第17話 食べてください!(2)
「沙雫、おばあちゃんの家までおつかいに行ってくれるかしら」
朝起きていきなり、母から言われたのはその言葉でした。いえ、いいんです。昨日も言っていたとおり、わたしにはなんの予定もありませんから。もうしぶったりはしません。二つ返事で頼まれましょう。
「いいですよ。今日もパンですか?」
「そうね、パンももちろんだけれど……今日は葡萄酒も持っていってほしいの」
「そうですか。……で、それはどこにあるのですか?」
あたりをきょろきょろと見回します。いつもおつかいに持っていくバスケットがテーブルの上にあったので、それに目をやりました。とことこと寄っていって、バスケットの中を覗きます。
……おや?
「お母さん、バスケットの中にはパンしか入っていませんよ」
そう言いながら振り返ると、そこには笑みを浮かべて立つ母がいました。……なんでしょう、その笑みは。
「そうね。見てのとおり、今、葡萄酒を切らしちゃってるのよね。だから沙雫、悪いんだけれど、今日は街まで行って、葡萄酒を買ってからおばあちゃんの家まで行ってくれる?」
絶句です。いえ、わたしだって普通だったら喜んでお買い物に行きますよ。……でも、ここは田舎なんて言葉じゃ生ぬるい森の中です。街まで行くのに、数時間汽車に揺られなければいけません。しかも、街は南の方角へずっと進んだところにあり、祖母の家は北の方角へずっと進んだところにあります。……つまり、正反対の場所に位置するわけです。今から街へ行ってお買い物をして、それから祖母の家まで向かうなんて……ちょっとした旅行みたいなものですね。
「沙雫、お願いできるわよね」
「……ええと、あの、お母さん?」
「お、ね、が、い、できるわよね?」
ぐっ。
「……はい、もちろんです」
母の笑顔はとても怖いです。ええ、そりゃあもう、狼さんなんか比にならないくらいに。だから、おとなしく言うことを聞くにこしたことはないのです。それで家庭の平和が守られるならば、これくらいなんのそのですよ。……少しばかり、溜め息が漏れてしまいますけれど。
「それじゃあ、行ってきます」
「気をつけてね」
きっと帰宅は夜になるでしょうね。
赤いポンチョをはおり、赤いベレー帽をかぶって、家を出ました。汽車に乗り込み、街に向かうあいだお昼寝をします。しかし、なんだかんだでぐっすり眠ってしまっていたようで、機関士さんに起こされたときには、もう終点である目的地の街に到着していました。きちんとお礼をし、汽車を降ります。
久々に来た街は、とっても活気に溢れていました。目的は葡萄酒だけですが、街に来ることもめったにありません、せっかくなのでいろんなお店を回っていきましょう。
雑貨屋さんに、洋服屋さん……ああ、アロマキャンドルのお店なんていうのもできたんですね。あっちにはケーキ屋さんがあります。向こうには新しい喫茶店もできていますね。ペットショップにネイルサロンまで。
……ふふ、なんだかとっても楽しいです。家にいたら、きっとしょんぼりとしてしまっていたと思いますが……こういうところに来れば、自然と元気も出てきます。来てよかったです。
だいたいのお店を回り、最後にいつものお店で葡萄酒を購入しました。たくさん歩いて喉が渇いたので、生絞りジュース専門店でとってもおいしそうなオレンジジュースも買って飲んでしまったのですが……これは母には内緒です。無駄遣いしたとバレないように、ジュースのレシートだけはこっそり捨ててしまいましょう。
ふと空を見上げます。さっきまで晴天だったのに、いつの間にか灰色の雲がそのほとんどを覆っていました。雨が降るのでしょう。そういえば、今日は傘が必要だと朝の天気予報で言っていたのを、今頃になって思い出します。まずいです、傘は持ってきていません。急いで祖母の家へ向かわなければ。
よいしょ、とバスケットを持ち直して、駅で汽車を待ちます。風が冷たいです。もうそろそろ本格的な冬がやってくるのでしょう。ぴりぴりと頬が痛くなってきました。震えながら待っていると、ようやく汽車が汽笛を鳴らしながらやってきました。がたんごとん、がたんごとん、きぃーっ、と停まります。乗り込み口が目の前に来て、さあ乗り込むぞと前へ一歩出た、そのときでした。
「……あ、」
一組の仲睦まじいカップルが、汽車から降りてきます。
わたしはその二人を、無意識に見つめていました。彼女さんのほうは、彼氏さんが大好きなのですね。腕を絡めてぴったりと寄り添っています。彼氏さんもずいぶんと幸せそうな表情で、その彼女さんを優しく見つめていました。
「ねえ、本当によかったの? あなたのことだから、他に予定があったんじゃない?」
「予定なんてないよ。……あるのは、君と会うってことだけ」
「わあ、嬉しい! ありがとう、大好き!」
そんな会話が聞こえてきます。通り過ぎていった幸せそうな二人を、わたしは振り返ってまで、いつまでも、じっと見ていました。
うらやましかった。彼女さんは美人だし、彼氏さんは格好よくて。とってもお似合いだと思いました。
本当に、本当に。他の誰よりも、お似合いの二人だったんです。
――わたしが隣にいるときなんかとは、全然比べ物にならないくらいに。
彼氏さん。……わたしの、彼氏さん。
あんなに優しげに笑うんですね。知りませんでした。わたしと一緒にいるときは、ぼーっとしているか、スマホをいじっているかで、あんなふうに楽しそうに笑っているところなんて……見せたことがなかった。
「…………」
これが現実です。これはおとぎ話や童話じゃない。いつまでも夢を見ていたって、しかたがありません。現実なのです。
