十三章 殺戮の赦し

 十歳のとき。

 西園寺さいおんじかおるは、初めて人をころした。

 仕方しかたのないことだったのだ。

 あの男が、薫の心に絶望ぜつぼうをもたらした悪だったから。


 あの日、あの日――。


 友達と手をふってわかれた薫は、り道もせずっ直ぐに家へ帰るつもりだった。たいテレビがあったわけでも、あたらしい漫画が手に入ったわけでもなかったけれど。たまたま友達が一人もつかまらず、他に選択肢せんたくしがなかったのだ。


 薫は退屈たいくつをもてあましていた。家に着いてしまってから、無性むしょうに外へ飛び出したくなった。

 けれど、一人でできる遊びなどかぎられている。公園でひとりなんて余計にさみしくなるだけだし、ゲームセンターはあぶないと禁止されている。裏ボスまで攻略こうりゃくし終えたゲームを、今更やり直す気にもなれなかった。


 とにかく、やることがない。

 薫はベッドに飛びこんで、しのびよる眠気に身をまかせることにした。


 そうして、夢現ゆめうつつ

 脳裏のうりにからみついたかすみが、意識をさらっていく寸前すんぜんのこと。


 ピンポーン。


 薫は呼び鈴の音に、最後の微睡まどろみの手をふりはらわれた。


 ピンポーン。


 両親は仕事に出ているし、姉たちも帰っていないので、こたえられるのは自分だけだ。薫はおも身体からだを引きずり、そうしているうちに、自分一人しかいない事実に改めて気付いて、おそるおそる窓から玄関を見下ろした。


「あ」


 しかしそこに立っていた自分を見たとたん、薫は相好を崩した。

 見知った男だったからだ。

 あれは父の友人で、近所にんでいる坂下だ。息子の陽介とは、一緒いっしょにキャンプへ行ったこともあって、薫はあやしい人物でなかった事に、いまさら胸をでおろした。

 窓をあけ、呼びかける。


「おじさん!」


 坂下が声に気付き見上げた。優しく微笑んで手を振ってくれる。


「やあ、薫ちゃん。いま一人?」

「うん。どうしたん?」

じつは今な、陽介が山科体育館にいてな。むかえに行ったんやけど、帰りたくないって駄々だだこねてなぁ。でも、友達みんな帰ってもうたから、わあ、独りぼっちやぁ言うてき出して……。わるいんやけど薫ちゃん、陽介の遊び相手、なってやってくれんか?」


 坂下は心底こまった様子で肩をとした。

 薫は、大人がこんなにこまり果てた様を初めて見た気がした。


 助けてあげなくちゃ。


 薫は思った。ちょうど暇だったので、陽介の相手をしてやるのも悪くない。


「わかった、ええよ! いま支度したくするわ!」

「おお、ありがとう薫ちゃん」


 薫はさっさと身支度を整え、家をとびだした。体育館までは車で連れて行ってあげると坂下は言った。薫は後部座席に乗りこんだ。


「はぁい、それじゃ出発しゅっぱつするよ」

「はーい!」


 ゆるやかに車が走り出してから、薫はようやく一つの疑問ぎもんに思い至った。


「そういえば、おじさん。どうしてこんな時間におるの?」


 ハンドルをにぎった坂下の後姿。後部座席から身を乗りだすと、いつも工具こうぐを差しこんだへんてこなベルトを、今日はいていなかった。

 横顔を見上げれば無表情。「ハハ」と返った笑いはかわいていた。


「おじさんの仕事はな、平日に休みがあったりするんや。土日が休みとは限らんくてな」


 薫はなんだか怖くなって、後部座席にひっこんだ。


「ああ……。お医者さんとか平日に休みあったりするけど、そんな感じ?」

「そうそう! 薫ちゃんはかしこいなぁ」


 賢い。両親にも先生にも、あまり言われたことのない言葉だ。うれしかった。


 やっぱり、おじさんは優しい人や。


 けれど、運転中にたくさん話しかけるのは躊躇ためらわれる。坂下のほうから話しかけてはこないし、父からは「運転うんてんって大変なんだぞ」とよく言われていたから。


 車はどんどんすすんでいく。

 またねむたくなってくる。体育館へ着くまで眠ろうか。そうも思うけれど、せっかく車を出してもらったのに、自分だけ眠るのも申し訳ない。

 ふと窓外そうがいに目をやった。


「あれ?」


 知らない道が広がっていた。

 体育館へ行くのに、こんな道をとおったことはあっただろうか。いや、ないはずだ。やはり知らない道だ。周囲の景色は徐々じょじょにひらけていって山の稜線りょうせんが高くなっていく。

 運転中の坂下に話しかけるのははばかられる。けれど少しずつふくれあがる不安に、やがて薫はえきれなくなった。


「ねぇ、おじさん。道、間違えてない?」

「……」


 坂下は答えない。

 薫の不安はいやした。


 まさか眠ってしまったのだろうか。

 だとしたら起こさなければ!


