十七章 呪われし運命

 頭のなかにこだまする、消えることない罪の声。

 牙をきだし唸った、大好きだったあの子の糾弾きゅうだんが、いつまでも頭のなかに響きわたっている。


『このクソビッチがっ!』


 何もかも間違っていた事に気付いた。

 こんな事になるくらいなら。

 あたしはひとりでいるべきだった、

 茜音あかねはそう自責じせきした。


 裕司ゆうじとの幸せをもとめるべきではなかった。苦しみをなぐさめるために、彼を利用りようすべきではなかった。

 高鳴たかなる心にらいで、こんな所に来るべきではなかったのだ。

 そんな軽率けいそつな行いが、かおるを傷つけてしまった。

 大好きな友達を傷つけてしまった。


「オエッ……!」


 逃げまどう人々の波からのがれ、茜音はトイレにひとり引きこもっていた。胸が悪くてたまらなかったし、人目ひとめのつくところにいるのが怖かった。

 友達を裏切った醜悪しゅうあくな自分を、世界全部が糾弾しているような心地がした。


 けれどその一方で、命がしかった。化け物になっていく薫を見ていたから。いかくるった彼女が、いつか日のもとにける自分を見つけ殺そうとするのではないかとおそれていた。


 それが当然のむくいのはずなのに。

 化け物になるほど、薫はうらんでいるのに。


『このクソビッチがっ!』


 あんな、あんなに恐ろしく暴力的な言葉が。

 大切な友達の口から。


 谺して、谺して、谺する。


 茜音は耳をふさぐ。けれど声は消えない。

 むしろいっそうはげしく責めたてひびきわたる。

 頭の中が、悪罵あくばの声に満たされる。おかされる。つぶされる。


 そして、


「あ、ああ……っ」


 何かが、重くおもくせてくる。

 のうの奥の、しんの、ひだの隙間の、深いところから。

 押し寄せてくる。奔流ほんりゅうのごとく。


「あああぁああああぁああぁぁあぁあああ!」


 記憶が押し寄せてくる。



――



 たくさんの音がっている。それはそれは、たくさんの音が鳴っている。


 足音。ざわめき。悲鳴。怒号どごう。サイレン――。


 肩を揺すられている。ぐわんぐわんと視野しやが揺れている。

 大人の顔が見える。けわしい顔だ。

 その肩越かたごしにひらめいている。明かりが。赤くあかくねっされた剣のように。


 なにかをうったえかけてくる。たくさんのもの。なにかを訴えてくる。

 けれどれそうにひびく。頭の中。割れそうに響く、たくさんの音が、何もかもわからなくさせる。耳の奥でわんわんとやかましい音をたてて。判らなくさせる。


 それなのに。


「パ、パ……。パパ……」


 道路に引かれた赤い線も、ぐったりとたおれて動かなくなったものも、彼女にははっきりと理解できていた。


「パパ、パパ……」


 幼い少女は手をばす。たくさんの大人にかこまれ遠ざけられながら。肉のかたまりとなってしまった、いのちだったものに。目の前で命でなくなった父親だったものに。


 茫洋ぼうようと手を伸ばし続けた。


 そうすれば、いずれかえってくると思っていた。

 悪くてこわい夢も、のがれようとさえ思えば、いつか覚めるような気がした。


『今度、パパとママと一緒いっしょに、遊園地へ行こうな』


 その約束もかならず果たされるはずだった。だから彼女はうなずいて、わらって父をきしめたのだ。


 けれど、父は帰って来なかった。約束は、約束のままえた。

 帰ってこなかった。永遠に帰ってこなかった。


 九条くじょう茜音あかねよわい四歳にして、最愛さいあいの父を目の前でうしなった。



――



 父を喪ってから数日後、茜音には友達ができた。


 友達は、大人たちとちがい、彼女をなぐさめなかった。彼女のわりに泣きだすこともなかった。ただそばに寄り添い、じっとこちらを見つめて『パパはカエってこなイよ』とり返すのだった。


