十八章 茜さす

 大好きな友達がいた。


 いつもあかるい元気な女の子だった。桜色の小さなくちびるが、一たび言葉をつむぎだせば、周りまで元気にしてしまうような力にあふれた、素敵な女の子だった。


 ハジメが他の友達とケンカをして落ち込んでいたら、彼女は持ち前の明るさをりまいて勇気ゆうきをくれた。友達の誘いを断ってまで遊んでくれた。ずっと一緒にいて励ましてくれた。「一緒いっしょに謝りに行ってあげる!」というもうはさすがにことわったけれど。その気持ちだけで、とてもうれしかった。


 毎日、学校へ行くのがたのしみになったのは、彼女のおかげだった。


 ハジメはおさないながらに、彼女を尊敬そんけいしていた。教室のすみでそっと嘆息たんそくをこぼすばかりの自分とはちがい、彼女はただそこにあるだけで春の陽だまりのようなぬくもりと優しさを周囲にもたらした。

 彼女の周りには、いつも誰かがいた。そして、誰もが笑っていた。たった一言、言葉をわしただけで、どんなに陰鬱いんうつにかげって見える世界も、次々とまばゆい門を開けずにはいられなくなるのだった。


 中学年になると、別々のクラスになった。

 それでも男女のへだたりなど気にもせず、二人で遊んだ。楽しかった。幸せだった。そんな感情をかくしもせず笑えるぶんだけ、彼女との時間は本物だった。


 一方で。

 彼女のひとみ次第しだいくもっていった。

 持ち前の明るさは、相貌そうぼうに落ちる小さな影の中に隠れ潜もうとするようだった。


 ハジメは彼女を案じた。

 なにか好からぬことが起きているのはすぐに判った。ても立ってもいられなくなった。彼女が元気をくれたように、今度は自分が元気をあたえなければとふるい立った。


 ある時、ハジメはたずねた。


「なにかつらいことがあるの?」


 すると彼女はハッと瞠目どうもくし、けれどすぐにあわい微笑を浮かべ「なんにも」と首を振るのだった。

 ハジメはすぐに、それをうそと見抜いた。だからと言って「本当のことを教えて」とはめよれなかった。


 ただただ嘘が痛かった。不甲斐ふがいない自分が嫌で、彼女が周囲にたよれないほど追い詰められているのかと思うと辛くてたまらない。

 そんな辛苦しんくの大きさと比例して、彼女との時間も減っていった。遊ぶことも、一緒に帰ることも次第になくなっていった。彼女には、いつしか新しい友達ができたようだった。男の子も女の子もいた。なのに、ちっとも楽しそうではなかった。


 やがてハジメは、問題を解決すべく動きだした。

 学校からの帰り道。

 彼女を尾行びこうしたのだった。


 彼女は例の新しい友達と帰るようだった。男女混同、四人ひと塊となったグループだった。


 ハジメは気付かれないように距離をとらなければならなかった。だから四人がどんな話をしているのかはわからなかった。そもそもあまり会話はないようだった。意味深な目配せが、彼女をのぞいた三人の間で交わされていた。彼女はずっと俯いていた。


 やがて四人は公園にたどり着く。仲良く遊ぶ、という雰囲気でないのは一目で知れた。

 三人は薄ら笑いを浮かべると、彼女をとり囲んだ。正面に立ったのは、女の子だ。その女の子は、目があうなり彼女の髪を引っ掴んだ。残り二人の男の子は、それを合図としたように、彼女の肩や腹を殴りはじめた。


 ハジメは短い悲鳴をあげた。

 公園に伸びてざり合った幾重いくえもの影の中から、たった一つ低いうめきがもれるのを聞きながら。


 ハジメの心から血が噴きだした。氷の刃を突き立てられたような恐怖と怒りがい交ぜになって、少年をき動かした。

 後先など考えられなかった。原始的な感情しかなかった。だから躊躇ちゅうちょもなかった。とび出さずにはいられなかった。


「やめろぉ!」


 腕を振りあげた男子を横からたたき飛ばし、すかさず彼女の前に立って両腕をひろげた。


ゆるさないぞ。この子にヒドいことをするなら。ボクが絶対に許さないぞッ!」


 震えた声は、きっと怒りよりおびえのほうが大きかった。両のひざは笑っていたし。三人相手に、喧嘩でてる気なんてしなかった。きっと一人だって無理むりだ。


 それでも彼女のためなら、


「許さないぞ……!」


 いつまででも立っていられるような気がした。


 どんなに大きな相手でも。

 どんなに強い相手でも。

 それで自分が痛い目にったとしても。


 彼女のためならくっせず、この両腕を拡げたままでいられると思った。


 女の子が露骨な嘲笑を浮かべた。

 それが自分に対するものであればいい、とハジメは思った。


 けれど女の子が、彼女を一瞥したのが判った。

 心を刺した刃が、氷から業火に変わった。ハジメは怒気をこめて女の子を睨みつけた。


「……っ」


 女の子は気圧けおされたようだった。顔をしかめ「つまんない」と吐き捨てれば、さっさと踵をかえし帰っていった。

 

