十三章 殺戮の赦し
十歳のとき。
あの男が、薫の心に
あの日、あの日――。
友達と手をふって
薫は
けれど、一人でできる遊びなど
とにかく、やることがない。
薫はベッドに飛びこんで、
そうして、
ピンポーン。
薫は呼び鈴の音に、最後の
ピンポーン。
両親は仕事に出ているし、姉たちも帰っていないので、
「あ」
しかしそこに立っていた自分を見たとたん、薫は相好を崩した。
見知った男だったからだ。
あれは父の友人で、近所に
窓をあけ、呼びかける。
「おじさん!」
坂下が声に気付き見上げた。優しく微笑んで手を振ってくれる。
「やあ、薫ちゃん。いま一人?」
「うん。どうしたん?」
「
坂下は心底こまった様子で肩を
薫は、大人がこんなに
助けてあげなくちゃ。
薫は思った。ちょうど暇だったので、陽介の相手をしてやるのも悪くない。
「わかった、ええよ! いま
「おお、ありがとう薫ちゃん」
薫はさっさと身支度を整え、家をとびだした。体育館までは車で連れて行ってあげると坂下は言った。薫は後部座席に乗りこんだ。
「はぁい、それじゃ
「はーい!」
「そういえば、おじさん。どうしてこんな時間におるの?」
ハンドルを
横顔を見上げれば無表情。「ハハ」と返った笑いは
「おじさんの仕事はな、平日に休みがあったりするんや。土日が休みとは限らんくてな」
薫はなんだか怖くなって、後部座席にひっこんだ。
「ああ……。お医者さんとか平日に休みあったりするけど、そんな感じ?」
「そうそう! 薫ちゃんは
賢い。両親にも先生にも、あまり言われたことのない言葉だ。
やっぱり、おじさんは優しい人や。
けれど、運転中にたくさん話しかけるのは
車はどんどん
また
ふと
「あれ?」
知らない道が広がっていた。
体育館へ行くのに、こんな道を
運転中の坂下に話しかけるのは
「ねぇ、おじさん。道、間違えてない?」
「……」
坂下は答えない。
薫の不安はいや
まさか眠ってしまったのだろうか。
だとしたら起こさなければ!
薫は身を乗りだして、坂下の横顔を
ところがその時、ぱっちりと開いた坂下の
「おじさん……起きてたんやね」
「……」
「ねぇ、体育館こっちやないよね?」
「……」
坂下はなにも答えない。
ますます山は近づいて――いや、もう山中をのぼり始めている。すごくスピードが出ている。周囲の景色が、
「ねぇ、どこ行くんおじさん!」
「うるせぇ!
「……っ!」
突然の
なにか気に
運転中だったから?
答えは出ない。ただ怖かった。今すぐここを飛び出してしまいたいほどに。
けれど、ここがどこだか分からない。車はなおも凄まじいスピードで
「そろそろええか……」
坂下がつぶやく。車は徐々に速度を落としていった。
辺りは木々に
どこ、なんで、こわい。
どうしていいか解らなかった。
坂下はなにをしようと、なぜ
車が
坂下が振り返る。
その目は虚ろで、口許だけが緩んでいた。
「着いたよぉ、薫ちゃん」
甘く優しい
けれど、何かが
声音の奥のおくに、気付いてはならない何かが
坂下が先に車を
かと思えば、すぐに薫の側のドアを開けた。
もう笑みはない。そのまま乗りこんでくる。大きな手が、大人の大きな手が、大きな手が、
「え、え、なっ」
何が、何が起きたのか。怖い。
「はあ……ぁ。こうでもせんとやってられんわぁ」
坂下の声。すぐ側。耳もとで聞こえる。
続いて、ズル、と
なに、なに、こわい。
「や、やぁやぁやぁあや!」
ようやく声がでた。悲鳴が。
だが、それが誰に、誰に
ここは深い山のなか。辺りにあるのは濃緑の木々。体育館ではない。陽介はいない。他の大人もいない。山の山の山の、深い山の。
「やめてェ!」
ようやく
けれど、耳の中に
たすけて。
だが、身体の感覚は
信じていたはずの坂下が、こんなにひどい事をする。陽介はどうなった。陽介は。そこまでして、そこまでして坂下は。
なにをしようと――。
知りたくない。気持ち悪い。こわい。
絶望が、絶望が、深くそこにある。そこに、ここに、ある。ある?
