八章 狂わせる人

 偶然ぐうぜん性は、時に病的な思考停止を促し、時に正当な疑問をうながしもする。

 なぜ、その出来事が起こったのか。なぜ必然ではなかったのかと。

 そして偶然が重なれば、ささやかな疑問は猜疑さいぎにもなり、やがてある種の確信にも変わる恐れがある。


 だからこそ〈死神グリム・リーパー〉は、土日祝日の監視任務からは外されていた。彼が監視対象にとって「転校生のクラスメイト」である以上、目撃もくげきのリスクは避けなければならなかった。


 だが時に、偶然性は演出として利用することも可能かのうだ。突発的な出来事イベントは病的な思考停止を促す。


紫煙スモーカー〉が予期よきせぬ形で九条茜音エゴへ接触してしまった今、不自然に彼女が寄り添うより、かえって〈死神グリム・リーパー〉が接触をこころみるほうが適当だと白犬ホワイト・ドッグは判断した。


 つまり、この夜果たされた少年少女の邂逅かいこうは、意図された必然ひつぜんに過ぎなかった。


 にもかかわらず、茜音のれた瞳をみた〈死神グリム・リーパー〉は、この出会いに予感よかんめいたものを感じずにはおれなかった。


 それが何を意味するのか。

 もはや感情の名と感覚が乖離かいりしてしまった彼には、知りようもないことだったが。


「永田くん……? どうして」


 手許てもとでカサと音がする。コンビニの袋がたてた音だった。

 買い物を終え宿舎に戻る途中とちゅう相棒バディからの連絡を受け、着の身着のままやってきたのだ。

死神グリム・リーパー〉はふくろをかかげ弱々よわよわしく笑った。


「九条さんこそ。俺は買い物の帰りだよ。お腹いちゃってさ。夜食買ってきちゃった」

「……」


 茜音からの返答はなかった。

 桜色のくちびるは一文字。

 濡れた瞳がいっそううるんで、真っ直ぐこちらを見つめるばかり。


死神グリム・リーパー〉はかけるべき言葉を探す。

 なんと言えば、この偶然を偶然のまま乗り切ることができるか。合理的に思考をめぐらせる。


 しかし次の瞬間しゅんかん

 ふわりとった黒髪の残影ざんえいに、胸へ飛びこんできた衝撃しょうげきに、思考は霧散した。


 甘い香りが鼻腔びこうをくすぐり、見下ろす先には震えるつむじ。

 何が起きたのか、すぐには解らなかった。


黒犬ブラック・ドッグ〉相手ならば、疾風はやてのような連撃をもしのいで見せる狩人が。

 身動き一つできなかった。


「……九条、さん?」


 やがて彼は、茜音の肩に手をのせた。

 胸のなかでしゃくりあげる彼女が震え、恐々きょうきょうとした眼差しを向けてくる。

 ガラス玉のようだ。

 風に吹かれただけでくずれてしまいそうなはかなくもろいガラス玉。


「……」


 それを見つめ返すうちに、〈死神グリム・リーパー〉は自分が解らなくなっていった。自分がなんのためにここへ来たのかを忘れていた。

 ただ眼前の少女と見つめ合う時間だけを知った。


「……ご、ごめん」


 茫洋ぼうようとしたそのねつを、先に振りはらったのは茜音だった。

 おもむろに身を離し、赤くれたまぶたを拭う。

死神グリム・リーパー〉は吹きよせる冷たい風に、冷徹な自分がみ渡るのを感じた。


「ううん」


 答えながら、辺りを見渡みわたした。

 アスファルトのうえに舞う砂埃のような、まばらな雑踏ざっとうから、理性と好奇こうきにゆれた一瞥いちべつが寄越されては消えていく。


「ちょっと、場所変えよっか」

「え?」

「どこか別のところで、ゆっくり話そう」


 茜音は友人の言わんとするところをさっしたのか、雑踏を一瞥するとうつむくようにうなずいた。

 すると〈死神グリム・リーパー〉は合図もなく歩きだす。茜音がおもむろに続く足音が聞こえた。

 行くあてはなかった。相応しい場所も知らなかった。ただ、ゆっくりと腰を落ち着けられる場所ならどこでもよかった。


 やがて歩調をあわせ、横並びに歩く。

 折々、触れる肩の感触からは目を逸らしながら。


 大通りを抜け、宇曽うそぶき市街を横断おうだんした。住宅街にぽつぽつと、水溜りのように落ちる街灯のなかを泳いだ。木々の寝息ばかりが穏やかな公園へたどり着くまで、およそ二十分。