 そのたびに茜音は、素直に「イヤイヤ!」と泣くことができた。耳をふさいで、頭を掻きむしって、友達を「バカ! キライ!」となじることができた。


 ところが、友達はいつまでっても帰らない。お空がじりじりえ始めても、すっかりずみになってしまってからも。茜音にきらわれようとかまわず『パパはカエってこなイよ』と言い続けた。


 それが茜音には、友達のやさしさであるように思えた。


 やがて友達の根気こんきに負けた茜音は、「どうして?」といかけてみることにした。


 すると友達は『いナイから』と答えた。

 それにも「どうして?」とけば『おクルマが、ツレて、ツレてつれて、いっちゃッタから』と答えた。


 茜音は得心とくしんした。

 鼓膜こまくうらによみがえるブレーキの音。つながれていたはずのはじかれた手は沈黙する。

 パパを赤い肉とシミに変えた車が、すべてをれて行ってしまった。連れて行ってしまった。はっきりと理解した。

 それは同時に、二度と父と会えない事実じじつを知ることだった。嫌だいやだとわめきながら、心の底で受け入れるしかないとうそぶくことだった。


 受けいれられるはずがなかった。

 パパと会いたかった。頭をでて欲しかった。一緒に遊園地へ行きたかった。行くはずだったのだ。


「アカネね、いっぱい、いっぱいタノシイことしたいよ……」


 茜音は、ぽつりと言った。たとえそれがかなわなくとも、意地悪いじわるな友達は、ちゃんと彼女の話を聞いてくれたから。大人たちのように父の話題を遠ざけ、やしにもならない慰めなど寄越よこさなかったから。


 やがて友達は答えてくれた。


『ジャあ、スレばいいヨ』

「どうやって? パパはいないんだよ?」

『パパいなくても、タノしくなれルよ』

「どうすればいいの?」

『みんナから、モラウの』

「もらう?」

『みんなモってルから。タノシイもっテるから。モラうの』


 茜音は友達の黒く底のない目を見つめた。


「どうやってもらうの?」


 その時、友達ははじめて笑った気がした。


『タベちゃえば、イイんだヨ』

「食べるの?」

『ウン。ぜんブ、ぜんぶゼンブ』


 友達の声が心地良かった。パパのかたい指先で頭をなでられているようだった。

 茜音は気持ち良くなって、深い眠気を感じた。視界のはしにちらりと過ぎった黒が、夢のなかに浮かび上がった影のように鮮烈せんれつだった。


 彼女はそれを指先で撫でて目を閉じた。


 パパ、パパ、パパ。


 何度も。何度も。

 二度と会えぬ父を呼びながら。

 友達とともに幸せを喰らいはじめた。



――



 友達の言ったとおりに人々のを食べれば、満たされるのは早いものだった。


 邪魔者も現れたが、心が満たされ目も覚めてくると、茜音には力がみなぎって感じられた。立ちはだかる者たちには、容赦ようしゃなく牙を剥いた。友達はそれを止めなかったし、『コロすべきだヨ』と言ったから。


