった。

 先の一撃いちげきあばらを数本やられた。身体は動くが、痛みで動きがにぶい。


 生き残る術は一つしかない。

死神グリム・リーパー〉は異能の発動をこころみる。

 そして、瞬間的に黒い粒子ダークマタが湧き立つのを感じとった。すでに三秒の制限せいげんは脱している。


 それを知覚ちかくしたうえで〈死神グリム・リーパー〉は、虚空こくうより出でた牙に、能力をした。

 粒子によって現出したあぎとが、別な粒子によってつつみこまれたのは一瞬だった。


死神グリム・リーパー〉は痛みにえながら身をよじり、瓦礫がれきを脱する。

 その間に顎が閉じることはない。時が止まったように静止せいししていた。


「ッ!」


 たたらを踏んで、れたメットを脱ぎ捨てた。血のつばを吐き、稲妻いなずまが駆けめぐるような痛みを気力でねじせる。

 ふところをさぐる。予備よびの通信デバイスは無事だ。すぐさま装着する。


奈落の霊牙サーベラス〉は、愕然がくぜんとしたようだった。体毛を波打たせ、頭を振っている。虫けらをくだくはずの顎が機能きのうしない所為だ。


死神グリム・リーパー〉がホルスターから二本目の警棒を抜きはなち伸長しんちょうすると、三つ首の異形いぎょうは、ふたたび蒸発じょうはつする体毛を逆立てた。ねばついた殺気が濃霧に充ち満ちた。


 これが今の茜音あかねの姿。

 快活かいかつえんじ続けた少女の本性ほんしょうか。


 いや、と警棒をかたく握りしめる。

 胸の奥には、まばゆくあつい光がきていた。

死神グリム・リーパー〉は、すべてを思い出した。

 今ならばわかる。真実、光そのものに思えた、かつての茜音を憶えている。

 あれが彼女の本性だ。そうでなかったなら、自分はこうしてここに立ってはいない。


 九条くじょうさんが、俺をすくってくれた……。


 日常の些細ささいな悩みからも、あるいは絶望による支配しはいからも。

 ずっと忘れていたけれど。

 ようやくあの刹那せつなの夢の中で邂逅かいこうできた。


「俺は……」


 未だに自分をヒーローだとは思えない。

 犬を狩る異能に目覚めても。


 それでも。

 あの日、茜の空に希望を見出みいだしたように。


 今度は俺が、君を救う番だ……!


死神グリム・リーパー〉が地をるのと、眼前に瘴気が蝟集いしゅうしたのは、ほぼ同時だった。

 ふうじられたはずの牙は、しかしまだ残されていた。〈紫煙スモーカー〉と〈柘榴グレネード〉へ向けられた殺意が、はっきりと〈死神グリム・リーパー〉一人に収束しゅうそくした瞬間だった。


 横開きに生じた顎が、〈死神グリム・リーパー〉を待ち受ける。彼はそれを、急制動をかけバックステップでかわす。


 ところが、背後にはすでにもう一つの牙。

 能力をした〈死神グリム・リーパー〉には、転移てんいによる回避手段は残されていない。


 警棒を肩に。

 先端へ三日月型のやいばを生成する。

 鎌が、じる顎を受ける。


 ギンッ!


 その一瞬が活路かつろをひらく。

 眼前の顎が霧散すると同時。


 踏みこむ。


 即座そくざに刃を霧消。警棒をひき抜き。

 彼我ひが隔絶かくぜつを埋める。


 巨躯きょくもまたせまる。

 進路を左へ。しかし傷ついた人の足ではおそい。


 衝突まで間もない。

死神グリム・リーパー〉は左袖をつき出す。


 射出されるワイヤーフック。

雌蟷螂エンプーサ〉の亡骸なきがらを睥睨する、レールの支柱にからみつく。

 き上げ機構きこうが〈死神グリム・リーパー〉を風とさらう。肩口を牙がかすめ、かすかに血にれた。


奈落の霊牙サーベラス〉が急制動をかけると同時、フックを解除かいじょする。間髪入れずけだす。


 その目が敵の側面そくめんを捉える。

 急制動をかけた今ならば、三つ首の足は持ちあがらない。背後からは〈柘榴グレネード〉が牽制射。触手の輪がそれを払った。


 警戒けいかいすべきは頭部のみだ。


「ッ!」


 肉薄にくはくする。

 案の定、襲いくる右頭部。

 牙をきだし、地面のタイルごと虫けらを噛み砕きにかかる。


死神グリム・リーパー〉は退かない。ふところもぐりこむ余地よちさえないとしても。


 まだ、ある。対抗策が。

 化け物に目覚めたからこそ、化け物に対抗し異能ちからがある。


 設置された牙が今、


「来い!」


死神グリム・リーパー〉の手にびだされる。

 たちまち止まった時は動きだし、


「グラァオゥ!」


 牙と牙がらい合った!


