十一章 二度と戻れない夜

 いつも誰かに生かされてきたような気がする。

 母にやしなわれてとか、学校で勉強をおしえてもらってとか、そんな生活の中での助力じょりょくとは別に。

 自分の選択を、いつも人にゆだねてきたように思えてならない。


「……」


 いや、それは少し違うかもしれない。

 選択してきたのは、あくまで自分だ。

 ただ、ずっと周囲を言い訳にしてきただけで――。


 茜音あかねは、母の結婚を承諾しょうだくした。あいし合っているなら、二人は幸せになるべきだと告げた。母の恋人に頭まで下げた。『お母さんをよろしくおねがいします』と。


 畢竟ひっきょう、それが自分の幸せなのだと言い聞かせながら。


 裕司ゆうじとの関係にも暗示をかけた。

 薫の幸せのためには、こうするしかないのだと。


 夜の公園で二人きりみじかい家出をしたあの日から、もう二月ばかりがった。そこに隔絶かくぜつがあった。二人のわす言葉の数は、めっきりと減っていた。

 選択授業でも隣へすわらなくなった。ノートを見せてもらうのもめた。


 反面、かおるは裕司と時間をともにすることが多くなった。休み時間も昼食も、ほとんど裕司と一緒だった。くだらない話を、いつもの三人でするのは、もう滅多にない事だった。


 かつての満たされていた日々が、もう何年も昔のことのように縹渺ひょうびょうとして感じられる。

 たびたび寄越される薫からの連絡も、今は虚しい。

 文面だけで伝わる幸せそうな様子。しるされた「永田くん」の文字は、自分の知っている永田ながた裕司とは、まるで別人のように思えた。


 薫は大切な友達だ。大好きな友達だ。

 初めて会った時から、この子とは親友になれる、と確信的な予感があった。


 そして、その通りの今があり。

 もっと幸せになって欲しいと思えるのに。


 一方で。

 誰も幸せにならなければいいと思ってしまう。


 お母さんはあの人をあきらめて、あたしにだけ愛情をそそいでくれればいい。

 永田くんも、あたしだけを見ていてくれればいい。

 カオちゃんとだって、前みたいに一緒にご飯が食べられたら――。


 些細ささいで、みにくい感情が耳のおくに連続してりやまない。誤作動をくり返すセンサーのように。どんどんおかしくなっていくのが判る。

 抑圧よくあつすればするほど、いやしい気持ちはかえって大きくなっていく。


 茜音はひとりきり、煎餅せんべい布団のうえで身体をまるめながら、胸をかきむしるようにした。


 どうすればよかったの……。


 母の幸せを拒絶きょぜつして、裕司を独占どくせんして、自分をめずにいられたとは思えない。たとえ、誰に責められなかったとしても。いや、責められなかった分だけ、自分が自分を責めただろう。


「……ん」


 枕元にげだしたスマホを、意味もなく手にとった。このうすっぺらの機械とつながった人たちの顔を思いかべながら。


 真っ先に浮かんだのは、母でも薫でも嶺亜でもなかった。

 裕司だった。


 いつかの約束を思い出さずにいられない。

 今もし、電話をかけて「家出する」と言ったら、彼は来てくれるだろうか。夜の公園で共にブランコをぎ月を見上げてくれるだろうか。


 こんな事を夢想むそうする間に、スマホが震えだすことは?

 ふいに永田裕司の文字がひらめいて、八方ふさがりの世界から、自分をさらってくれはしないだろうか?


