七章 居場所

 どんなに眩しく瑞々みずみずしい希望も、絶望へと裏返らぬものはない。

 望まれて生まれた命も、いつかは死に絶えるように。

 希望と絶望もまた表裏一体である。

 決して分けられるものではなく、分けてとらえるべきものではない。


 光の象徴のようにかがやく人にも、憂いにし潰されうつむく人にも、神は永遠をのぞまない。

 生とは有限にぎず、生きることは得ることとうしなうことの連続にある――。


 茜音は物心ついた頃から、すでに一つをいていた。

 彼女には父親がいない。

 幼くして亡くなった父との間には、夢とうつつあわいにあるような曖昧な思い出しかなかった。だから彼女は、父をいたのであって、のではない。


 とはいえ父の不在はまぎれもない事実。

 彼女の希望と絶望の起源はそこにあった。


 今夜の約束は、まるで運命の辻褄合わせのようだと茜音は思う。

 父という決して埋められるはずのない空席に、新しい父が腰を据えようとしているのだから。


「どうしよ……」


 時計の針はじきに七をさししめす頃だ。休日の忙しないアルバイトを終え、帰ってくるとこの時間だった。

 あと一時間もすれば運命のときはやってくる。

 常と変わりない時を過ごしていれば、そのまま一日が終わってくれるような気がしていた。

 けれど、時は止まることなく、なかった運命へ向けて舵を切ることもない。


 焦燥しょうそうはじりじりとくすぶって、意識を心の隙間すきまへと向けてゆく。


 そうして脳裏に過ぎるのは、この十七年を生きてきた思い出の数々だ。

 笑顔に満ちた日々――。

 しかし鮮烈な思い出ではない。単に、長く過ごしてきた時間を憶えているだけだ。


 誰にさとされたわけでも、脅されたわけでもなく、少女は快活な娘として生きることを自らにいてきた。


 母からの愛を自覚し、母の労苦を知っていたから。

 せめて娘に関する苦しみくらいは、思い悩むことがないように。


 茜音はひたすらに笑い、心の中だけで泣いてきたのだ。


『ア、アア……』


 そうして苦悶の檻に閉じこもった彼女の隣でが鳴き始めたのは、いつからだったろうか。


 それは正直でない彼女をいぶかるように、糾弾きゅうだんするように、あるいは誰も知ることのない孤独をいやす、唯一の慰めのように誕生した。


『だレも、あたシを、たスケてくれない……』


 獣が鳴き声をあげるとき、そこには空恐そらおそろしい甘美かんびな響きが伴った。痛むことを知ってなお、針の山へ指先を伸ばしたくなるような強迫的な魅力があった。


『あたしガ、ワルいから……。アタしが、いなケれば』


 獣は彼女のすべてを知っていた。なにひとつ知らぬことはなかった。誰よりも彼女の孤独に寄りい、知るがゆえに責めたてた。いっそ慰藉いしゃともとれるほど、容赦なく陰湿いんしつな言葉の数々が、泥濘でいねいのような心の翳りへと、彼女を導くのだった。


 一方で彼女は、獣が危険な存在であることを理解していた。

 声にまどわされながらも、深みへはまってはいけないと自戒じかいし続けてきた。根拠も確信もなかった。ただ直感的に遠ざけてきたのだ。


 獣はそのたびに不満げに鳴いたが、彼女はしつけの綱を手離さなかった。


 高校へ進学してからは、鳴き声を聞くことも減っていった。

 特に西園寺さいおんじかおるつきしろに出会ってから。


 彼女の日常は、真の笑いに満ちたものへと変わった。

 近頃はそこに永田ながた裕司ゆうじも加わった。

 愛する母は、愛すべき人を見つけた。


 順風満帆じゅんぷうまんぱんの日々だ。

 これ以上ない幸福だ。


 そうではなかったか?


 こんなにも満たされた今、うれうことなどないはずだ。

 それなのに何故なぜ

 こんなにも心苦しく、恐ろしく。


『ア、アア……』


 忘れかけていたはずの獣の声を聞いてしまうのだろうか?

 昨日、裕司にすべてを打ち明けた、あの短くも長い時間にさえ、深淵しんえんのごとき獣の双眸そうぼうを覗かずにいられなかったのだろう?


