間章 〈死神〉に関してⅢ

「やあ、相賀おうがくん。〈猟犬ハウンド〉と戦ったって聞いたよ。今回も無事ぶじでよかった」


 御堂筋みどうすじとうは定期面談におとずれた〈死神グリム・リーパー〉をねぎらった。


 社交辞令ではない。

 本心だった。


 しょせん、エゴイズムにぎないとは解っているけれど。

 東吾は一人でも多くの〈虚無エンプティ〉に心を学習してしいのだ。


 彼らを人ならざる存在だと認めたくはない。

 目の前で変貌した兄を、今も人間なのだとしんじていたいから。


 兄さん……。


 べつに特別な人ではなかった。目立つ人ではなかった。どこにでもいる普通のサラリーマンだった。子どもの頃も、とりたてて胸の温かくなるようなエピソードはなく、むしろ、ケンカばかりしていた。いつも東吾がけて、泣かされてばかりいたものだ。


 そんな兄だったから。

 てもいなくても同じだと思っていた。自分の人生に、必要な存在だと感じたことがなかった。


 それなのに。

 目の前で化け物となり。

 目の前で〈虚無エンプティ〉となった兄を認めたとき。

 悲しくて胸がり裂けそうだった。

 つまらない思い出が次々と。

 泡沫うたかたのごとくいては消え。

 プツプツとはじけるだけなのに、涙があふれて止まらなかった。


 居てもいなくても同じだ。そう思った自分がまねいた悲劇だと感じた。自分が兄を心ないものへ変えてしまったのだとやんだ。そんなことはあり得ないと解っていても、どこかで超自然的な因果が絡んでいるように思えてならなかった。


 兄とともに白犬ホワイト・ドッグの一員となったのは、贖罪しょくざいに似た感情の所為だったと思う。


 しばらくは、どこにも居場所がなかった。

 兄と会うことはできず、彼の戦いを止める術ももたなかった。

 誰にも悩みを打ちけられない、苦しい日々が続いた。

 定期健診の結果から〈黒犬ブラック・ドッグ〉になるのではと危惧きぐされ、監視員がついたこともあったほどだ。


 だが、ようやく苦しい日々は終わった。この場所に腰を据えることができ、兄との再会もたされた。


 すべての苦しみを絶てたわけではないけれど。

 袋小路ふくろこうじからは抜け出せた気がする。

 分析官の立場から兄の残滓ざんしをさぐり。〈虚無エンプティ〉への理解を深め。希望を見出みいだしてきた。


 その上で、


「……」


 あらたな希望と出会うこともできたのだから。


「任務は順調かい?」


 東吾はたずねる。

 すると〈死神グリム・リーパー〉は、ゆっくりと瞬きをした。睫毛がその目許に、濃いかげを落とした。


「……解りません」


 東吾は、その反応をいまさら意外には思わなかった。彼はもう感情を学習し始めている。理解にはおよんでいないのかもしれないけれど。肉体と精神のむすびつきが強固きょうこになっているのは確かだ。


「例の三人についてなやみがある?」

「そのうちの一人、でしょうか」

「なるほど。それは任務における悩みかい?」

「解りません……」

「そうかぁ」


 これは少し意外な反応だった。

 悩みがあるのを認めたのは、進歩であっても不思議ではない。あるいは、内在ないざいする感情にそれらしい名前を当てはめてみせた事をさといと評価できる程度だ。


 も感情と名前を一致いっちさせる事には成功した。今なお、感情に対する理解は深化しんかしつつある。

 だが〈死神グリム・リーパー〉を悩ませる、今、芽吹めぶきつつある感情は、でさえもいだいたことのない、より鮮烈せんれつで複雑なものに違いなかった。


 東吾は胸の奥があつくなる。

 やはり、彼らは眠っているだけなのだ。人として必要なものは、ちゃんと持っている。


「相賀くんが、その子について悩むなら、思い切って話をしてみるといいよ」

「……話」


 黒曜こくよう色の瞳に、おそれの色がけぬけた。


「大丈夫。身構えなくていい。なぜ話す必要があるかとか、何を話すべきかとか、むずかしく考える必要はないんだ。相賀くんが話す機会をもうけられたら、あとは勝手かってに言葉がでてくるから」

「理解できません。言葉はによってみちびかれるものでは?」

「それもある。考えを放棄ほうきしろとも言わない。まあ相賀くんの言ったとおり、今、ぼくが言ったことは理解できないものだと思ってくれていい」


死神グリム・リーパー〉がわずかに眉根まゆねを寄せる。


「相賀くんは、近頃、色々と感じ始めているね。それが不可解で、時には気分がわるいだろう? 勝手に言葉がでてくるというのは、それに似ている。合理的に解釈かいしゃくするのは難しい。不可解だけど、あるものなんだ」


 ますます眉根のしわが深まる。鋭い眼差しは、いっそ殺意を向けられているように錯覚さっかくするほどだ。

 しかし〈死神グリム・リーパー〉は、ふいに緊張をき、「わかりました」とだけ答えると立ちあがった。


「今日はこのくらいにしておくかい?」

「ええ、夜は短いので」

「はは、そうだね」


 思わず笑いがこぼれてしまった。

死神グリム・リーパー〉は、相変わらず挨拶もなく面談室をあとにした。


「夜は短い、か……」


 確かにそうかもしれない。

 二度とけることはない。そう思われた絶望の日々も。

 気付けばとおい昔のことだ。


虚無エンプティ〉の心をとざした闇も、いつかは晴れるかもしれない。

 その光を導くために、今、自分はここにいるのではないだろうか?

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