胸の奥から、喉の奥から、腹の底から、たくさんの黒いものが
薫の目には、もう何も見えない。
遠いとおい感覚の内側で、犬の
陽介、陽介。陽介と遊ぶはずだった。楽しい。楽しかったはずだ。楽しい楽しい、幸せに。幸せを感じて、幸せになりたかった。幸せに、幸福に。明日はきっと、友達と遊んで。幸せになりたかった。
でも、
だから、だから幸せが必要だ。
犬は薫の心を借りて
薫は微睡に落ちていく。吐き気をもよおす嫌悪感や不快感は、もう遠い昔のことのようだ。
ただ肉体の感覚だけが、相反して
恐れ
その心が生きていることも。
自身の肉体が太く
しかし、そこまでだった。
薫は眠る。
最後にひとつ、残された
奪うだけじゃダメだ。
殺してやる、と
――
薫が目覚めたのは、それから数時間が
すっかり日の落ちた闇凝る夜のことだった。
薫は我が家の玄関に立ち
娘の帰りをおろおろと待っていた母が見つけるまで、薫は笑っていた。くつくつと。
可笑しくてたまらなかった。楽しくて仕方がなかった。
満ちていた。満ちていた。
後に受けた両親からの
両親はそんな薫を
薫は普段通りの薫だったのだ。
笑うこともあれば、泣くこともある、普通の少女だった。
『
獣は
薫はその通りにした。獣がもたらす力を
邪魔者が
小さい犬たちに
だが、それだけ。たったそれだけ。
薫が
人形たちから逃れるために、時たま
――
そやけど……!
今回ばかりは別だ。
「クソがぁぁ……ァ!」
薫は、
こいつはウチを裏切った。裏切って、裏切って傷つけた……。変わらんのや。坂下のクソオヤジとなんも変わらん!
薫の人生は満ちていた。幸福に満ちていた。
そこに裕司も加わって、青春の花道は多彩に色づいた。
時に翳って見えたこともあった。裕司が自分以外の女子と話しているのは不愉快だった。それが茜音や嶺亜なら、なおさら。無性にイライラした。
むしゃくしゃして獣の力を使った夜もあった。
けれど二人は友達だから。大事なだいじな親友だから。
幸せになるためには、欠かせない存在だったから。
今までは爪も牙も隠してきたのに。
手に入れられるはずだった、あるいは手に入れることのできなかった幸せを、あってはならない形で壊された。信じていた相手に。裏切られた。
そんな奴が親友か?
友達か?
違う。
裏切者。性悪女。クソビッチ――絶対に許さん……!
『……許せんのなら、許さんでええ。好きにすればええ。殺したいんやったら、殺せばええやん?』
獣は
そして、これまでそうしてきたように、薫は獣の声に
他者の心を喰らい、己を満たし、
「殺したるぅ……。殺したるわ、茜音ェ……!」
溢れだす
落ちた涙は粒となり、無数の黒き粒となり、泡立ちながら
欲望の笑みに
他者の声を
そして再び
愛しい彼に手をとられ、逃げだしていった背中を。必ずや
「殺、ころ、ころぉぉォオオオ――!」
三本の尾が怒りに震え、背から生じた鉤、錐、槌の触手が血肉を求めのたうつ。
「ゲェェェエエエエェギャアアアアァァァッ!」
これが薫の、真の絶望。
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