 しかし男子たちは、嗜虐心しぎゃくしんから芽生えた闘志に爛々らんらんと瞳を光らせたままだ。


 ――結局、ハジメは、


「あぁ……痛い、すっごく痛い……」


 ボコボコになぐられた。

 身体のいたるところが痛み、痛まないところを探すほうがむずかしかった。口のなかは鉄臭い砂でかわいて、まったく最悪の気分だ。


 けれど、


「ごめん、ごめんね……っ!」


 苦痛くつうに耐えるだけの価値かちはあったはずだ。

 ハジメはこの痛みを誇らしく思った。

 彼女の泣き顔を見上げ、あれ以上の傷がえなかったことに、心の底から安堵あんどした。


あやまらないで。ボクは大丈夫だから」


 ハジメは泣きながら言った。「泣きながら言われても説得力ないよ」と、彼女も泣いた。


 しばらくの間、二人でただただ泣いていた。

 これからどうなるのかはわからなかったけれど。

 不思議と怖くはなかった。


 もし、また彼女をいじめる奴が現れたなら、何度でも立ちはだかってやろうと心がえていたから。


 にもかかわらず。

 思いの火は、唐突とうとつにしてついえる。

 大好きなあの子との別れは、突然訪れた。



――



 誕生日を明日にひかえたハジメは、期待きたいに胸をおどらせていた。

 今年はどんなプレゼントをもらえるだろう。ケーキは苺の大きなやつがいいな。

 そんなことを考えるだけで楽しく、当日までまだ一日あることに隔靴掻痒かっかそうようとする。


「嬉しそうだね?」

「うん」


 隣を歩く彼女にわれ、そんな平穏な日常があることにも喜びを感じずにはいられない。いじめが終息しゅうそくしたかどうかは定かでない。おそらく、そんなに世界はやさしくないだろう。彼女の眼差しには、まだ深いかげがある。けれど、彼女の屈託くったくない笑顔を見ていると、深刻しんこくな事態は避けられたのだろうとさっせられた。


「じゃあ、また明日ね」

「うん、また明日」


 途中で彼女と別れ、真っ直ぐに帰途きとへつく。家に帰れば母が待っている。周りにはずかしくてなかなか口には出せないけれど、ハジメは母が好きだった。「ただいまぁ」とドアをひらくたび、むかえに出てくれる母の顔を見ると、自分が幸せの絶頂ぜっちょうにいるのを確信できた。


 この日も、そんな当たり前の日常を甘受かんじゅするつもりだった。

 それなのに、


「え……?」


 いざ自宅に辿たどり着いたハジメを迎えたのは、玄関ドアにあいた大きなあなだった。


 怪物かいぶつがぱっくりと開いた口のような大きくいびつな穴だった。


 土間には不自然に光がまよいこんで、あわく闇をはらっている。出しっぱなしのくつが、散らばって無残むざんに潰れていた。


 何が起きているのか解らなかった。


 サプライズ――ではないはずだった。誕生日は明日だし、こんなむちゃくちゃなサプライズはないだろうと子どもながらに理解する。


 じゃあ――と、考えてみても解らない。なにか良からぬ事が起きたのだけは解った。

 たすけをもとめるべきだろうか。

 近所のおばさんなら、この時間にもいるかもしれない。それとも交番? そのほうが確実かくじつだ。いや、待て。これが本当に良からぬ事態じたいなら、家にいたはずのお母さんはどうなった?


 胸が警鐘けいしょうを鳴らす。ドクドクと脈打みゃくうって、行ってはいけない、助けを求めろとうったえかけてくる。


 けれど母のことをおもったら、理性りせいなど役に立たなかった。


 ハジメは穴から家中にとびこみ、ゆかが抜けるほどあわただしく駆けぬけて、廊下と居間を仕切るガラス戸をいきおいよく押し開けた。


「お母さん!」


 室内を見渡すと、母はすぐに見出みいだせた。

 食卓しょくたくのまえに腰かけた背中が、ぼんやりと中庭を見つめていた。

 ハジメはほっと胸をでおろした。

 一方で、ますます玄関の異変に疑念ぎねんを覚えた。


「お母さん」


 いや、それ以前に、


「ねぇ、お母さん」


 なぜ母は振り向かないのだろう?


