第18話 さようなら、オオカミさん
人間、もうどうとでもなれと思えばなんだってできるのですよ。わたしだってそうです。当初はこんなことを言うつもりなんて微塵もなかったのです。本当は……本当のことをすべて話して、「大変だったな」と、「頑張ったな」と、そう言って慰めてもらえるだけでよかった。
だけど……不思議ですね。大神さんに会ったら、いっそのことそうなっても構わないと思ってしまったのですから……なんていうか、勢いって怖いですね。
「……いや、なんだかものすごく他人事のように言っているが、全部おまえのことだぞ」
「わかってますよ、そんなの」
服にかかったレモンティーをタオルで拭き取りながら、鼻をふんと鳴らします。
びっくりしましたよ。わたしの突然の「食べてください」に驚いた大神さんが、飲んでいたレモンティーをいきなりわたしに向かって吹き出したのですから。いや、もう、ほんとにめちゃくちゃ驚きました。一瞬、外の大雨が家の中にまで吹き込んできたのかと思いましたよ。
……うん、まあ、飲み物を吹き出してしまう気持ちはわからないでもないですが。
「あのなあ……おまえ、おかしくなったんじゃないか」
「ひどいです。おかしくなんかないですよ」
「いや、おかしいだろう。一体なにを言い出すんだよ……」
「なにって、だから、『わたしを食べてください』と、」
「食べ……っ! ……いや、いい、それはもう、さっき聞いた……!」
だから何度も言うな、とでも言うように、大神さんは大きなてのひらをわたしに見せてきます。なんですか、わたしがこんなことを言うのは変ですか。まあ、確かにこんなせりふは今まで生きてきて初めて言いましたけど。たぶん、もう二度と使わないでしょうね。わたしは他の誰でもなく、大神さんだけに、この体を食べてほしいんですから。
「訊かずにいようと思っていたが、そんなことを言い出すからには訊いてもいいんだな? ……おまえがあんなふうに泣いていた理由を」
「それは……はい。すべてしっかりとお話しします」
こくり、と首肯します。そのつもりで、ここへ来たのですから。
わたしは静かに息を吐き、呼吸を整えました。……そして、ゆっくりと話し始めたのです。
「……わたし、失恋しちゃいました」
わたしの彼氏さんは、やっぱりみんなの言っていたとおりの人でした。
あの人は、最初からわたしの王子様なんかじゃなかった。
夢でした。幻でした。わたしが人魚姫だったら、泡になってとうに消えているはずです。……ううん、そのほうがよっぽどいい。だって今、こんなにもつらいのは……耐え切れないから。
おかしいですよね。ほんと、笑っちゃいます。
好きと言ってくれたのも、わたしの世界を認めてくれたのも、全部うそ。
きっと彼氏さんは、わたしのことが鬱陶しかったに違いありません。彼は遊びのつもりだったのに、わたしがこんなにも本気になってしまうものだから……さぞ面倒な女だと思われていたことでしょう。
バカですよねえ。本当に、バカです。
今までなにもかも騙されていたんだと思うと……なんだかとっても悔しくて。同時に、どうしてみんなの忠告を素直に受け止め、聞くことができなかったんだろうと思うと……なんだかとっても申し訳なくて。
ぽたぽた、ぽたぽた。涙がとめどなく溢れ出てくるのです。
今でも目を瞑れば、あのときの光景が鮮明に思い出されます。
彼氏さんの隣にいた人は、派手で、明るくて、わたしとは正反対の女の子でした。きっと商業科の生徒でしょう。巨乳ちゃんが言っていたのだから間違いはないはずです。ひなただって、彼のああいう姿を何度も見たと言っていました。大神さんも言っていましたよね。彼氏さんは、わたしのことを好きじゃないって。
全部、全部、そうだった。
わたしってば、本当に間抜けですよね。人には偉そうにああだこうだと言うくせに……自分がこうなれば、どうしていいかわからなくて、泣いてばかりで助けを求めて。ああ、恥ずかしいな。なんでこうなんでしょうね。自分に嫌気がさします。
初めての恋は、あっけなく散りました。
恋がこんなに傷つくものだなんて知らなかった。
おとぎ話の世界では、みんな幸せそうだったから。
恋の苦味も、酸っぱさも……わたしはもう、知っています。
……でもね、ひとつだけ。たったひとつだけ、いまだに不思議だなと思うことがあるんです。
つらくて、悲しくて、苦しくて……なにもかも嫌になって、目の前が真っ暗になってしまった、あのとき。
ねえ、なんででしょうね。本当に不思議です。
いちばん最初に思い浮かんだのは――大神さんの顔でした。
大神さんに会いたい。大神さんに触れたい。大神さんに抱き締めてもらいたい。
そんなふうに思ってしまったのです。
それから、ここまで来るのにはほぼ無意識でした。足が自然と大神さんの家へ向かっていたのです。雨の降る薄暗い森の中でも、道に迷うことはありませんでした。わたしの体は大神さんの匂いを知っているみたいに、まっすぐにここまでやってくることができたのです。
家に着いて、ドアをノックして、そして大神さんが出てきてくれたとき……わたしは思ったのです。