 茜音は食卓のまえで膝をり、みずからの肩をいた。自分という存在が、人という殻を破り、はるかにいびつみにくいものへと変貌していくような予感を味わいながら。


『コワい、こワいコわいよ。おカアさんが、おカあさんが、シアわセになっチャう……』


 獣は茜音の不安を見事にいい当てた。

 快活かいかつな少女の胸の悪くなるようなかげりをはっきりと嗅ぎ当てていた。

 獣はめたる醜悪な孤独に寄り添いながら、いっそう飼い主をなぶるように鳴く。


『どうシテ、どウしテ、あの人が必要ナノ? あタしが、アたしがあたしが、ズットオかアさんを、しあワセにしてキたハズなのに。ズット、ずっとずっトそのために、生きてキタはずナのに……』


 茜音は肉に指が埋まるほど、強く己が身を抱いた。華奢きゃしゃな体躯を折りたたみ、消えてしまおうとでもするように。


 道も果てもない森を駆けるように、心は、しゅうねく付きまとう恐怖に追いめられていた。どんなに足掻いても、それと対峙たいじせずにおれなかった。


 醜悪な執着しゅうちゃく以上に、悪辣あくらつで暴力的な感情の発露はつろ

 むろん、獣はそれも代弁だいべんした。


『あのヒトが、あノ人がアノヒトがいなくなれバ、あたしタち二人は、ズッと、しアワセでいラれるのに……。おカアさんの、おカあさんの心が、いツマでもあたしのホウをむイくれるはズなのに……。あの人がきタせいデ、あたシたちのしあわセは、シアワセシアワセ、コワサレ、ル』