 やがて我が家に辿り着いた茜音は、母をたいそう困惑こんわくさせた。親戚の許へあずけたはずの娘が、その小さな足で帰ってきてしまったからだ。


 母は娘を怒鳴どなろうと口をもごもごさせていたが、ついに何も言いださなかった。ただ静かに娘を抱きしめ、その体温のあたたかいことになみだしたようだった。


 母のふところに抱かれた茜音は、幸福にあまんじ、すすり泣く母の声を聞きながら笑った。

 笑いにふるえる彼女を、母は泣いているものと勘違いしたらしい。「大丈夫。大丈夫だからね」と背中を撫で、かわいた目許にキスをした。


 ちょうじてからも、彼女は何度かけものの声に身をゆだねた。うれえる心は他者の幸福からおぎなえばよかった。


 ところが、そんな収奪しゅうだつの日々にも終わりはやって来た。


 ある日、彼女のもとにあやしげな男たちがたずねてきた。黒服に身をつつんだ、いかにも屈強くっきょうそうな男たちだった。


 彼らは、ほとんど家に押し入るようにしてから「なにか変わったことはなかったか」としきりにたずねてきた。

 茜音には心当たりがなく、男たちを恐怖と怪訝けげんで見返した。


 すると家の奥からエプロンで手をいて、母がやって来た。

 男たちは、母にも同じことを訊ねた。

 母はしばらく首をかしげていたが、ややあってある事を思い出したらしく言った。


「最近、変なうわさなら耳にしましたよ。黒くて大きな犬を見たって」


 目に見えて男たちに動揺どうようがはしった。眉間みけんにしわを寄せ、それぞれ顔を見合わせてから背後をり向いた。


 すると、後ろで静かにたたずんでいた一人が進み出てきた。


 彼は黒服のなかにあってなお異質いしつに見えた。ただ一人だけ漆黒しっこくのつば広帽子を目深まぶかにかぶっているのだ。それゆえ目許はかげになって見えず、唇は一文字にむすばれていた。


 母が恐れたように後ずさった。

 けれどその頭に、男が手を伸ばすほうがはやかった。

 たちまち母の頭上に黒いもやがこごり、男のものと同じつば広帽子がみだされた。母はしばし茫然として男を見ていた。

 かと思えば、ふいに意識をうしない、黒服の一人に受け止められた。


「……あ」


 茜音は怖くなって逃げようとしたが、足許に力が入らなかった。ひざからくずおれ、戦慄せんりつがこみあげた。


 茜音はうちなる獣に訴えかけようとした。

 しかし獣をたたき起こすより、帽子の男が速かった。

 ひたいに手をかざされただけで、意識の潰れるような睡魔すいまに襲われた。


あわれな子だナ」


 言葉と感情のり合わない声音だった。茜音はいっとき恐怖をわすれ、むしろこの男のほうが哀しい人だと感じた。


 だが、そんな感情は何の意味も結果けっかももたらさなかった。

 間もなく茜音は〈黒犬ブラック・ドッグ〉にかんするすべてを忘却ぼうきゃくし、束の間の眠りに落ちたのだった。



――



「イヤ、イヤぁ、パパ……。お父さん、パパぁ……ァ!」


 茜音は頭をかかえ、滂沱ぼうだのごとく涙をあふれさせる。それはたちまち便器の水のなかにちて、黒いシミを泡立たせた。


『パパはカエってこなイよ』

「やめてぇ!」


 獣が言った。なつかしい日々をたのしむように。彼女の苦しみをよろこぶように。


『パパはカエってこなイよ』


 繰り返した。

 あの頃の自由を、憂鬱からの解放をねがうように。


『パパは――』


 あるいは、


『アタしの目の前デ、ぐちゃぐちゃに、ぐちゃぐチャに、グチャグチャに、なっタんだよ』


 人の亢進こうしんの甘美な味にいしれるように。


「やめ、てよ……」


 茜音は獣をおそれ拒絶きょぜつする。この声へ耳をかたむけた先に、どんな悲惨な未来が待っているのかを思い出したから。

 いとけなき日の絶望を乗りえた、最悪の幸福を思い出したから。


「やめてよ……!」


 決してまれまいと声をあらげた。


 けれど彼女の記憶には、赤くあかく引かれた線と決して動きだすことのない肉の塊がもくして在った。果たされぬ約束の絶望が、忘れていたからこそ、今、むくむくと育ちつつあった。


