三章 三人の監視対象

死神グリム・リーパー〉には、学校へ通った記憶がない。十歳で〈虚無エンプティ〉として覚醒した彼は、その後、義務教育を終えることもなく、表の世界から姿を消した。


 白犬ホワイト・ドッグによる教育は、独房どくぼうまがいの密室の中で施された。モニタと向かい合って講義を受け、ⅤRヴァーチャルリアリティを応用した模擬戦闘訓練を行うのが、彼の日常だった。


虚無エンプティ〉同士どころか、人間と実際にコミュニケーションをとる事ができたのは、実戦配備された後のことだ。それも機械的なやり取りか、あるいは「化け物」だの「人の形をしたいぬ」だのと罵倒ばとうされるのが常だった。


 学校というのは、その点異質だ。

 大きな箱のなかに、大勢の、それも生身の人々が詰め込まれている。教室単位で見ても、およそ三十人が同じ空気を吸い、感情と感情を交錯こうさくさせ、ケラケラ笑いながら本音を韜晦とうかいしている。


 あれをやれ、これをやれと居丈高に命令する者はなく、顔を合わせただけで罵倒してくる者もない。

 むしろ、阿諛あゆするようにすり寄ってくる者ばかりが目立つ。

 座した〈死神グリム・リーパー〉の周りには、小さな人だかりができていた。


「ねぇねぇ、永田くんってさ――」


 永田ながた裕司ゆうじ

 それが〈死神グリム・リーパー〉に与えられた仮の名だ。

 物珍しい転校生をまえに、クラスメイトたちは「永田」、「永田くん」、「永田裕司っていうんだよね?」と、とにかく名前を連呼れんこし、至極しごくくだらない事ばかりを訊ねてきた。


死神グリム・リーパー〉は聞き取れるすべての質問に柔和にゅうわな笑みで答えた。声音も抑揚よくようない冷徹なそれでなく、あくまで穏やかに応じた。白犬ホワイト・ドッグによって刷りこまれた処世術を用いる機会がようやくめぐってきた。


「朝っぱらから大変やねぇ」


 予鈴が鳴り、野次馬たちがそそくさと自分の席へ戻っていったあと。

 正面の席で大人しく本を読んでいた少女が、とつぜん振りむいた。

 肩でみじかく切り揃えられた髪がゆるやかに弧を描き、値踏みするように細めた双眸そうぼうが眼鏡の奥にきらめいた。


「いやいや、べつにそんな事ないよ。むしろ、みんなが話しかけてくれて安心した」


 無論、嘘だった。安堵の情感などとうに忘れた。


「ふぅん。永田くん、優等生っぽいねぇ」

「全然。それはそうと、君は……」

「ああ、自己紹介まだやった。ウチ、西園寺さいおんじ。西園寺かおる。よろしく」

「よろしく西園寺さん」


 微笑を返しながら、無意味なやり取りだと思った。

 西園寺薫は、〈紫煙スモーカー〉がマーキングした宿主候補――監視対象の一人だ。

 三年前まで滋賀県に住んでいたこと。三人姉妹の末っ子であること。趣味が読書であることまで調査済みだ。


 だが、文字の羅列られつを読み取るのと生身の相手と接するのとでは、大きく印象が異なる。


 こちらが穏和に接しても、薫は微笑ひとつ返さない。

 その点、〈虚無エンプティ〉的な素質をそなえていると言える。

 しかし極端に感情の起伏に乏しいかと言うと、そうではなさそうだ。わざわざ話しかけてきたのは、少々積極的に過ぎる。

 そもそも〈紫煙スモーカー〉の話では、候補者と他者のあいだに精神状態の差異は認められていない。既知の性質を参考にしても、あまり意味はなさそうだ。


「なんか分からんことあったら、いつでもいて。ウチ基本ひまやから」


 そう言って薫は、初めてにんまりと笑った。やはり〈虚無エンプティ〉らしくはない。感情的な部分から相手を識別しきべつできないのは厄介だった。


「ほらほら、もう予鈴鳴ったぞ。静かにしろー」

「ヤバ、たけちゃん来た!」


 教師が戸口ここうに現れると、薫はあわただしく正面へ向きなおった。すると教師から「はい、西園寺げんてーん」の声を向けられる。薫は大仰おおぎょうに反りかえって「うげぇ」とうめいた。教室にさざ波のような笑いがはしる。


