第19話 大神さんなんてもう知らない(1)
「勝手なことを言うな」
「え?」
開けたドアが、突然ぱたりと閉まります。木製の茶色い扉には、ひとつの大きな人影が映っていました。その影をたどって徐々に上に視線をずらしていくと、今度はごつごつした手がドアをしっかり押さえているのが見えます。
これは……そう、大神さんの手ですね。
「自分勝手すぎるだろう」
と、言いますと?
「もういいだとか勘違いだったとか……勝手に自己解決して一方的に別れを押しつけて俺を無視して出ていこうとするな」
それはまるで狼さんが唸るような……とても低い声です。淡々と発せられる言葉のひとつひとつが、ずしりと胸にのしかかります。
あれ。ていうか、あの、ええと。
……もしかして、怒ってます?
「少しは俺の話を聞け。独断で物事を決めるな。はっきり言わせてもらうぞ。おまえのその考えは九分九厘間違っている」
九分九厘ですって?
思わず眉根を寄せます。だって、そんなわけはありません。ありえませんよ。
「間違ってなんか――!」
わたしは勢いよく大神さんを振り返りました。
すると、間近にどんと立つ巨大な体がありました。思わず言葉を止め、そろりと見上げていくと……ぐぐぐと眉間にしわを寄せた大神さんが、鋭い瞳で睨むようにわたしを見ていたのです。
ひい、怖いです! まるで鬼です! 狼さんというより鬼のようです!
……いえ、でも、わたしも負けていられません。
こぶしを握り、気合を入れ、わたしははっきりと言ってやります。
「なにが間違っていると言うのです。その写真の綺麗な女の人は、大神さんの彼女さんなのでしょう? ねえ、それは間違いありませんよね。いまさら違うだなんて言いませんよね。そんなうそは見苦しいです。それくらいわたしにだってわかるんですから!」
「うそをつく気は毛頭ないが、一応聞いてやる。どうしてそう言い切れる?」
「大神さん、女のカンをなめないでください!」
負けじと大神さんを睨み返します。至近距離で、火花が散るほどに交わる視線。互いにそらすことなく、じいっと睨み合います。
そのまま数十秒がたったとき。その沈黙を破ったのは……大神さんでした。
「女のカンね。はっ、笑わせてくれるな」
「……なんですって?」
「おまえが言うその『女のカン』とやらは大したことがないらしい」
なっ!
「なぜです! どこからどう見たって、その写真のお二人は……あなたと彼女は、愛し合っているもの同士じゃないですか! 大神さんだって、赤の他人には絶対に見せない表情をしています! その女の人だって、そんなに幸せそうに笑って……なのに、それなのに、どこが違うと言うのですっ!」
「ああ、違うね。まったく違う。全然かすってもいないな」
「この期に及んでうそをつかないでください! 見苦しいです、不愉快です!」
「不愉快なのはこっちだバカ」
ば、バカ!? 今わたしのことをバカと言いましたか!? 言いましたよねはっきりと!
わたしはバカと言われるのがいちばん嫌いなんですよ。ほら、人間って本当のことを言われるのを嫌うでしょう。太っている人に「おデブさん」と言ってはいけないのとおんなじです。それです。
……とにかく。本当に頭にきますよね、大神さんってば。マジでムカつきます。なんなんでしょうこの男は。体ばっかり大きい大ぼら吹きのわからずやです。
こぶしがぷるぷると震えます。今にも殴りかかりたい衝動にかられますが……いけません。落ち着きましょう、わたし。いったん深呼吸です。吸って、はいて。吸って、はいて。……よし、オーケーです。
「……では、なにがどう違うのか、おバカさんなわたしにもよおおおおくわかるように説明していただけますか?」
「いいだろう、三秒で説明してやる」
ふん、ずいぶんと自信がおありなんですね。
いいでしょう、聞きます、言ってください。
大神さんはドアから手を離し、背筋を伸ばしてわたしを見下げます。
……そして写真を指差しながら、はっきりとした声調で、こう言ったのです。
「――こいつは、俺の、実の姉だ」
あっはっはー! ほーらね! やっぱりわたしの言ったとおりです!