 結局、たがいの距離をはかりかね、一言もはっしなかった。

 久しぶりに開いた口の中は、ひどくかわいて。

 まるで自分のものではないように感じられた。


「座ろ」


死神グリム・リーパー〉は、公園のブランコを指さした。

 そこは二人のためだけに用意された特等席のようだ。空を穿うがった月色がヴェールのように垂れ下がり、あわい明かりを落としていた。隣同士、座板へ腰かければ、夜気がしみてほんのりと冷たい。


「……懐かしいなぁ。ブランコなんてひさしぶり」


 茜音が言った。

 乾いた土をけり、ブランコをギコギコと鳴らしながら。


「そうだね」


 と〈死神グリム・リーパー〉。

 初めてだとは言えなかった。


「……」


 どちらも、あとに続く言葉はない。夜をつつむ静寂しじまは、沈黙をもやさしく受け入れてくれた。

 あとには土をる音、ギコギコと軋む音。

 それさえもやみに投げだし、少女のブランコが動きをとめたとき、沈黙はふたたびやぶられた。


「……あたし、家出してきちゃった」


 茜音はそう言って笑った。痛々しいほど快活な笑みだった。

死神グリム・リーパー〉はなにも言わない。少女が、自ら虚勢きょせいのわけを語るまで待つ。

 少女の顔から笑みが消える。


「あたし嘘吐きなんだぁ。昨日、永田くんに言ったのもうそだった。話したららくになったって言ったけど、そうじゃなかったよ」


「やっぱり辛かったんだ?」


「うん……。あたしがお母さんに幸せになってしいのはホント。でも、まったくぎゃくの気持ちもあって……。あたしさ、お母さんに幸せになって欲しくないの」


 また潤み始めた双眸が、夜のあおに眩しかった。

 それを一瞥すると〈死神グリム・リーパー〉は、コンビニの袋のなかから、おにぎりを一つ差しだした。

 茜音は訝しげに首を傾げた。


「え、なに、くれるの?」

「うん。少しでも食べたほうがいいよ。そのほうが自分に優しくなれるから」

「自分に? でも、あたし……」

「九条さんが自分を責めるのは、お母さんを本当に大事に思ってるからだよ」


 茜音は思案しあんするように目を伏せ、おずおずとおにぎりを受けとった。


「ホントに食べていいの?」

「いいって。まだいっぱいあるし。ほら」


 袋のなかを見せると、茜音は驚きに目をいた。


「ええっ、多すぎ! 一、二、三……十個くらいあるじゃん!」

「夜になると腹減っちゃうんだよね」


 茜音からうらめし気な視線が返ってくる。


「それでもふとらないのかよぉ。神様イジワルだなぁ」

「一応、運動してるから」

「うわ、あたしだって運動してるもん! 体育はマジメに受けてるよ!」

「体育は、って……」


死神グリム・リーパー〉が苦笑すると、茜音はおにぎりのフィルムを剥がしはじめた。それからやや乱暴らんぼうにかじった。パリパリと海苔のりを噛む音。


「ん、ツナマヨっ!」

「おいしいよね」

「それもそうだけど……カロリー高い!」

「なんかごめん」

「ははっ、べつにあやまるとこじゃないよ」


 クスクス笑って茜音はもう一口かじる。そこに痛々しい虚勢はない。ありのままの九条茜音がいるだけだった。

死神グリム・リーパー〉も鮭のおにぎりを取りだしべ始めた。ようやく空腹を忘れていたことに気付いた。


 それが何に起因きいんするのか、彼はもう知っていた。

 感情だ。

 種々にわき立つ泡に、どんな名が相応しいのかは知れないが。

 彼女が奇異きいな存在で。〈虚無エンプティ〉であるはずの自分をくるわせているのは、もはや疑いようがなかった。


 彼女といる間、あるいは彼女に結びついた事柄ことがらを想うとき、彼はしばしば自分を見失みうしなった。


 彼女が今もここにいるのが、その何よりの証左しょうさだ。

 白犬ホワイト・ドッグの構成員として、まっとうに仕事をこなしていたなら、彼女は何らかの形でされるか、タルタロスでを強制されるはずだったのだから。


 それをどう受け止めるべきかは解らない。

 自立的に目的意識を設定できない〈虚無エンプティ〉にとって、組織は生きる理由そのものだが。

 今回の独断どくだんはまぎれもない裏切りだ。


「……あたしがさ」


 だから茜音が口をひらけば、彼はいてを殺そうとする。


「お母さんを幸せにできなくても、お母さんはあたしを好きでいてくれるかな?」

「九条さんは、これからもお母さんを幸せにするよ。ずっと支えあってきたんだから。結婚しても変わらない。きっと、お母さんの受けとる幸せの数が増えるだけなんだと思う」