――大神さんに食べられてしまえば、なにもかも忘れることができるんじゃないかって。
「……そういうこと、か」
「……そういうこと、です」
はあっ、と大きな溜め息が聞こえてきます。やっぱり呆れましたか。呆れましたよね。わかりますよ。わたしだって呆れています。本当にどうしようもない。ねえ、大神さんだってわたしのことをどうしようもないやつだと思っているんでしょう。それも、わかるんです。だって、そう顔に書いてありますもん。はっきりとね。
ええ、そうですよ、わたしは鈍感で、小心者で、臆病で。……だけど、だから、大神さんに助けを求めるしかなかった。
あなたに――食べられてしまいたくなった。
「おまえの言いたいことはわかった」
「……はい」
「でも、そんな理由で『わたしを食べてください』なんてふざけた話だと思う」
「なっ! ふ、ふざけてなんかいません! わたし、本当に……っ」
「大体、食べてくださいって、どんな意味で使っているんだ? 俺が思っている『食べる』とおまえが思っている『食べる』は、まったく別のものかもしれないぞ」
ぐう。それを言いますか。
でも、たぶん、……間違ってはいないと、思うのです。
「じゃあ訊くが、おまえはどんな意味で使っている?」
「そ、それは……」
ふい、と大神さんから視線をそらします。ああ、頬がだんだんと熱くなってきました。ドキドキ、心臓が早鐘を打ちます。
だからですね、それは、その……。
「……恥ずかしくて言えません」
やれやれ、と大神さんがかぶりを振ります。
「おまえなあ……」
「で、でも、大神さんがどうしても言えと言うのならば、ちゃんと言います。事細かく、なにをどんなふうにするか、はっきりしっかりこの口で、」
「いや、いいっ、言わなくていい!」
大神さんを見ると、顔を片手で隠していました。隙間から見える頬が真っ赤です。見る見るうちに耳まで赤く染まっていきます。
ほら、やっぱりわたしと大神さんの思う『食べる』は同じだったじゃないですか。大神さんだって、その、そういうことを……考えているんでしょう。
大神さんはマグカップに口をつけ、残りのレモンティーを飲み干します。
「……にしても、あれだな」
「え?」
「おまえ、正真正銘、見紛うことない、まったきのバカだな」
……は?
なんですか、それ。なんなんですか、それ。傷ついている女の子を目の前に、そんな傷口に塩を塗るようなことを言うなんて最低じゃないですか。
これでもわたしは、いろいろ考えて……そりゃあもう頭がパンクするくらいにいっぱいいっぱい考えた上で、意を決してこうやって大神さんに話していると言うのに。
ほんと、最低。最低です。男性としてあるまじき行為です。また泣きますよ。
ぐぎぎ、と涙目で睨みつけていると、大神さんはふんと鼻を鳴らした。
「なぜそういう考えに至ったのか、俺にはまったく理解できない」
「身に覚えがないとでも?」
「当たり前だ。いくら誘惑されたって、俺は心に決めた女しか相手にしない。誰彼構わずそういうことをするような男じゃない」
「……冗談でしょう?」
「冗談言ってるのはおまえのほうだ。いきなり抱けと言われて『はいわかりました』なんて言うと思うか。そんなに俺は、見境なく女と遊んでいるように見えるか」
ええと。ちょっと待ってくださいね。
わたしは目を丸くし、ぱちりとまばたきをしました。
「……そう、ではないのですか?」
大神さんは目を眇め、じいっとわたしを見つめたあとに、
「ふざけるな」
「いたっ」
頭にこぶしを落としてきました。……痛いです。
「本当に信じられんな。おまえ、俺をそんなふうに見ていたのか?」
頭をさすりながら大神さんを見上げます。そんなに怒らないでくださいよ。わたしだって、きちんと考えた上で言っているのですから。なんの理由もなしに、こんな失礼なことを言うわけないじゃないですか。
「それなら理由を言え。俺が納得できるだけの理由をな」
それは、その、だから。
「……だって大神さん、彼女さんがいるのでしょう?」
わたしが森で出逢った、あの野性的で美しい女の人。
……あれはきっと、大神さんの彼女さんに違いありません。
隠そうとしたって無駄です。わたし、わかっちゃうんですよ、そういうの。女のカンってやつです。女のカンはほぼ当たるんですよ。……とっても悲しいことにね。
肩をすくめ、しょんぼりとテーブルに視線を落とします。
「ちゃんとした彼女さんがいるのに、こんなふうに他の女の子を部屋の中に頻繁に招き入れるなんて……慣れていないと、きっとできないことだと思います。わたし以外にも、こういうことをしているんでしょう? わたしは見た目が子どもっぽくて、そういうことをする相手としては物足りないから……すぐには、手を出してこなかっただけで。家に上げた女の人とは、大抵寝ているんでしょう。ねえ、そうですよね。だから大神さんは……たぶん、本当に、オオカミさんなんだと、思うんです」
大神さんは返事をしてくれません。じっと黙ったまま、わたしを焦げ茶色の瞳で見つめています。