 廊下をどたどた踏みならし、悲鳴ひめいにも似たさけびで母を呼んだはずなのに。今なお呼びかけているのに。


 どうして――。


 恐るおそるれた、母の肩には温もりがあった。

 一瞬の安堵がこみ上げる。

 最悪の事態にはおちいっていない、はずだと。

 なのに母は、やはり振り向かない。ぴくりとも動かない。肩がゆっくりと上下して呼吸こきゅうしている。生きている。生きているのに。

 なんの反応も、さない。


「グルルル……ッ」

「えっ」


 その時、視界のすみ

 ダイニングキッチンに、黒い炎のようなものが揺らめいた。

 ハジメはそれを注視ちゅうしした。

 こたえるように炎はうごめく。


 キッチンのかげから。

 ゆっくりと。

 現れたのは――犬だ。


「ひぃっ……!」


 しかし、それは尋常の存在ではない。

 色は夜をかたどったように黒く、眼窩がんかに眼球はなく、体毛は発生と蒸発じょうはつを絶えず繰り返していた。

 デザートを前にしたなめずりをするような、緩慢かんまんな一歩を踏みだせば、残像はえ、笑うように唸りをあげる。


「あ、あっ……」


 ハジメは後ずさろうとして、尻からくずれ落ちた。

 と同時に、椅子いすに腰かけていた母がこわれた人形ようにたおれた。


 びちゃ。


 嫌な音がした。

 しかし飛びったのは、血ではない。母の身体には一切の外傷がいしょうがなかった。


 フローリングをよごしたのは、大量の唾液だえきだ。母は口をあんぐり開けたまま、微動びどうだにしなかった。

 顔にかかった髪の隙間。そこからのぞく、もはや何をうつすこともない虚ろなひとみ

 決してまじわることない視線に、ハジメは実質的な母の死を直感ちょっかんする。


「グルルル……!」


 眼前がんぜんに黒犬の牙列がれつがあった。湾曲した無数の刃の隙間から、ねばついた瘴気があふれだした。


 ハジメは確信した。

 こいつが母を殺した元凶げんきょうだと。


 そして、あの子の前に立ちはだかったように、勇気の湧いてこない自分に失望しつぼうした。

 母という最愛さいあいの人を失くしたというのに。

 この心はもうふるい立たないのかと。


 異形を前にしたおそろしさが、勇気をらいくす。こぶしにぎりしめても変わらない。

 だが、その恐怖さえも、ふかいふかい憂鬱ゆううつに染め上げられていく。恐れることさえ嫌になる。すべてに辟易としていく。


 捨て鉢な気分がこみあげる。

 もうどうにでもなれと思う。


 母はいない。大好きな母はいない。

 うばわれた。壊されてしまった。

 間もなく自分も同じになる。母と同じ虚ろになる。

 それを食い止めるすべはない。化け物を前にできることなど何もない。あるはずがない。


 ああ、明日は誕生日。プレゼントは何だったろう。

 知ることはできない。

 その日は来ないのだから。二度と来ないのだから。永遠えいえんにやって来てはくれないのだから。


「あ、ア」


 最高の一日をごせない、過ごせないのだ。過ごしたかったのに。大好きな、大好きな両親と。

 幸せになりたかったのに。永遠を、永遠を感じたかったのに。もうこの胸に、それは、それはない。

 だから、だからもう、どうにでもなれ。

 たとえ、たとえ誰かの幸せを奪ってでも、それで待ちのぞんだ幸福がおとずれるのなら――。


「どうにでも、な、れ……アア!」


 それからあと、ハジメの目はいかなる光も映さなかった。何も聞こえなかったし、何のにおいも感じなかった。

 ただ荒々あらあらしく獰猛に、自分の肌が爪が牙が、別の爪牙そうがと喰らい合うのを感じていた。


 激しく傷つき。身体中が痛んだ。

 けれど、ハジメには力が宿やどっていた。復讐ふくしゅうを果たす力が。母を壊した化け物を殺す力が。二度と甘受することのできない、瑞々みずみずしい幸福の感触をとり戻す唯一ゆいいつすべが。


