十章 翳りの裏の日常に

「んまぁ、気味の悪い話は置いといてさ、かおるっちの話しようや」


 ひたいが触れんほど顔を近づけ、一昨日のラバーズ爆破事故に関する話題を一蹴したのは嶺亜れあだった。

 茜音あかねは玉子焼きを口中へ放りこむと「ほれもほあねー」と、にんまり口角をつり上げる。


 今日は久しぶりに女子三人での昼食だ。

 目的はひとつ。

 ささやかな嗜虐心と好奇に満ちた茜音と嶺亜の目は、まっすぐに獲物に狙いをさだめ細められる。


「で、永田とはこれからどうすんだよ?」


 そう、これは男子不可侵ふかしんのガールズトークなのだ。

 だが主役の薫はというと、あまり乗り気でないらしい。眼鏡の奥の目をぐるぐる回して胸を押さえている。


「あー、しんど。別に学校で話すことでもなくない?」

「いやいやぁ、茜音っちバイトで忙しいじゃん? 気の置けない? 三人で? 話せるのって? やっぱここしかないでしょうよ」

「ないよ、ないよー」

「いやぁ、そやけど……」


 狼狽ろうばい気味に目をせた薫からは、けれど本音を語りたい欲求がけて見えるようだ。眉をしかめながら、口許ははっきりとゆるみ、視線がちらちらと裕司にとんでいる。うっかり目が合ったときには「きんぴらウマいやん!」などと、あからさまに思ってもみないことを叫んだりした。


 薫が「永田くんのこと、好きかもしれん」とカミウングアウトしてきたのは、驚くべき事に、彼が転入てんにゅうしてきたわずか一週間後のことだった。

 一目惚れなのかと問えば「そうでもない」と言うし、どこが好きなのか問えば「雰囲気」と曖昧あいまいに徹する。まことに謎めいているが、えてして恋とはそういうもので、羞恥しゅうちや当惑、そして相手に対するぷつぷつと煮えるような熱が、周囲の人間からすると微笑ほほえましく、からかい甲斐がある。


「な、そろそろ聞かせろって、薫っち。永田の、どんなところにィ、キュムキュムすんだよォ……!」


 嶺亜の言い回しが独特どくとくで、茜音はついケラケラと笑ってしまう。だが、薫の肩に腕をまわし、にたりと笑んだ嶺亜はいかにも偽悪的で、はたから見れば優等生にからむ不良と、その取り巻きの図にしか見えない。