「やめて……! そんなことっ」


 茜音は耳をふさいだ。

 けれど心にあいた隙間まで塞ぐことはできなかった。

 恐怖はどろりと渦巻うずまいて、獣の空腹を満たしていく。

 彼女もそれを自覚していた。自覚しているからこそ遠ざけようとした。

 耳をかたむけてはならない。獣の言葉が、今感じている以上の恐怖を運んできてしまうと。


 そうして救済きゅうさいを求めるとき、思い出されるのは、幻影げんえいじみた遠い記憶だった。

 うっすらと残された、もやがかった父の面影おもかげのように。

 それは夕日に輪郭りんかくを焼きながら、毅然きぜんと立ちはだかっていた。


「いっくん……」


 茜音は救世主の名を呼んだ。両手をひろげ、こちらへ振り返ることなくとも、ただその背中だけで勇壮ゆうそうを語る彼を。

 なんの物語にひもづいているわけでなく、ただそうして脳裏にきざまれた英雄の姿を。

 ただそれだけの記憶が、何故だか獣の声におぼれそうになる茜音をすくいだす唯一のしるべとなっていた。


『ア、アアァ……ァ』


 影をえがきだすほのおに、恐怖はもだえ、胸のおくではいになっていく。獣もまた苦しげにうめき、脳裏の陰影いんえいへとかえっていった。

 残ったのは、耳に痛いほどの静寂せいじゃくと、ほんの一瞬眼裏まなうらを過ぎった、


 永田くん……。


 裕司の姿だった。

 それにどんな意味があったかは知れない。深く追求する気にもなれない。

 ただせまりくる時間ばかりを意識した。獣を振り切ることには成功したものの、救われた心地ここちにはなれなかった。


 そして彼女は、自分を責めに責めた。

 そうせずにはいられなかった。


『恋人ができた』といった、あの笑顔が忘れられなかった。『お父さんができるって言ったらイヤ?』と、逡巡しゅんじゅんしたはにかみが胸をいていた。


 母の幸せを心から願っているはずだった。

 すなわち、それが自分の幸せだったはずだ。

 なのに、なのになのになのに――。


「ああ、あぁ……!」


 醜い自分と対峙するのが怖かった。

 ふたたび獣が現れてしまうような気がした。

 茜音の爪先つまさきは外へ向いた。

 母の浮かべるれ隠しの無表情に、今はえられる気がしない。



――



 大通りの信号に引っかかり、ふと空を見上げれば、一面が紫紺しこんに染まっていた。空にシワをせたようなちぎれ雲のくらさが、茜音の裏切りをただす影のようだ。


 茜音はことさら自分を責め続け、ふと優しいクラスメイトの顔を思い出した。


 また永田くんだ……。そういえば、昨日――。


 裕司と初めて二人きりの時間を過ごしたのだった。

 茜音は反射的にスマホを手にし、裕司の連絡先を聞かなかったことに思い至る。

 異性だから、デリケートな問題ではあった。二人で帰途きとについたこと自体、月曜日にはうわさになっていてもおかしくはない。

 なら、いっそう連絡先を聞いておくべきではなかっただろうか。本当に仲が良いだけなら、中途半端な隔たりのあるほうが、かえってあやしまれはしないだろうか。


 ……まあ、いっか。


 そんなありきたりな噂話は、畢竟ひっきょう、学生生活の退屈をめる刹那せつな的な話題のひとつに過ぎない。茜音のきずきあげてきた人間性は、今更その程度の疑義ぎぎに束縛されるものではないはずだった。


 信号が赤から青へ変わる。

 たちまち、くたびれたスーツ姿の男性や自転車の女学生が、息を吹き返したように動きだした。


 茜音は死んだように歩きだした。

 無数の跫音きょうおんに置いていかれる心地がする。

 いくつかの背中もまた遠ざかっていく。

 それらを憮然ぶぜんと眺め、この人たちはどこへ行くのだろうと考える。


 あたたかな家庭へ帰るのだろうか。

 鬱陶うっとうしい両親の庇護ひご下に置かれるのだろうか。

 そもそも家になどもどらないのかもしれない。

 家庭以上に幸せな寝所や、家ではない居場所へっていくのでは。


 今、自分はどのように見られているのだろう。ただの若い女の子としか見られていないのか。それとも夜分、無防備に外を出歩く非行少女にでも見えるだろうか。


「焼肉いかがっスかぁ!」

「キャンペーンやってまァす」

「――ラっしゃぁせぇ!」


 方々ほうぼうから押しよせる喧騒けんそうに、茜音は我に返った。安全のために大通りを進んできたので人気はあるが、にぎわいの分だけ心細さはいや増した気がした。


 どうして自分がここにいるのか。ここを通ってこなければならなかったのか。

 教えてくれる人が欲しかった。


 茜音は道端に寄ってスマホをとりだす。

 薫と嶺亜の笑顔を想像する。

 あの二人なら、どんななやみも聞いてくれる。

 そう信じられたから。


 けれど指が言うことを聞かない。二人の連絡先を行きつ戻りつして、一向に事が進まない。

 何故なのかは、わかっていた。

 彼女たちとの日々を想ったら、自分のつまらない悩みが、そこに重い翳りを落としてしまうような気がするからだ。変わらずきた日常に一滴の黒いシミを落とせば、それがこれからの日常をむしばむ毒になりはしないだろうかと気をまずにはいられないのだ。


「……っ」


 茜音は結局けっきょくスマホをしまった。

 そしてもう一度、永田裕司のことを想った。


『俺、なにもできなかったけど……話聞くくらいならいつでもできるから』


 どうして彼になら、悩みを打ちけられたのだろう。

 彼にたいして特別な思いはない。薫や嶺亜以上に、信頼しんらいを築く時間が長かったわけでもない。むしろ、その逆だ。

 それなのに彼にだけは、この心情を吐露とろしてもいいような気がした。

 爽やかで、優しさにあふれていて。


 けれど、どこか無機質に笑う彼ならば。


 どんなに汚い悩みでも、あの冷徹れいてつなほどの潔癖けっぺきさで、白く染め上げてくれるように思ったのかもしれない。


 もし、今また彼の声が聞けたなら――。


「あ、ねぇねぇ、キミぃ?」


 ところが茜音のもとへかかった声は、彼女の知るどんな声とも違っていた。

 振り返ると、もう腕をつかまれていた。

 テロテロと不潔に煌めいたスーツ姿の男が、上気じょうきした顔でこちらを見下ろしている。


「な、なんですかっ」

「カワイイねぇ、遊ぼうよ。ヒマそうだしさァ。ちょっとオレとカラオケでも行こ?」


 そう言うと男は、一瞬、双眸に残忍ざんにんな光を宿やどした。

 抵抗すれば、容赦ない万力のような力で手首を潰された。


「いたっ……!」


 茜音は周囲へ怯懦きょうだの視線をむけた。

 そうして気付かされたのは、意外なほど人の数が減っていることだった。


 大学生らしき若い二人組と目がうも一瞬だった。彼らは、眼球でも叩かれたように正面へ向きなおってしまう。派手な恰好かっこうに身を包んだ女からは一瞥が。あわれみとも同情とも取れるまたたきを寄越し、そのまま歩きっていく。