「バカみたい……」


 自嘲じちょうがこみ上げ、スマホを投げだした。

 ここは現実だ。恋愛小説や少女漫画の世界ではない。うんめいとは所詮しょせん、それをかたるべき者のところにしかおとずれない幻想だ。


 ブブブブブ――。


 だから実際にスマホが震えだしたとき、茜音は狐につままれたような心地がした。

 恐るおそるスマホをのぞきこみ。

 表示された名前に愕然がくぜんとする。

 とっさにほおをつまんでいた。


「……ッ」


 その痛みがあまりに鮮烈せんれつで。

 逡巡しゅんじゅんは一瞬にして途絶えた。

 奇跡の呼び声が消えてしまうのを恐れ。

 あわててスマホを耳にあてがって言った。


「……も、もしもし?」

『あっ、もしもし』


 上擦うわずった、けれどそのなつかしい声に、茜音は腹のそこから震えた。


 永田くんだ……。


「……」

『……』


 たがいに続く言葉はなかった。距離をはかりかねていた。何を話していいか判らなかったし、相手をつのが正しいかどうかも判じかねていた。

 それでも沈黙に隔靴掻痒かっかそうようとして。

 やがて口をひらいたのは裕司だ。


『……よかった』

「え?」

ひさしぶりに、話せたから。なんか最近は、あんまり、その』


 奥歯に物がはさまったような口調に、茜音のむねは痛む。

 原因を作ったのは自分だから。

 薫を応援するにせよ、他にやり方があったはずだった。友達を幸せにするために、友達を傷つけてしまっては本末ほんまつ転倒てんとうではないか。

 そう、裕司の声音こわねには、傷ついたもの特有の繊細せんさいひびきがあった。


「うん、あたしも話せていいなって、思う。あの、ごめんね、永田くん。なんか最近のあたし変だったよね。避けてるっていうか。……ううん、避けてたの。ごめんなさい」

『……』


 すぐには返事がなかった。突然の謝罪に当惑とうわくしているようにも、いきどおっているようにも思える、かすかな息遣いだけが聞こえた。

 ややあって身動みじろぎの気配。


『ううん、大丈夫。また話せたから』

「それだけ……?」

『え?』

「だってほら、理由とかかないのかなって」

『ああ、そっか。理由か……』


 裕司は本当に今、そこに思い至ったようだった。

 その独特どくとくな雰囲気が、みょうに懐かしく心地好い。だからこそ素直になれた。


「理由はね、ごめん、どうしても話せないの。でも、やっぱりあたしが間違ってた」

『いいよ。理由も聞かない。今日はさ、その、べつに特別な用事があったわけじゃなくて……』


 それもそうだろう。恋人でもない異性の友達。おまけに高校生同士。特別な用事などそうそうあるはずもない。


 じゃあ、どうして――。


 そのいはとっさにみこんだ。

 言ってしまったら、美しいいばらの森に迷いこんでしまうような気がしたから。


「家出したくなったんじゃなくて?」

『え、いや、家出するのは九条くじょうさんのほうでしょ?』

「いやいや、べつにあたしのセンバイトッキョじゃないから!」


 答えると裕司はハハと声をだして笑った。

 それはとても新鮮しんせんな響きに思えた。

 裕司の笑い声を聞いたのは、これが初めてかもしれない。微笑をはり付けたような好青年のくせに、決して声を出して笑わなかった。

 だから嬉しかった。

 一度は遠ざかってしまった裕司の、新たな一面を垣間見ることができて、なお。


「ホントは、あたし、永田くんと話したかった」

『……』

「でも、勇気でなくて。連絡できなかった。電話じゃなくても、いつでも話せたはずなのに。不思議ふしぎだね」

『うん』


 たった一つの相槌あいづちが、硬いものにめつくされた胸のなかをほぐしていく。

 どうして、と思う。

 けれど、考えてはいけない。考えだしたら、きっと、もっと苦しむことになるから。

 今、この時。

 浮上ふじょうする疑問は、すべて、夜の暗闇にしださなければならない。


『俺も、ずっと勇気ゆうきがでなかった。本当は話したかった、つまらないことでも、』


 裕司がくちびる湿しめす気配。なにか必死ひっしに言葉を探して、それをつむぎだそうとする気配。

 茜音は待つ。いつまでも待てるような気がした。

 その先に続く、彼の言葉を知りたくてたまらなかったから。

 そしてそれは、思わぬ形で告げられた。


『えっと、だから、今度ふたりで遊びに行かない?』

「え……」


 はっきりと、はっきりと。

 その瞬間。

 胸が高鳴たかなるのを感じた。


 思ってもない言葉だったから。

 それは自分がもらっていい言葉ではないはずだったから。


 返答にきゅうした。

 了承りょうしょうは簡単だ。「いいよ」の一言で事足りる。

 だけど、そう言ってしまったら。

 大事な友達を。彼を好きなあの子を。

 裏切ることになる。

 薫の相貌そうぼうが脳裏をよぎって。

 欲望がみゃくをうつ。


「……」


 どちらを手にするべきか――。

 天秤てんびんは見えない。

 どこにも見えない。確かにあるはずなのに、その瞬間たしかに、茜音は盲目もうもくだった。


「……いい、よ」


 言ってしまってから後悔こうかいした。

 同時に途方とほうもない喜びもあった。


 ずるい自分がささやく。


 バレなきゃ大丈夫、と。

 あとでまた応援してあげればいい、と。

 茜音はその声にしたがう。こみ上げる「やっぱり待って!」の声は呑みこんだ。


『よかった』


 裕司の声はしずかだった。喜びも安堵あんども押し殺した声音だった。

 それが、いっそう胸を高鳴らせた。


 スマホの明かりひとつが、ぽうと浮かび上がった寝室。

 ち満ちるのは、うるさいほどの静寂。


 けれど電話口の向こうに。

 裕司の存在だけが聞こえる。


 まるでこの世にたった二人、潮騒しおさいに抱かれた砂浜へ打ち上げられたくじらになってしまったような気がする。

 海へ戻るすべを知らず。

 互いの事しか知らず。

 元いた場所をわすれるほどの強烈な微睡まどろみおぼれていく鯨。


 茜音はすべてのうれいを忘れた。

 母のことも薫のことも念頭ねんとうから消えた。

 裕司と交わす言葉の一つひとつが、この世界を形作る粒子だった。

 他には何もなく、何も必要としなかった。

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