 茜音がきょかれたように目をみはった。


「幸せの数……?」

「そう」

「そっか。あたし勘違いしてたんだ……」


 それからすぐにき物が落ちたように微笑ほほえんだ。


「人の受けとれる幸せって、一つじゃないんだよね」


死神グリム・リーパー〉は頷く。

 と同時に、この仕種しぐさをするのはだれだろうかと考える。


 任務において適当な応対おうたいをとる自分だろうか。

 それとも感情をもった自分だろうか。

 あるいは、自分はもうすでに、そのどちらともり切れない存在になっているのだろうか。


 茜音は、そんなクラスメイトの当惑とうわくを知らない。

 ふいに立ちあがって「やっぱ帰る!」と夜へいどむように叫んだ。


「びっくりしたぁ。もう大丈夫なの?」


 尋ねると茜音は、舌をだして弱々しく笑った。


「わかんない。また勝手かってに落ちこんで家出するかも」

「じゃあ、その時は俺も一緒いっしょに家出するよ」

「ええっ?」


 闇をはらう頓狂とんきょうな声に、少年は微笑む。


「それでさ、またこうやって話せばいいよ。九条さんが元気になるまで」


 茜音は思案するように眉根をよせ、クラスメイトを見つめた。

 そして、おもむろにスマホをとり出した。


「……じゃあさ、連絡先教えてよ。また家出できるように」

「オッケー」


 茜音はその反応を意外に思ったのか、わずかにまぶたをもちあげた。が、それだけだった。二人は連絡先を交換し、互いにみじかい謝意を告げた。


「送ってくよ」


 茜音は素直にうなずいた。〈紫煙スモーカー〉からの情報では、どうやら危険な目にったらしい。なおさら、この闇深い夜をひとり歩くのは怖かったのだろう。


「……」


 公園をでると、二人はまた沈黙にかれた。互いの間に横たわった、繊細せんさいに熱すぎる部分を隠すように。

 袋のたてる音だけが、その熱をなぐさめる優しさのようだ。


 ヘッドライトが闇をき、テールランプが裂かれた闇の間隙かんげきに消えていく。ぎこちない挨拶あいさつのように街灯が点滅てんめつし、二人の背中を送りだす。家々から覗くいとなみが、一つふたつと瞼を閉じてゆく。


 やがてふるびた一軒家のまえで、茜音が足をとめ振りむいた。


「ここ、あたしの家」

「うん」


 茜音は視線をさまよわせた。ところどころ瓦の剥がれた、小さくみすぼらしいその家をじるように。

死神グリム・リーパー〉はあえて悪戯いたずらっぽく笑った。


「ひとりで大丈夫?」

「はぁ? 当たり前じゃん」


 茜音はいつもの調子でおどけてみせた。

 しかしすぐに門戸もんこへ向かわず、上目遣いにこちらを覗きこんだ。


「……でも、ひとりじゃ無理って言ったら?」

「九条さんが中に入るまで、ここで待つよ」


 茜音がふき出した。


「えーっ。一緒に来てくれるんじゃなくて?」

「お母さん、びっくりするでしょ」

「あー、そういえば永田くん男の子だもんね」

「うわ、どういう意味?」

「さあねー」


 少女がにたりと笑ってきびすをかえす。その肩越かたごしに目が合った。


「今日は、いや今日も、か。ありがとね」

「どういたしまして。話せてよかったよ。おやすみ」

「うん。おやすみ」


死神グリム・リーパー〉は、その背中を見送った。


「……」


 茜音が引き戸の間隙かんげきに消えるとき、束の間、目が合った。

 たがいに小さく手を振りあった。それが今度こそ別れの挨拶となった。二人はたった一枚の引き戸にへだてられ、それぞれの日常へ戻るのだ。


死神グリム・リーパー〉は、すぐさま仕事用の端末をとり出した。任務の引継ぎを要請しなければならない。


 そこに突如、きりが吹きぬけた。

 否、霧ではない。

 肺をちりちりとあぶるような痛みがある。鼻にぬけるのはかおり。

 煙草の紫煙しえんに他ならない。中にまたたく、黒いかがやき。

 いっぱく遅れて、アプローチするはずだった相手から通信がはいった。


『こちら〈紫煙スモーカー〉。ポイント〇一四へ急行せよ』


 急行。

 そのひびきに〈死神グリム・リーパー〉はただならぬ緊迫きんぱくを感じとった。

 実際、それは通常の〈黒犬ブラック・ドッグ〉に対してもちいられる定型句とはことなるものだ。

紫煙スモーカー〉は感情を欠いた声でつづけた。


『〈大鴉レイヴン〉、〈転瞬シャッターズ〉が交戦中。追加肢オプション多数。クラス〈猟犬ハウンド〉の出現を確認した』

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