 薫は身を乗りだして、坂下の横顔をのぞきこんだ。

 ところがその時、ぱっちりと開いた坂下の双眸そうぼうから一瞥がかえってきた。


「おじさん……起きてたんやね」

「……」

「ねぇ、体育館こっちやないよね?」

「……」


 坂下はなにも答えない。

 ますます山は近づいて――いや、もう山中をのぼり始めている。すごくスピードが出ている。周囲の景色が、濃緑のうりょくに押し潰されていく。


「ねぇ、どこ行くんおじさん!」

「うるせぇ! だまってろ、ガキがっ!」

「……っ!」


 突然の怒号どごう尋常じんじょうでない剣幕けんまくに、薫の身体は硬直こうちょくした。何が起きたのか解らなかった。


 なにか気にさわるような事を言ってしまっただろうか。

 運転中だったから? 頑張がんばって運転しているのに、眠そうな顔をしていたから?


 答えは出ない。ただ怖かった。今すぐここを飛び出してしまいたいほどに。

 けれど、ここがどこだか分からない。車はなおも凄まじいスピードで走行そうこうしている。カーブにさしかかっても、ほとんど減速げんそくしない。飛びだすことなどできない。


「そろそろええか……」


 坂下がつぶやく。車は徐々に速度を落としていった。

 辺りは木々にかこまれていた。もはや道らしい道のうえでなく、施設しせつのようなものも見当たらなかった。


 どこ、なんで、こわい。


 どうしていいか解らなかった。

 坂下はなにをしようと、なぜ怒鳴どなって、ここには何の意味が、解らなかった。


 車がまる。

 坂下が振り返る。

 その目は虚ろで、口許だけが緩んでいた。


「着いたよぉ、薫ちゃん」


 甘く優しい声音こわねだ。いつもの坂下のように思える。

 けれど、何かがちがっていた。決定的に違っていた。

 声音の奥のおくに、気付いてはならない何かがひそんでいる。黒々とよどんだ粘液のような、何か。


 坂下が先に車をりた。

 かと思えば、すぐに薫の側のドアを開けた。

 もう笑みはない。そのまま乗りこんでくる。大きな手が、大人の大きな手が、大きな手が、せまって、気付けばシートに押したおされていた。


「え、え、なっ」


 困惑こんわく。恐怖。

 何が、何が起きたのか。怖い。

 悲鳴ひめいがでない。のどが引きつる。声がでない。強くシートに押さえつけられる、両腕の痛み。怖い。怖い。こわい。


「はあ……ぁ。こうでもせんとやってられんわぁ」


 坂下の声。すぐ側。耳もとで聞こえる。

 続いて、ズル、と鼓膜こまくを掻く不快ふかいな音。小さな耳朶じだに触れる、れてぶよぶよとした気持ちの悪い感触。


 なに、なに、こわい。


「や、やぁやぁやぁあや!」


 ようやく声がでた。悲鳴が。

 だが、それが誰に、誰にとどくというのか。


 ここは深い山のなか。辺りにあるのは濃緑の木々。体育館ではない。陽介はいない。他の大人もいない。山の山の山の、深い山の。


「やめてェ!」


 ようやく状況じょうきょうが理解できてきた。解らないけれど、解ってきた。坂下はひどいことをしようとしている。どんなひどい事かは知らない。知りたくない。知らないでいられればいい。


 けれど、耳の中にねばついた、粘ついた感触が、舌の感触がって、気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い。


 たすけて。


 救済きゅうさいを求む声が聞こえる。きっと自分のものだ。

 だが、身体の感覚はとおのいていくようだ。たくさんのものが、ボロボロとくずれていくのを感じる。


 信じていたはずの坂下が、こんなにひどい事をする。陽介はどうなった。陽介は。そこまでして、そこまでして坂下は。


 なにをしようと――。


 知りたくない。気持ち悪い。こわい。

 絶望が、絶望が、深くそこにある。そこに、ここに、ある。ある?

 胸の奥から、喉の奥から、腹の底から、たくさんの黒いものがあふれて、溢れて、溢れて止まらない。絶望が、絶望が、絶望ががががががががが。



 薫の目には、もう何も見えない。



 遠いとおい感覚の内側で、犬の遠吠とおぼえが聞こえる。何度もなんども。聞こえる。はげますように。


 陽介、陽介。陽介と遊ぶはずだった。楽しい。楽しかったはずだ。楽しい楽しい、幸せに。幸せを感じて、幸せになりたかった。幸せに、幸福に。明日はきっと、友達と遊んで。幸せになりたかった。


 でも、うばわれた。楽しみ、幸福、そんな当たり前の未来を。奪われた。

 だから、だから幸せが必要だ。補給ほきゅうする。奪って。奪われたのだから、奪って、奪って奪って奪う。奪う!