 ふと、裕司はこの現場を見ているだろうかと気になった。茜音は一人で弁当をつつく裕司を一瞥、


 あ……。


 するつもりが、はっきりと目が合い逸らせなくなる。

 不覚ふかくにもどぎまぎして、意味不明の苦笑を返した。

 あちらからも曖昧な微笑が返ってくる。


 気まずい……。


 けれど、かすかな喜びもあった。ほんの短い、なんの意味もないやり取りだけれど、二人だけに解る合図のようにも思えて。


 同時に、薫がその様子を見ていないかこわくもなる。


 だが杞憂だ。

 薫は、嶺亜に質問攻めにされていて、それどころではない。うつむきながらちょぼちょぼと弁当を突いているだけだった。


 とたんに安堵あんどと罪悪感がこみあげる。

 茜音が裕司をおもうとき、そこからファミレスや夜の公園での会話を取りのぞくことはできなかった。


 薫の恋心を知りながら、二人きりで会ってしまったこと。親友たちにも話せなかったなやみを告白したこと。連絡先を交換したこと。


 友情だと言い聞かせれば自分では納得できることも、客観的に見れば、やはり特別な事のように思えて。薫を裏切っているような気がしてならない。


 そして、そんな思いがいてくる分だけ、茜音が裕司を特別視しているのは確かだった。それが恋愛感情と結びつくものかどうかまでは判然はんぜんとしないものの。

 心の底でおりとなってうれう程度には、友情とかたせないだけの混沌こんとんもある。


「――そのへんさ、茜音っちはどう思う?」

「へっ?」


 ふいに意見を求められ、茜音はとび上がった。

 嶺亜が呆れたように薫から身を離す。


「聞いとけよな、茜音っちー。まだ寝たりないのかよ」

「いやぁ、ごめん。そうかも、昨日おそくってさぁ」

「昼間寝すぎてんじゃねぇの?」

「あっは、そうかも」


 薫と目が合えば、ウインクされた。嶺亜の注意をらしてくれた謝意のつもりだろうか。

 茜音は微笑んで返すが、胸がちくりと痛んだのを見過ごせなかった。普段どおりの関係をおくり、感謝される、そのうらで。


 薫の知らない密会みっかいがあったこと。


 ますます一昨日おとといの夜の出来事が鮮明せんめいになる。

 心が責めているのか。そうやって自分をなぐさめているのか。

 あるいはみにく優越ゆうえつでしかないのか。

 いずれにしても、茜音の心境はおもい。

 本音を吐露とろし、孤独の慰藉いしゃに裕司をつかった代償だいしょうが、こんなにも己をさいなみ、友情に後ろめたさを付随ふずいさせるものだとは。


 この罪をそそぐ手立ては一つしかなさそうだ。

 薫と裕司の関係を成就じょうじゅさせることにしか――。

 茜音は、思い出をあわく胸のなかにしまい込み。

 親友の幸福を第一に考えることにした。



――



『……あたしは、ここにいるよ』


 首筋にった温もり。湿しめった吐息。

 み目もない闇にふさがれ、味もにおいも感じない世界で。

 おぼろな感触にまぶたを撫でられるような心地ここちがする。


『大丈夫。ずっとここにいるから』


 親身に訴えかける少女の遠い声は胸にやさしい。

 けれど、彼のまぶたにおそいくる睡魔は強烈で、いっそ暴力的ですらあった。

 柔和にゅうわな優しさを拒むように衝動しょうどうがのたうち、頭の中でえるのは、自分とずっと同居してきた友の声。


 こんな世界はいらない。消えてしまえばいい。この手ですべて喰らい尽くしてしまえばいいと。


 友は痛々いたいたしい説得をつづける。

 彼は、それらの言葉が何よりも正しいのだと感じる。世界に満ちた、目に見えないたくさんの考えの、どんなに穏やかでいつくしみにんだものよりも。

 厭世えんせい的で、破滅的で、利己的な咆哮ほうこうのほうが、この世には相応しい。 


 だから目覚める必要はない。

 友の言葉に応えられるだけ酷薄こくはくにもなりきれないのなら。

 友に身を委ね、自分はこの闇にとっぷりと浸かって、永遠に眠っているべきだと。


 そう思うのに。

 少女の涙は首筋に熱く、手のひらの柔らかさに、微睡まどろみは薄れてしまう。


『ねぇ、お願い……!』


 自然と瞼がひらいて、その隙間から涙の代わりにぽろぽろと。なにか得体の知れないものがこぼれ落ちていくような気がする。

 彼はそれをすくい上げようとして、けれど多くが指の間に消えてしまうのを憂えた。