「んじゃ、授業始めるぞー」


 和やかな雰囲気の中、〈死神グリム・リーパー〉の任務は始まった。



――



 退屈を感じないのは〈虚無エンプティ〉の利点と言えるだろう。

 机に突っ伏して寝息をたてる者、教師の目を盗んでスマホをいじる者、友達と囁き声を交わす者――。

 正面の薫もうつらうつらと舟をぐ中、〈死神グリム・リーパー〉は平然とノートをとり、


「はい、それじゃ今日はここまで」


 午前中最後の授業を終えた。

 すると眠っていた者も、そうでない者も、一斉いっせいに机上の障害物を片しはじめる。教師の抗議こうぎの視線などお構いなしに、各々弁当やパンをとりだしていく姿はいっそ強かだ。

 疲弊ひへいした様子で去っていく教師の後姿を見送っていると、薫の周りに二人の女生徒が近づいてきた。


「よっしゃ、メシぃ!」

「カオちゃん、今日のご飯なにー?」


 ずいぶんと対照的な二人だった。


 一方は、ほとんど金に染めあげられた髪が印象的だ。睫毛まつげまで丁寧に金に染められており、その下の瞳はカラーコンタクトによるものか不自然に大きい。首許のリボンはだらりと垂らし、短いスカートからは眩しい生足を覗かせている。


 もう一方は、溶いた飴のような黒のロングヘアである。リボンも可愛らしくあごのしたに収まっており、膝下とまではいかないもののスカートから覗く腿はわずかだ。化粧気のない自然体の愛らしさは、一目見ただけで「清楚」の二文字を連想させる。


死神グリム・リーパー〉は弁当をとりだしながら、薫を含めた三人の様子を盗み見た。


 彼女たちは、いずれも監視対象だ。

 宿主候補三人が一堂に会したというわけである。


 派手な印象を受けるのが月城つきしろ嶺亜れあ

 清楚な印象を受けるのが九条くじょう茜音あかね


 あの日、避難指示を受けた仲良し三人組は、そろって校舎を逃げだしてきたところを〈紫煙スモーカー〉によって補足された。にもかかわらず、〈黒犬ブラック・ドッグ〉の目撃証言さえ得られていないのが現状だった。