「待って! やめ、放して! 誰かっ!」


 それでも茜音は助けをうた。

 だが今度はどの視線とも交錯こうさくすることはなかった。


「騒ぐなよ! ちょっとカラオケ行くだけだって!」


 男が苛立いらだったように腕をひく。肩がきしみ、恐怖に涙がこみあげた。背筋にぞわりと悪寒おかんがはしった。胸のなかで濃厚な気配がうごめいた。


『……こんな、こんなこんなヤツ、死ねばイイのに』


 脳裏で甘ったるく鳴いたのは獣だ。彼女の本心は低く唸った。


 その通りに世界が動けばいいと思った。

 腕に感じる痛みの、総身そうしん粟立あわだつ恐怖の、何倍もの痛みと恐怖と絶望を、この男に味わわせてやれたなら。


 異様な感情の亢進こうしんが、茜音の自我をとっぷりとひたした。


「いぃ、いでぇ!」


 その時、男の悲鳴ひめいが茜音を我に返らせた。

 見れば、男は苦悶くもんに牙を剥いていた。


 その視線の先は、茜音の傍らだ。


 恐るおそる目を転じれば、そこに長身の人影がたたずんでいた。

 その人物は、スーツ男の手首をつかみ、比喩ひゆではなくメキメキと骨をきしませていた。


「いっで……はな、放してっ!」

「……」


 男の懇願こんがんに、その人物は素直にしたがった。手首をはなすと、口許にくわえた煙草にやった。


「くっそ、なんだこの……!」


 茜音は愕然がくぜんとその人物を見つめた。

 男の言ったとおりだった。それは女性だった。ところどころに老いの跡を刻んだ、冷徹な色気をただよわす女だった。


「どこへでも去れ。さもなくば、今度こそへし折る」


 手負いの獣のごとくにらみを外さない男へ、女は言った。恐ろしく物騒ぶっそうな発言だった。彼女の長身や静かな佇まい、空気をくようなしわがれ声まで、とても冗談とは思えないすごみがあった。