 少女の声はまだやまない。


『目を覚ましてよ……』


 悲痛に震えて、彼の睡魔とたたかうように。

 ずっとやまなかった。

 そして彼のくらい眠りも、それから永遠におとずれることはなかった。

 彼女の発した魔法の言葉のせいだった。


『――は、あたしのなんでしょ!』


 悲痛な訴えを聞き届けた瞬間、彼の胸の奥で炎が燃えた。

 陰鬱にかげった心に、光が射した。

 いつか見た大好きなあの子の面影が、笑顔が、眼間まなかいに蘇る。

 彼は取るものもとりあえず、手中に残ったものだけを頼りに、夢の世界をとびだしていく。



――



「――永田くん?」


 演者の記号を呼ばれ、〈死神グリム・リーパー〉はハッと身を起こした。

 眼前がんぜんには薫がいて、驚いたように目を見開いていた。

 彼女は半端はんぱな位置に彷徨さまよう手を、行き場を失くしたように引っこめると笑った。


「びっくりしたぁ。悪い夢でも見てたん?」

「いや、うん、そんな感じ」

「はは、どっちよ」


 狩人としての馴致じゅんちから、頭の中はすでにクリアだ。名を呼ばれただけで起きることもできた。

 これが待機時であれば何も問題はないのだが。

 今は任務中だ。任務に支障ししょうのでる振る舞いはゆるされることではない。


 一昨日は〈屍肉喰らいスカヴェンジャー〉、昨夜は〈仔犬パピー〉の襲来があった。疲弊ひへいしていたのは事実だ。だからといって、言い訳にはできない。とんだ失態しったいだ。

死神グリム・リーパー〉はとっさに茜音をみた。


「……」


 嶺亜と談笑だんしょうしている。

 周囲に〈黒犬ブラック・ドッグ〉や黒い粒子ダークマタと思われる実体は確認できない。精神的に疲弊ひへいした様子もなく、発現の兆候ちょうこうは見られなかった。

 ほっと胸を撫でおろすと、薫は視線の先をってきた。


「どしたの、なんかあるの?」

「いや、べつに。西園寺さん、珍しく二人と一緒にいないんだなって」

「ええ? なにそれ、ちょっと怪しいなぁ?」


 薫がにたりと笑った。光の加減かげんで眼鏡が白くまばゆく煌めいた。


「もしかして永田くん、二人のどっちかに気があんのかなぁ?」


 そう言って胸に手をやり、微かにそこをつかむようにしたのは何故だろうか。

死神グリム・リーパー〉は些細な懸念けねんから黒い粒子ダークマタをとばし、薫の精神状態を分析しようとこころみた。


 しかし特性にめぐまれた〈紫煙スモーカー〉のようにはいかない。精神的に何らかの動きがあるのを把握はあくできる程度だ。〈黒犬ブラック・ドッグ〉の反応は感知できない事から、とりあえず危険はなさそうだと判断する。

 そもそも〈黒犬ブラック・ドッグ〉が茜音にいているのは明白なのだ。ファミレスでみた犬の頭部を幻影というには無理がある。


 それはともかく……。


 沈黙ちんもくがよけいな意味をふくまぬうちに、〈死神グリム・リーパー〉は永田裕司としての振る舞いに従事じゅうじせねばならない。


「うーん、二人のこと、まだよく知らないからなぁ。二人とも可愛いとは思うけど」

「おっ、可愛いのは素直すなおに認めるのね。ま、可愛くないって言ったらウソやんなぁ。うらやましいわ、あの二人」

「西園寺さんもキレイじゃん」

「あっ、ホンマぁ?」


 頬に手をあて身をよじらせる、やたら芝居しばいがかった仕種しぐさ。三人のかしまし娘は、いつもこんな調子だった。


「まっ、冗談じょうだんはさておき、永田くんが寝てるの珍しいね」

「そう?」

「うん。永田くんがマジメやから、ノートうつせるし」

「たまには自分でなんとかしなよ……」


 ただすような眼差しを送れば、薫は呵々かかと笑った。笑う場面ではないだろうと思いつつも口には出さない。


「そういえば部活は決まったんやったっけ?」


 今日の薫は、いつにも増して饒舌じょうぜつだった。


「ううん。先生から早く決めろって急かされてる。だから、幽霊部員をこころよく受け入れてくれる部活探してるんだけど」

「うわ、やる気な! 青春しようや、青春。ウチの部活なんてどう? ユルいよー」

「文芸部だっけ?」

「そうそう。文芸って聞くと堅苦しいけど、べつにそんなことないから。ウチの部はオタクの集まり。各々おのおの好きなことおしゃべりして、詩とか小説書く人は書くって感じ」