言っていたじゃないですか。ひなたも、大神さんも、巨乳ちゃんだって。みんなの話を聞かずに、そんなの嘘だと振り切って、見えないふりをしていたのはわたしです。とっくに気づいているのに、知らんぷりをした。わかっていたのに、知ろうとしなかった。でも、そうやって逃げれば逃げるほど……自分で自分を傷つけていたのですね。笑っちゃいます。今頃になってそんなことに気づいたって、もう遅いのに。
ぐっ、とくちびるを噛み締めます。ひなたがやっていたみたいに。ひなたみたいに強くなれるように。涙は流しません。流すもんかと、必死に堪えて、空を見上げました。
ぽつ、ぽつ。冷たい雨が頬を濡らします。間もなく、ざあっと降ってきた雨に打たれながら……わたしは、一人静かに汽車へと乗り込みました。
……早く祖母の家に行かないと、パンが湿気てしまいますから。
汽車に乗ったあとは、ずっと窓の外を眺めていました。ただひたすらに風景を見て、考えないように、考えすぎないように。……そうしていたら、あっというまに目的の駅へ到着しました。
バスケットを抱え、汽車を降り、次は祖母の家まで続く森の道を、傘も差さずに、一人寂しく進んでいきます。
歩いて、歩いて、ずっと歩いて。
……どのくらいがたったでしょうか。到着した家のドアの前に立ち、とんとんとノックをします。
「はい」
声が聞こえました。ドアが開くのを待ちます。
きい、と音を立てて、その木の扉はゆっくりと開いていきました。
……そして、目の前に立つその人は、わたしの顔を見るなり驚いたように目をまあるくさせ、言ったのです。
「……どうしておまえがここに?」
大神さん。大神さん。
彼の顔を見た瞬間。……今まで堪えてきたものがいっきに溢れ出しました。
バスケットを抱えたまま、雨に打たれて、子どものようにわんわんと泣きます。雨なのか涙なのかもわからないほどに、わたしの頬はびっしょりと濡れていました。
状況を飲み込めない大神さんは、初めは呆然とわたしのことを見ていましたが……とりあえず中へ入れ、と家の中へと入れてくれました。
木の椅子に座ると、背中にふわふわのブランケットをかけてくれます。ポンチョと帽子はラックにかけてくれて、わたしの髪の毛をタオルで拭いてくれました。少し手荒でしたが、それが大神さんらしくて……わたしは、ほっとしたのです。
そのあとに、あたたかなポタージュスープを出してくれました。聞けば、これは大神さんの手作りなんだとか。ケーキやクッキーが作れる時点でだいたいはわかっていましたが、料理もできるだなんてすごいです。
暖炉で暖まっていると、だんだん気持ちも落ち着いてきました。
ほっと息をつき、大神さんを見ます。
「……突然すみませんでした。ありがとうございます」
「いや、……かまわない」
小さく片手を挙げて返事をします。目も合わせず、たった一言だけの不器用な返事は、なんだか本当に大神さんらしいです。
大神さんは、わたしが泣きながら家に押しかけても、なにも訊いてきませんでした。ただずっと隣にいてくれて、ごつごつした大きな手でわたしの頭を撫でてくれました。……そんなあたたかさに、わたしはまた泣きそうになってしまいます。ポタージュスープをいっき飲みして、涙をぐっと堪えました。
「……とってもおいしいです」
「それはよかった」
「今日はレモンティーじゃないんですね」
「来るたびに出していたら、おまえが文句を言いそうだからな」
「なんですかそれ。ひどいです。わたしは出されたものに文句は言いません」
「このあいだ言っていたぞ」
あれ、そうでしたっけ? そうだったかな? そんなことはないと、思うのですけど……。
考えていると、大神さんはくすりと微笑みました。それから椅子から立ち上がり、飲み干したカップを持ってキッチンへ向かいます。
「飲み物を持ってくる」
「あ、お構いなく。……レモンティーですか?」
「おまえが飲みたいと言うのなら持ってきてやる」
じゃあ、お願いします。
なんだかんだ言いつつも、わたしはやっぱり大神さんのレモンティーが好きなのです。
大神さんの姿が見えなくなり、わたしは、ふっと息を吐きました。
……やっぱりちゃんと言うべきですよね。なにがあったのか訊いてはこないけれど……彼のことだから、きっと心の中では、どうしたのかと心配してくれているはずですから。
……そうです。言わなくちゃいけません。
わたしはぐっとこぶしを握りました。
大神さんがキッチンから戻ってきて、湯気のたつマグカップをテーブルにふたつ置きます。ああ、甘酸っぱい、いい香りです。大神さんはやっぱりレモンティーがお似合いです。
「ハニーレモンティーだ。たっぷり甘くしておいてやった」
おお、それはどうもありがとうございます。以前、わたしが「甘いほうが好き」と言ったのを憶えておいてくれていたのですね。
マグカップにそっと口をつけます。ふわりと、はちみつの香りが鼻腔をくすぐります。とろける甘さに、喉の奥がかあっと焼けるように熱くなります。
甘くて、優しくて。
このままこの時間に溺れていたくなる。
……でも、それじゃだめだから。
……言わなくちゃ。
わたしは心に決め、静かにマグカップをテーブルに置きました。そして、レモンティーを飲む大神さんを見つめます。……不思議そうな目で、わたしを見つめ返してきます。
すごく……とっても緊張しますが、わたし、言います。
息をすうっと吸い込んで、大きな声を張り上げました。
「大神さん。――わたしを、食べてください!」
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