……ほら。やっぱりそうなんですね。返す言葉も見つからないってやつですか。……いえ、いいんです。それでもいいと思って、わたしは……大神さんに食べられたいと言ったのですから。
「どうですか、違いますか。あなたは名前だけでなく、本当に狼なのです。
「それを言ったのは古人じゃなくてだな……」
「なにか言いました?」
「いやなんでもない」
……沈黙です。気まずいわけではありませんが、なんとなく視線を合わせにくいものはあります。
大神さんをちらりと見ると、なにやら考えるようにして顎に触れていました。何度も何度も顎をさすり、ずっとなにかを考えています。
そして、少したったのち。うーん、と小さな声でうなったあと、ひとつ息をついてから言いました。
「……なるほど、そういうことか」
自分の中で整理がついたようです。
「やっと納得してくれましたか」
「ああ、話が繋がったよ。どこでどうしてそうなったのか、俺にはさっぱりだったからな。考えるのに苦労した」
そう言いながら大神さんはおもむろに席を立ちます。どこへ行くのかと思っていると、近くの本棚からなにかを手に取り、戻ってきました。その手に持たれていたのは……一枚の写真が入ったフォトフレームです。それを、わたしに見せてきます。
「写真……?」
「おまえが言っているのは、こいつのことだろう」
どくん、と心臓が大きく跳ねました。
そこに写っていたのは――わたしがこのあいだ、森で出逢った女の人。……そしてその隣に寄り添うようにしていたのが、間違いなく、紛れもなく、今ここにいる大神さん本人です。
大神さんはあいかわらずの仏頂面でしたが、女の人はとっても嬉しそうに微笑み、大神さんの腕に絡むようにして抱きついていました。
……ああ、お似合いです。やっぱり思ったとおりです。
あの人は、大神さんの彼女さんだったのですね。
なんですか、ずいぶんと幸せそうな顔をしているじゃないですか。仏頂面でもわかります。二人は仲がいいのだと。わたしが入る隙なんて……一ミリたりともないのだと。
こんな写真を見せられたら、もうなにも言えないじゃないですか。『大神さんに食べてもらう』? とんでもない。この二人の関係を壊すなんて……わたしには、もうできません。
……そうです。彼にこんな素敵な相手がいるのなら。
――わたしはもう、大神さんに会うべきではありません。
「……もう、いいです」
「え?」
「もういいです。もう大丈夫です。いろいろと変なことを言ってすみませんでした」
席を立ち、深く、深く、頭を下げます。……ずっと待っても、大神さんはなにも言いません。わたしは頭を下げたままに、言いました。
「……今日で、あなたに会うのは最後にします」
ちょっとのあいだ口を結び、大神さんからの返事を待ちます。それでもやっぱり、彼の声は聞こえません。なにを言う気にもなれないのかもしれませんね。仕方ありません。当然です。……わたしは、そのくらいのことをしてしまいましたから。
「今までありがとうございました。これでお別れです」
言って、そっと頭を上げると、大神さんがまっすぐな瞳でわたしを見ていました。その目は、まるで……獲物を狙う狼のようで。その視線から目をそらせなくなります。
少しして、ずっとかたく口を結んでいた大神さんは、そっと声を出しました。
「お別れ、か」
「はい。お別れです」
「前にもこんなことがあったな」
「今度は本当にお別れです」
「あのときは、次の日におまえからここへ来たんだったな」
「あのときはあのときで、今は今です」
「そうか」
「そうです」
再びの沈黙が二人を襲います。大神さんはただひらすらに、じっとわたしを見据えていました。
でも、わたしは。……見ることができません。彼を、大神さんを、わたしは見返すことができません。なぜでしょう。理由はわかりませんが、今、彼を見てしまえば……きっと涙が溢れて止まらなくなってしまう。どうしてか、わたしはそう思ったのです。
「わたし、勘違いしていました。大神さんは、ほんの少しはわたしを気に入ってくれているのだと、勝手に思い込んでいました」
……だけど、それは違ったのですね。
「大神さんのそれは、好意ではなく厚意だったのですよね。なにを思い違っていたのでしょう、恥ずかしいです」
「…………」
「もう会うことはありませんが……大神さん、どうぞお元気で」
言い残し、大神さんに背を向けます。扉の前まで歩いていき、……少しだけ、立ち止まりました。
ああ……わたしったら、なにを期待しているのでしょう。自分から別れを告げたくせに。自分から身を引こうと思っているくせに。
この期に及んで――今さら、大神さんに引き止めてもらいたいなんて。
そんな虫がよすぎる話……あるわけありません。どうせ、大神さんだって、彼氏さんとおんなじで……わたしのことなんてどうでもいいんだから。
ぐっ、とくちびるを噛み、ドアノブに手をかけます。それを、そっと引きながら……わたしは震える声で言いました。
「……さようなら」
さようなら。
もう会うことのない、わたしの、たった一人の、狼さん。
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