 だからこそ、あの忌々いまいましい犬を喰い殺したあとは、復讐を果たしたあとは、幸福になるための努力が必要ひつようだった。


 ハジメは家をとびだした。


 そして、すぐに見出した。

 依然いぜんとして鼻はかなかったけれど、総身そうしん粟立あわだつように、あまく蠱惑的な芳香ほうこうち満ちているのを感じた。


 ハジメはその馥郁ふくいくたる誘惑ゆうわくに逆らえなかった。

 まるで、砂漠のなかで口にはいを詰められ、野垂のたれ死ぬ寸前に見出された水辺みずべのようだ。


 間もなくハジメは、匂いの発生源へとたどりく。

 くぐもった悲鳴を聞いたような気がした。


 爪を振りあげ、しかし無数むすうの肌からひしひしと感じられる感触に躊躇した。意識はほとんど闇の中だった。き動かすものは自分であると同時に自分から乖離かいりした獣じみた本性ほんしょうだったが、わずかにつなぎとられた意識が、はっきりと爪牙を止めていた。


 ダメだ。

 ハジメは思った。

 幸せになりたかったからだ。


 奪われ、けずられ、壊された幸せをとり戻すためには、他者の幸福を喰らう他に道はなかったけれど。


 だけは、傷つけてはならない。


「ア、アア、マタ、アシタ、ネ……?」


 彼女は、光だから。この世界を淡く、けれど鮮明せんめいに濡らす陽光だから。

 心のふちで鳴いた犬の「オナカスイタ」に、ハジメは断固だんことして「ダメ!」を突きつけた。


「……ないよ」


 すると、何も聞こえないはずの暗闇に声が聞こえた。大好きなあの子の声だった。ひどくくぐもって、全部は聞き取れなかったけれど。肌がれあうのを、確かに感じた。


 ハジメは耳をそばだてた。


「いっくん、だよね? 辛かったんだね」


 いっくん。彼女だけが、呼んでくれる名前。

はじめ、数字のイチだから、いっくんだね」と、彼女が付けてくれた特別な名前――。


 心の中で犬がく。奪わなければならないとえたてる。

 一方で、闇の外からは、震えてか細い穏やかな声が聞こえる。


「あたしもいっくんの気持ち分かる……。だって同じだから。っちゃえばいいって思うんだよね」


 同じ?

 ああ、同じだ。盗ってしまえばいいと思うのだ。そうすれば幸せになれると。失くしたものを取り戻せると思うのだ。


「でも、いっくんはそんなことする必要ないよ。きっとダメなの。戻れなくなっちゃう。幸せはオイシイから。いっくん、帰ってきて……」


 彼女の声の震えは大きくなる。声量は小さくなっていく一方なのに、かねのように闇のなかへひびく。


「大丈夫。何があったのかは知らないけど。いっくんはひとりじゃないよ。あたしがいる。周りに誰もいなくても、誰がしんじてくれなくても、あたしがいっくんを信じてあげる」


 異形とした首に、回される温かな感触。彼女の両腕は、こんなにもやわらかかったのかと思い知る。

 てついて残虐ざんぎゃくな心が、その温もりにけていく。

 かすかな火種ひだねのようなあかが、眼裏まなうらともって眠気を退けていた。


「だって、だっていっくんは、あたしのヒーローだから!」


 違う。違う。

 ハジメは訴えた。

 何度もそう訴えた。

 声にならない声で。


 だって、


「ヒー、ロォ、ハ……」


 君のほうだったから。


 ハジメにとってのヒーローは、間違いなく彼女だった。

 ヒーローだって、いつでも強いわけじゃない。一回も負けないわけじゃない。だから、ピンチに陥った彼女を、たまたま、たった一回すくっただけだ。


「……あたしはここにいるよ。ずっとここにいるから……ねぇ、お願い……!」


 それでも、彼女にそうおもわれることを、うとましく感じるわけがない。そう想われ続けたいと望まぬほど無欲むよくでもない。


 自分のようなちっぽけな人間が、彼女のヒーローになれるなら。


「ア、アア、ッ……!」


 なりたい。


「目を覚ましてよ……。いっくんは」


 なりたい。ヒーローに。君がみとめてくれるなら。


「あたしのヒーローなんでしょ!」


 なりたいと。


「ア、ああ……っ」


 重いまぶたをこじ開けた。


 瞬間、網膜もうまくに焼きついた赫。

 天空てんくうめあげる、彼女の名前と同じ色だ。

 眼前の濡れた双眸そうぼうを焦がす色だ。


 茜の景色に、ハジメは明日を見る。

 今度こそ人肌に回された彼女の感触とともに、また生きていくのだと確信した。


「……おかえり、いっくん」

「ただいま、茜音あかねちゃん」


 そして、この世でもっとも大切な友人にむけて、ハジメも腕を伸ばした。いつまでも、この日、この瞬間を忘れたくないと、せつに願いながら。


 相賀おうが一は心を失った。

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