 犬は薫の心を借りてえ続ける。

 薫は微睡に落ちていく。吐き気をもよおす嫌悪感や不快感は、もう遠い昔のことのようだ。


 ただ肉体の感覚だけが、相反して鋭敏えいびんになっていく。

 恐れおののいて、車内を飛びだす坂下の動きがよく分かる。


 その心が生きていることも。

 自身の肉体が太く頑強がんきょうな四肢に支えられていることも。


 しかし、そこまでだった。


 薫は眠る。

 最後にひとつ、残された自我じがで。


 奪うだけじゃダメだ。

 殺してやる、とさけびながら。



――



 薫が目覚めたのは、それから数時間がった頃。

 すっかり日の落ちた闇凝る夜のことだった。


 薫は我が家の玄関に立ちくしていた。

 娘の帰りをおろおろと待っていた母が見つけるまで、薫は笑っていた。くつくつと。


 可笑しくてたまらなかった。楽しくて仕方がなかった。美味おいしくて美味しくて、たくさん美味しくて満足まんぞくした。


 満ちていた。満ちていた。泥濘でいねいに溺れたはずの心が。やさしくくるぶしをでる清流を感じるように、満ちていた。


 後に受けた両親からの叱責しっせきも、薫は笑顔で受けとめた。彼女はそれを愛情だと知っていたし、そんなものはけっして傷になりるものではなかったから。その幸福を甘受かんじゅし、ただただ笑っていた。


 両親はそんな薫をあんじたが、日常が何事もなくぎていくのを見るにつれ、不安はなくなっていったようだった。


 薫は普段通りの薫だったのだ。

 笑うこともあれば、泣くこともある、普通の少女だった。

 なみだのでる夜には、決まって大きく成長したけものが、胸の奥で咆哮する。普通の少女だった。


つらいなら、苦しいなら……また奪えばええわ!』


 獣はえる。

 薫はその通りにした。獣がもたらす力をもちいた。幸福な者の心をらった。甘美だった。甘美だった!


 邪魔者があらわれるのは気に入らなかった。あの全身黒ずくめの人形たち。忌々いまいましかった。

 小さい犬たちにたかられるのも面倒めんどうだった。鬱陶うっとうしかった。幸せになれないクズども。蝿みたく邪魔だった。


 だが、それだけ。たったそれだけ。些細ささいなことだった。

 薫がのぞむのは、自分が幸福になることだけだったから。おのれを満たす以上に、人を傷つける事もしなかった。


 人形たちから逃れるために、時たま屍体したいらうのはたのしくもあったが。



――



 そやけど……!


 今回ばかりは別だ。


「クソがぁぁ……ァ!」


 薫は、茜音裏切者を前に牙をきだしうなる。

 

 こいつはウチを裏切った。裏切って、裏切って傷つけた……。変わらんのや。坂下のクソオヤジとなんも変わらん!


 薫の人生は満ちていた。幸福に満ちていた。とくに高校へ進学しんがくしてからは、心から楽しくて、なに一つ不自由がなかった。のことも茜音あかねのことも好きだった。バカみたいにはしゃぐのは最高だった。


 そこに裕司も加わって、青春の花道は多彩に色づいた。

 時に翳って見えたこともあった。裕司が自分以外の女子と話しているのは不愉快だった。それが茜音や嶺亜なら、なおさら。無性にイライラした。

 むしゃくしゃして獣の力を使った夜もあった。


 けれど二人は友達だから。大事なだいじな親友だから。

 幸せになるためには、欠かせない存在だったから。


 今までは爪も牙も隠してきたのに。


 手に入れられるはずだった、あるいは手に入れることのできなかった幸せを、あってはならない形で壊された。信じていた相手に。裏切られた。


 そんな奴が親友か?

 友達か?


 違う。


 裏切者。性悪女。クソビッチ――絶対に許さん……!


『……許せんのなら、許さんでええ。好きにすればええ。殺したいんやったら、殺せばええやん?』


 獣はく。黒い微睡から目覚めた、あの夜よりもあまく。

 そして、これまでそうしてきたように、薫は獣の声にしたがうのだ。

 他者の心を喰らい、己を満たし、殺戮さつりくにさえゆるしがあるのなら、もはやいとう理由はない。


「殺したるぅ……。殺したるわ、茜音ェ……!」


 溢れだす瘴気しょうき

 落ちた涙は粒となり、無数の黒き粒となり、泡立ちながらひろがっていく。


 欲望の笑みにひずむ、その唇から。

 他者の声をはばむ耳から。

 にく恋敵クソビッチ射抜いぬく双眸から。


 黒い粒子ダークマタは際限なく溢れでる。


 そして再びつどうのだ。

 愛しい彼に手をとられ、逃げだしていった背中を。必ずやみにくい肉へと、己の奴隷どれいへと変えるために。


「殺、ころ、ころぉぉォオオオ――!」


 憂鬱ゆううつが、絶望が、憎悪ぞうおが今、薫をかくとし成長した獣の姿をえがきだす。


 やじりのごとき爪が地をつかみ、ふんにも似た口器こうきのなか牙が鳴る。

 三本の尾が怒りに震え、背から生じた鉤、錐、槌の触手が血肉を求めのたうつ。

 深淵しんえん穿うがたれた双眸は、渦巻く殺意にうごめいた。


「ゲェェェエエエエェギャアアアアァァァッ!」


 これが薫の、真の絶望。

 えることなき憂鬱。


 闇夜あんやの狩人に与えられし名を〈屍肉喰らいスカヴェンジャー〉という。

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