「幽霊部員も受け入れてくれそうだね」

「いや、来んのかい!」

「あんまり時間なくてさぁ」


 苦笑とともに返すと、薫は前のめりな姿勢しせいを正した。


「あ、もしかしてバイト組やった?」

「いや、バイトはしてないんだけどね。家の事情じじょうで早く帰りたいんだ」

「ああ、そうなんや」


 薫は追究ついきゅうしようとせず表情なく返すだけだった。

死神グリム・リーパー〉は授業の準備に取りかかった。会話は終わったものとばかり思っていたから。

 ところが薫のほうは準備に取りかかろうとしない。整然せいぜんとしていくクラスメイトの机上を見下ろしたまま固まっている。〈死神グリム・リーパー〉はどことなく違和感を覚え、その顔を覗きこんだ。


「……」


 なるほど、無にも種類があるのだと思い知らされた。感情を理解するのは難しいが、〈虚無エンプティ〉としての教育を受けてきた以上、うそを見抜く力になら長けていた。

 嘘とは本心の抑圧よくあつだ。

 薫の表情は、水をかぶった恥辱ちじょくから目をらそうと苦心くしんするような装いだ。

 ややあって我に返った薫は、隣にクラスメイトの顔があるのを見てとると、目を剥いてとびあがった。


「わっ、びっくりした! 近いわっ!」

「あ、ごめん。体調悪いのかと思って」

「いやいや、大丈夫やって。ちょっとボーっとしてただけ」

「そっか、ならいいんだけど」


 不可解だった。そこにはやはり嘘のきざしがあったから。

 しかしその真意をたしかめる間もなく、薫は前へ向きなおってしまった。やわらかくカーブした髪の間から見えた耳が、赤く色づいて印象的だった。


 だが、それだけだ。


 九条茜音が〈自我エゴ〉である以上、西園寺薫は、今や有象無象の一人に過ぎない。分析し追究する必要性は皆無かいむの存在だ。


 茜音さえ。

 茜音さえていればいい。

 そのための一瞥だった。


「……っ」


 けれど目が合ってしまえば、逸らすことはできない。

 一瞬の交錯こうさくに、あらがいがたい大きな力を感じた。


 合理的な解釈などできず。

 ただに目を逸らせなかった。


 だから胸が痛んだのだろうか。

 微笑も苦笑もなく、彼女のほうから目を逸らされた時には。

 つぶてをぶつけられたような痛みが、何度もなんども胸中きょうちゅうをえぐったのだろうか。


 間もなく始業のチャイムがる。

 日々変わっていく世界に反して、変わらず今日は進んでいく。



――



 その夜、茜音から連絡れんらくがあった。

 通話ではなかった。メッセージが送られてきただけだ。

 それでも〈死神グリム・リーパー〉は、あの夜の出来事を想起せずにおれなかった。『一緒に家出するよ』と、彼女を見送ったあの夜を。


 茜音はまた苦しんでいるのだろうか。家出をのぞんでいるのだろうか。

 胸の奥をつめたい風がきぬけ、頭の奥をあぶられるような心地がする。

 しかし茜音からのメッセージは簡素かんそなものだった。


『カオちゃんにID教えてもいい?』


 それだけだった。

死神グリム・リーパー〉は何故か、彼女に目を逸らされたあの場面を想起そうきせずにおれなかった。胸にひたと黒く薄汚いものがみていくような感覚を味わっていた。


 淡白だったはずの自分が、ひどく醜悪なもののように思えた。

 濁った水たまりの底に沈んだヘドロのような、静謐な森に打ち捨てられたガラクタのような。あるいは人の魂を喰らう黒い犬のような醜さを自身に覚えた。


 何度もなんども返信を書いては消した。どれも納得のいく内容にはなり得なかった。


 むろん、最終的に送信した一言も。


『いいよ』


 決して彼の望む答えではなかった。

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