『ツラいよ。かなしイよ。カオちゃんにキラわれちゃった。もうイキてる意味ナイよ。ナイ、ないよ。どこニモ、ドコにもどこにも……?』

だまってェ!」


 茜音は悲痛ひつうに訴える。

 しかしすぐそこにある絶望を、そのいとしい血肉を、あきらめる獣ではなかった。声音はいっそう甘く誘惑ゆうわくに満ちた蠱惑こわくなものとなる。


『アルよ。シアワセ、あるヨ。モラうんだよ。タベるんダよ。みんなカラ、ミンナからみんナカら』


 そして獣はクスクスと笑う。


うばい尽くせばいいんだよ』


 茜音とたがわぬ、その声で。


「だ、ダメ……、あ、ああ、アァ……」


 すくい上げようとしても、こぼれ落ちていく。

 涙が、希望が、自分自身が。

 しずくは黒いあわとなって。希望は黒にりつぶされて。


「永田、くん……ア」


 大好きなあの人も、睡魔のなかに消えていく。


 あるのはただ欲望。

 幸せな者たちへの羨望せんぼう

 奪いたいという渇望かつぼう


 人の輪郭は黒い粒子ダークマタにおぼれ、急速に膨張ぼうちょうしていく。

 メキメキとせまい室内を破壊し、タイルのゆかに爪を立て、剥きだした漆黒の牙の隙間にどくの息を吐く。


「アアア……、グゥアアアアアッグッ!」


 そうして彼女はかつての姿すがたを取り戻し。


 今、戦場にいる。


 すべてを獣にゆだね、ほろびさえもねがって。

 あるいは何も願わずに。

 泥濘でいねいに似た微睡まどろみの中をたゆたっている。



――



死神グリム・リーパー〉が迫りくる爪牙をかわし、巨躯の側面そくめんに回りこんだとき。


「ゴ、ゴゴ……ゴメン、ナサイ」


奈落の霊牙サーベラス〉が発したのは、不明瞭ながらも人語とわかるそれだった。


「……」


死神グリム・リーパー〉はかまわず、前肢まえあしへむけ鎌を振るう。

 それを受けたのは、端についた頭部。鋭利えいりな牙が、がっしりと刃をくわえこんだ。

死神グリム・リーパー〉は鎌の刃を霧散。警棒をひき、そのエネルギーを回し蹴りに転換てんかん。爪先に湾曲刃わんきょくばを生み、横面をえぐりぬく!


「アア、アッ! カオ、カオォ……!」


 なにが顔だと思いつつ、前肢のぎ払いをバク転でかわす。

 蹴りの傷は浅い。手数を減らしたいが隙がない。

 すかさず襲いくる長尾ちょうび打擲ちょうちゃく

死神グリム・リーパー〉は連続でバク転を打とうとするが、その時、


「……カオチャン」


 なぞめいた言葉にもたらされた、思いがけぬ意味に、集中をみだされた。

 手をついた地面は、〈奈落の霊牙サーベラス〉がきざんだ軌条きじょうだ。

 バランスをくずし、致命的なすきがさらされる――!


「……!」


 次の瞬間、〈死神グリム・リーパー〉の肉体は、ほんの五メートルばかり後方に出現した。粒子のかたまりとなった名残りが尾にへしられ霧散。


「ゴメ、ゴメゴメ――」


 触手が動きだしたのは、それとほぼ同時だった。

 一方の車輪が回転。

 タイルを薙ぎ払い、後方を塵芥じんかいに隠すと、もう一方はすでに真横にあった。


「……ッ!」


 タイムラグは三秒。

 まだ一秒たりとも経過けいかしていない。

死神グリム・リーパー〉はとっさに地を蹴り、警棒を斜にかまえた。


「げが……ッ!」


 全身にえるような痛みが駆けぬけた。

 手の痺れは感じられたかどうか。

 腹の底で、ほのおの蛇が毒をふき。

 背中に衝撃が渦巻うずまいた。


「……ぁ」


 脳を揺るがした轟音ごうおんは一瞬のこと。

 ひび割れたディスプレイに、瓦礫がれきがこぼれ落ちる。


「ゴメンナサイ、カオチャン。ゴメン、ゴメゴメ、ゴメンナサイ、アア、パパァ……」


 三つ首の異形いぎょうが、牙列がれつの隙間から瘴気の息をく。

死神グリム・リーパー〉は、朦朧もうろうとした意識のなかで、なつかしい感情と対峙たいじした。


「くじょ、う、さん……」


 それは、彼がほふらねばならぬ異形そのものだった。

 それは、彼が共にいることを望んだ少女ひとだった。


 ふざけるな……っ!


 九条茜音。


 彼女を希望と名付けるなら。

 そのコインの裏側は、〈奈落の霊牙絶望〉だったというわけだ。


死神グリム・リーパー〉は運命の皮肉ひにくを呪った。

 胃の腑につめたい業火ごうかを燃やした。

 しかし、それはむなしく闇の中で燃え盛るばかり。全身に行きわたることがない。


 神から返るのは、嗤笑ししょうだったろうか。

 抵抗むなしく少年の意識は、ゆっくりと闇にしずんでいった。

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