 男はその一言に、茜音とたがわぬ畏怖いふを感じとったと見え、捨て台詞も残さず、さっさときびすをかえした。つんのめりながら、夜の街へ消えていく。


 茜音は肩をでつけ、痛みに顔をしかめると、あらためて女を見上げた。その長躯ちょうくもさることながら、全身をすっぽりと覆ったロングコートが威圧的だった。


「あ、ありがとうございました」


 極力ふるえをおさえて謝意を告げると、女は煙を吸って顔をしかめた。一拍おくれて視線が落ちてくる。


「……礼にはおよばない」


 じつに短い返答だった。一端いっぱしの大人らしく「若い娘は家に帰れ」などとは言わなかった。

 ただ、感情の窺い知れない冷たい目を眇めると、


「ゲハッ! ゴホ、ゴホゴホッ!」


 むせ返った。


 あっ……。


 先の威厳いげんとのギャップに、茜音は当惑とうわくした。辺りをおろおろと見回し、結局、その背中をさすってやる以外にできることはなかった。

 女は、大丈夫だと手のひらを向けてくる。


「ゲホッ……。煙草は苦手でな」


 それなら何故吸うのだろうと思ったが、口には出さなかった。

 茜音はなんとなく去り際をはかりかねた。女は特になにを続けることもなく、こちらを見下ろすばかりだ。こちらとしても告げる言葉がない。

 その沈黙を穿うがつように、スマホのバイブレーションが夜を震わせた。

 茜音はスマホをとりだし、「お母さん」の名を見てとった。


 要件は明らかだった。

 母が心配していると思うと、胸が痛かった。

 けれど帰る気にはなれない。母の結婚をゆるしてしまえば、今度こそ自分の帰る家は、この世のどこにもなくなってしまうような気がした。


「出ないのか?」


 女が言った。その口調には、とがめるような響きなど一切なかった。

 そもそも興味があるようにすら思われなかった。ただ、そうすることがこの場にもっとも相応しい反応だろうと、機械的に下された判断のようだった。


 茜音は女を静かに見上げ、心配する母のようすを重ねた。

 長いバイブレーションの意味に思いを巡らせた。

 恐るおそる通話の文字をタップした。


「……もしもし。お母さん?」

『ああ、よかった……。茜音、今どこにいるの?』


 母は娘の声を聞いて、心底安堵あんどしたようだった。

 だがむすめが家にいないという事実は、声ににじんだ緊張をかすことはできなかった。

 茜音は返答にきゅうし、女と視線を交わした。女はまゆひとつ動かさず、煙草をくわえ直すだけだった。

 それがどういうわけか、茜音をかえって冷静にさせた。


「……お母さん、急にいなくなってごめんなさい。でも、あたしは大丈夫だよ。友達の家に、めてもらうことになって……。その、なんか、いざとなったら……やっぱり整理つかなかったの」


 人気ひとけは減ったものの、街の喧騒けんそうが鎮まることはない。茜音はとっさに口許をおおい隠し、最愛の母へついてしまった嘘をやんだ。

 母はその嘘を見抜いたのか、見抜けなかったのか。

 やや長い間を置いてから言った。


『べつに気にしなくていいわよ。お母さんたちこそ、急なことばっかりでごめんね。それよりお友達とご家族に、ちゃんとお礼言うのよ?』

「うん。かならず明日帰るから」


 母の優しさが胸にいたかった。こんな裏切り方をしておきながら、母はそれを責めもせず、娘の行動をうたがうような事も言わないのだ。


 茜音はいっそ自分を責めたてて欲しいと思った。頭ごなしにしかって欲しかった。母を裏切るにあたいする嫌悪けんおを感じたかった。あるいは頑なにならざるを得ない愛情にさらされたかったのかもしれない。


 けれど母は、どこまでも彼女のあいする母で。

 今まさにこの髪を撫ぜるように『おやすみ』とげて通話を終えてしまった。


 茜音はしばらくの間、スマホを耳にあてがったまま立ち尽くしていた。

 娘のいない家の中で、母とその恋人が過ごす蜜月みつげつのときを想った。


 明日、家に帰ったら、自分の居場所がなくなってはいないだろうか。

 母と二人過ごしてきた空間が、すっかりあの人にうばわれてはいないだろうか。

 あるいは自分がとびだしていったように、家の中がもぬけのからになっていたら?


 茜音はおもい嘆息とともに、それらの想像をり払った。すべて悪い妄想だと解っていた。

 たとえ今回のことで親子の関係に微妙な軋轢あつれきが生じたとしても、娘を捨てるようなまねをする人ではない。こんな事を考えること自体が、母への裏切りだ。

 茜音は己の卑屈ひくつさを叱咤しったしスマホをしまうと、今晩の宿について考えようとした。


「あっ……!」


 だがそれ以前に、煙草の女を放置しているのを思い出した。


「あれ?」


 ところが、茜音が見上げたのは、夜の空白だ。女の姿すがたはすでにない。煙草のいにおいばかりが、いっそう濃く辺りを揺曳ようえいして感じられるばかりだ。


 あらためて彼女に礼を言いたかったが、スーツ男のことを思い返すと、夜のまち彷徨さまよう勇気もなかった。

 仕方がないと茜音は肩をおとした。

 そして母についてしまった嘘をいっそう後悔した。家出も嘘も、あやまれば結局は許されるのだろうけれど。どんな顔で母と向かい合えばいいのか解らなかった。


 茜音はふたたびスマホを取り出して、やはりすぐにしまった。薫にも嶺亜にも、急に家に泊めてくれなどと言ったら心配されるに決まっている。

 だからと言って、ネットカフェやカラオケに行っても、身分みぶんを求められれば夜を明かすことはできそうにない。


「ああ……」


 茜音は途方とほうに暮れた。

 そうして、いつの間にか星のまたたきも翳った、長く縹渺ひょうびょうとした夜を見上げた。


 やっぱり家へ帰るのが一番だよね。

 あそこが、あたしの居場所だもん。


 そう言い聞かせながら目を伏せた。

 逡巡しゅんじゅんは空の間隙に押しこめて、爪先を帰途きとに向けた。


「……九条さん?」


 そう呼ぶ声は、だから夜の風が聞かせるなぐさめのようで。

 ふり返るとそこに、コンビニの袋をげた永田裕司が立っていた。

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