「ねぇねぇ、永田くんも一緒にご飯食べるー?」

「え?」


 隣の席が空いたのを見るや、我が物顔で腰を下ろしたのは茜音だった。猫じみた大きな双眸そうぼうが、まっすぐにこちらを見つめる。


「相変わらずなれなれしいな、茜音っち。ごめん、永田。こいつバカだから許してやって」


 ななめ前の席にどっかと座りこんだ嶺亜が、ニカニカ笑いながら言った。


「えーっ! バカじゃないし! カオちゃんより成績いいもん!」

「なんでウチを巻きこんだ。玉子焼きるぞ」

「いや、ワタシが盗るわ」

「なんでレーちゃんが! いつも分けてあげてるじゃん!」


 三人はかしましいことこの上なかった。〈死神グリム・リーパー〉は永田裕司として苦笑した。


「三人は仲良いんだね」

「もちのろーん」


 嶺亜が答え、茜音からピースサインが返ってきた。

 ふと薫を見ると、彼女は眼鏡の位置をただした。その表面が白くきらめいた。


「我々はさわやか転校生を歓迎する」


 謎めいた宣言があって、嶺亜と茜音の二人が顔を見合わせた。

 直後、三人は〈死神グリム・リーパー〉を囲うように机を移動する。

 心なしか周囲から向けられる男子の視線がするどくなったような気がした。

 男子からの評価はともかく、い流れではあった。監視対象のほうから距離を縮めてくれれば、仕事は格段にやりやすくなる。


 四つの机がぴったり合わさると、茜音がとつぜん挙手きょしゅした。


「はーい! それじゃ、あたし音頭おんどとりまーす!」

「茜音っち、音頭ってなによ。酒の席でもあるまいし」

合掌がっしょうちゃう?」

「そうそう! さすがカオちゃん」

「やるなら、はよやれー」


 茜音は外見こそ優等生然としているが、内面はそうでもないようだった。ただのお調子者。あるいは単なる馬鹿だろう。

 嶺亜は協調性に富んでいるようだ。

 薫は嶺亜に近しい性質を持っているようにも思えるが、密かに場をコントロールしているようにも感じられる。


 報告書には、なんと記載きさいすべきだろうか。

 監視対象の三人は、感情の起伏に乏しいどころか、いずれも我が強そうだ。〈黒犬ブラック・ドッグ〉の発現媒体となる絶望や憂鬱が、極端に精神領域を占めているようには思われない。


「それでは、お手を拝借はいしゃく!」


 思案しあんの海に浸った〈死神グリム・リーパー〉を、その声が強引に引き上げた。

 交わった茜音の眼差しは鋭かった。〈死神グリム・リーパー〉は一瞬の判断を迫られ、とっさに彼女と同じ構えをとった。


「よいよい、よいよい、よよよいヨイ!」


 不可解に思いながらも〈死神グリム・リーパー〉はリズムに合わせて手を叩くしかなかった。言い出しっぺの茜音も小気味よく拍子ひょうしを打ち、実に満足気に頷いた。

 一方、薫と嶺亜は不動である。身動ぎひとつなく、眼差しは冷え切っていた。


 判断を誤ったか……?


死神グリム・リーパー〉は二人の反応を危惧した。

 任務に支障がでるとまずい。

 

「……ぷっ、あっはははははははは!」


 ところが間もなく二人は、リスのように頬をふくらませたかと思うと、腹の底から哄笑こうしょうを吐き出した。


「ヤッバ! 永田くんノリ良すぎやん……! 真顔やけど!」

「ハッハ! やった、やりやがったよ! 永田ぁ……マジやばたにえん……ッ!」


死神グリム・リーパー〉は当惑した。

 彼女たちの笑いの意味が理解できなかった。


 純粋に笑みを返すべきか?

 危機を脱したと判断するのは早計か?

 この場に相応しいのは苦笑ではなかろうか?


 手がかりを求め茜音を見れば、彼女はなぜか愕然がくぜんと目を見開いていた。ますます意味が解らない。


「えーっ! ここ笑うとこじゃないでしょ!」

「いやいや、笑うっしょ。永田、おカタいタイプかと思ってたのにさ。ちゃんとやるし、やっちゃうし」

「ホントそれ。ズルいわ、永田くん」


死神グリム・リーパー〉には、やはりこの場を切り抜ける解が見出せない。

 助け舟を求めようにも、真っ先に目が合った茜音から返ってくるのは「最高らしいぜ、永田くん!」と、謎のサムズアップだ。


 彼女たちは、これまで関わってきたどんな人間とも違っている。

 機械的なやり取りはこのまず、不満のはけ口に罵詈ばり雑言ぞうごんの雨を降らせるクズでもなさそうだ。


 マニュアルでは対応不可能、未知数みちすうの存在である。


 だが、彼女たちのいずれかが、あるいは全員が〈黒犬ブラック・ドッグ〉の力を飼っているのは疑いようがない。


 より慎重に任務へ臨まなければ。

 そう自戒したとき。

 突如、スマホが震えだした。

 ポケットから取り出してみると、表示された名は「母」だった。

 無論、本物の母からの連絡ではない。


紫煙スモーカー〉からの緊急連絡エマージェンシーだ。

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