死神グリム・リーパー〉は横にぶ。

 異形の首へと回りこむ。

 漆黒しっこくの鎌を振りおろす!


「オオオォアァアァアアァアアアッギ!」


 断末魔だんまつま。おびただしい粒子が、けたたましい叫びが、首ひとつの死を告げた。血のような粒子とともに、その輪郭が蒸発をはじめた。

 しかし殺意はいっそうふくれあがった。むちのごとくしなる尾がをえがいた!


死神グリム・リーパー〉は刃を霧消。抵抗をなくし、警棒の先で砕けたタイルを打った。その反動をもって背後へひるがえる。


 眼前へ振りおろされる漆黒。

 鼻先を衝撃がかすめる。

 異形のいかりはなお治まらず、力任せにタイルを砕きながら、前肢まえあしを横にいだ!


「……!」


 それは重心の乱れを無視した、予想外の挙動きょどうだった。

 タイムラグは残り一秒。


 さすがに、こればかりは――!


 万事休すか。


 と、思われた、

 その視野に。


 漆黒の羽根がい落ちた。

 ゴッと耳にきぬける風籟ふうらい

 視界が天へ吸い寄せられ、胃のを浮遊感がぜた。


奈落の霊牙サーベラス〉のきょそう虚空こくうを裂いた。霧消する頭部が眼下がんかとおざかる!


加勢かせいする」


 った声を見上げれば、黒ずくめの人型があった。しかしその背から生ずるのは、空を双翼そうよくだった。隻腕せきわんを埋めるも、また翼だ。それらは陰鬱いんうつな霧の中でなお、ぬらりと光をすべらせる。濡れてきらめく死刃しじんのごとく。


「〈大鴉レイヴン〉……!」


 今、彼は〈死神グリム・リーパー〉とともに地上へ降りたつ。両翼から黒き雪のごとく羽根を散らしながら。


「助かった。増援は一人か?」

「いや、もう一人。せん支局から〈黄金峰アッサル〉が来ている」


 合流の合図あいずはすぐに寄越された。

奈落の霊牙サーベラス〉の真横から、黄金色こがねいろの光が飛来ひらいしたのだ!


「ジャアッゲァ!」


 奇怪きかい咆哮ほうこうこたえた。触手が背後の〈柘榴グレネード〉へ振りおろされ、遮蔽物を瓦礫にかえた。もう一方の触手は光を迎撃げいげきする。


 瞬間、はじかれた光は黒一色に染まり、細長い四角錐の姿をさらす。

 黒い粒子ダークマタ由来の穂先ほさきだ。


 攻撃は失敗。

 穂先は霧散することなく、むなしく地へ落ちた。

 そこへ追撃の影が躍りでる。

 穂先の描いた軌跡きせきをなぞるようにして、人影が異形へとせた。それが〈黄金峰アッサル〉だった。


奈落の霊牙サーベラス〉は二つになった首で、新手を迎えつ。


 無論、そこに馬鹿正直に打ち合う〈黄金峰アッサル〉ではない。

 異形の外周を迂回うかいし、咬撃こうげきを避け、爪の範囲をのがれた。手にしたこんを地面へつき立て、棒高跳びの要領ようりょうで尾をとびえた。


 あざやかで無駄むだのない動きだった。

 しかし、結局は立ち位置が変化しただけだ。


死神グリム・リーパー〉はそれを観察しながら、じりじりと距離をめる。頭上から湧き立つ牙は能力で捕捉ほそく。設置した。


黄金峰アッサル〉は、役立つか? わからない。


 だが、人手が増えれば、確実にすきをつくれる。屋外おくがいでは〈大鴉レイヴン〉も十全に力を引きだせる。


死神グリム・リーパー〉はさらに踏みこむ。敵の左側面をとる。まだ頭の残されているほう。隙をつくのは容易よういでないが、二人で仕かければあるいは――。


 そうして敵の攻撃軌道を予測よそくする最中。

 ふいに〈黄金峰アッサル〉が「アスィヴァル」とつぶやいた。


 意味は問うまでもなかった。

奈落の霊牙サーベラス〉の背後。

 虚しく地に落ちた穂先が、ふたたび黄金のかがやきを取り戻したからだ。


 たちまち意思もつ矢のごとく異形へとおそいかかる!


 霧がさざめき、長尾ちょうびが振り払う。

 すぐさま右側面へ回りこむ〈黄金峰アッサル〉。

 地へ叩きつけられた穂先が霧散し、棍の先端であらたに編まれる。漆黒のやいばが弧をえがいた。


 異形のけものは前肢で牽制けんせい

 そこに〈死神グリム・リーパー〉が仕かける。

 左頭部が牙をいた。

 冥府めいふのとば口のごとく顎をひろげた。

死神グリム・リーパー〉は設置した牙を手許へよび寄せ相殺そうさいさせる!


「……ぬァ!」


 鎌を振りかぶる。これで二つ目の首をる、


「ゴアアアアァアアアオオォォオォッゲッ!」


 はずだった。


 ところが〈奈落の霊牙サーベラス〉は、尾を地面へ突きさすと、あろうことか棹立さおだちになり刃の軌道を逃れた!


虚無エンプティ〉たちの嗅覚きゅうかくが、即座そくざに身の危険を感じとった。足許から万の針が立ちのぼるように、押しよせる危惧きぐの念。


 それぞれきびすをかえし、後退する。

 しかし〈奈落の霊牙サーベラス〉は、おのが首を刈った小さき者をゆるさぬ。


死神グリム・リーパー〉の背後。

 すでに開かれた顎が形をなしている!


 攻撃の隙をうかがっていた〈大鴉レイヴン〉が、すぐさま仲間の許へ飛翔ひしょうするも、触手の広域こういきな薙ぎ払いが接近を阻んだ。


 にもかかわらず、〈死神グリム・リーパー〉の足取りにはまよいがなかった。

 素肌すはだをさらしたからこそわかる。鼻をつき肺をくにおい。

死神グリム・リーパー〉は牙を迂回して避け、天より降りきたる巨躯から、わずかでも距離をとった。


 その空隙くうげきに、突如、紫煙が渦巻うずまいた。

 振りおろされるあしの軌道上。

 粒子が蝟集し、漆黒の柱をした!


「ギィィッラ!」


 柱が異形の左肢を受け止めた。巨体はななめに傾いだ。

 その時、尾がいっそう深く地をえぐった。触手が回転、タイルを擦過さっかし塵芥をまき散らした。右肢が地を踏みしめ、円弧に削った。

 左肢が柱から鉄槌のごとく振り下ろされ、蜘蛛の巣状の亀裂きれつを刻み、


「アア、ア……ホシイ、ホシイホシイヨ……」


 踏みとどまった。

 燃えたつ体毛に憤激ふんげきぜ、濃霧が蠢動しゅんどうする。殺気さっきがぴりぴりと空気を伝った。

奈落の霊牙サーベラス〉は、首ひとつ失ってなお戦意おとろえず、敵が増えようと怯懦に囚われなかった。


 対して〈虚無エンプティ〉たちは疲弊ひへいしていた。

 増援の二人はともかく、〈紫煙スモーカー〉に柱を連続れんぞくして構築する余力よりょくはない。〈柘榴グレネード〉の残弾はのこり少なく、〈死神グリム・リーパー〉は気力で立ち回ってこそいるが満身まんしん創痍そういだ。


 これ以上の長期戦となれば、削りとられるのは目に見えている。


 それでも〈死神グリム・リーパー〉の胸は、諦念ていねんこごえることなく燃えていた。脳裏に明滅めいめつする燎原りょうげんのごとき空が、なんどでも闘志を燃え上がらせていた。


死神グリム・リーパー〉は大鎌をかまえ、茜音を憂鬱ゆううつの呪縛から解放する術について思案しあんした。

 その時だった。


『こちら〈紫煙スモーカー〉。戦況がかんばしくない。これ以上の戦闘継続は、いたずらに死傷者を増やすおそれが高いと判断する』

「……なに?」


死神グリム・リーパー〉の声に截然せつぜんと怒気がみなぎった。

 まさかこの状況で、白犬ホワイト・ドッグが撤退命令でも寄越したというのか。

 ところがその予想は、続く言葉によって、すぐさま一蹴いっしゅうされた。


『そこで、ある作戦を考えた。聞いてくれ』


紫煙スモーカー〉は、淡々たんたんと語りはじめた。

奈落の霊牙サーベラス〉を一撃いちげきのもとにほうむり去る、必殺ひっさつの作戦内容を。

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