わたしの考えは間違っていませんでしたね、だからわたしは最初からそう言っていたんですよ、だってこんなの一目瞭然じゃないですか、誰にだってわかっちゃいますって、この人は大神さんの実の姉って、
……え? ジツノアネ?
「あれ、あの、ちょっと待ってくださいね、ええと、おかしいな、理解が追いつかない、……今なんて?」
「だから、こいつは俺の姉貴だ。血の繋がっているきょうだいだ」
……きょうだい。
「こいつって、この写真のおかたが、ですか?」
「そうだ」
「この綺麗なお姉さんがですか? 大神さんのお姉さまですか?」
「綺麗かどうかはわかりかねるが、まあそうだ」
えええええ!? うそでしょう!? うそですよね!? うそと言ってくださいお願いだから!
なんでしょう……精神的な衝撃がすごいです。頭を鈍器でぶん殴られた感覚です。だって、あまりにも……驚いてしまって。開いた口がなかなかふさがりません。この人が、大神さんのお姉さま。ああ、うん、でも、確かにこの目もとなんかそっくりですね……。瞳も、おんなじ焦げ茶色です。言われてみれば、なんとなく顔立ちも似ている気がしないでも、ないような。
……でも、まさか、実のお姉さまだったなんて。
「あ、ありえません」
「本当の話だ」
「こんなことがあっていいのでしょうか」
「あるのだから仕方ない」
「そもそもその話を鵜呑みにしても問題ないくらいに大神さんは信用に値する人間でしょうか」
「……おまえ、それを本人の目の前で言うか?」
大神さんが呆れた表情でこちらを見ます。
うん、まあ、それもそうですね。あまりにも驚いているので自分でも言っていいことと悪いことの区別がつかなくなっているようです。それくらい混乱しています。
……まだ事態を把握しきれません。ああ、でも、もしこれが本当の話なら……わたしはとてつもなく大きな勘違いをしていたということになります。
だって、実のお姉さまのことを、あろうことか、よりによって、事もあろうに、わたしは、わたしったら――大神さんの恋人だと思っていたのですから!
うう、恥ずかしいです。早とちりもいいところです。認めたくはないですが、これじゃあバカと言われても仕方ありません。そうです、こんなの正真正銘のおバカさんです。何度も何度もお姉さまのことを彼の恋人だなんて言ってしまって……本当に顔から火が出る思いです。あまりに恥ずかしくて大神さんと目を合わせることができません。ああ、見ないでください、そんな目でわたしを、わたしのことを……。
「納得したか」
「ええ、まあ、そうですね……だいたいは……」
「あまり納得していないようだな」
「し、してますよ。してますけれど」
まだなにかあるのか、とでも言いたげな目つきで見てきます。当然です。言いたいことなんて山ほどあります。なぜ今まで黙っていたのかとか、なぜ初めから姉がいると教えてくれなかったのかとか、だからこんな恥をかくはめになったのだとか。挙げればきりがありません。
……でも、それは、ただのわたしの言い訳で。ちゃんとわかっているんです。すべては、わたしの早とちりが原因だから……大神さんへの小言は、胸の内にしまっておくべきだって。
「なにが不満なんだ」
「不満なんてないですよ、お気になさらず」
「ものすごく不服な顔をしているが」
「なにを言いますか、わたしは元からこういう顔です」
「俺への文句は今しか受け付けないぞ」
「いえ、そんな、わたくしめなぞが大神さんに対して文句なんてあるはずが、」
一瞬、考えます。
「……あとから言ったら、どうなりますか?」
「鉄拳制裁だ」
ひい。それは嫌です。絶対に。
彼には数回こぶしで小突かれたことがありますが、大神さんにとっては軽くこつんとしているつもりでも、わたしにしてみればハンマーを振り降ろされているのと同じですからね。めちゃくちゃ痛いんですよ。大神さんのこぶしは、ほぼ凶器です。
「言いたいことがあるなら今言え」
「べつに……本当に、ないですよ。……でも、ひとつだけ」
どうしても気になっていること。
……聞いても、いいでしょうか。
「その写真、なんですが」
「ん、これか?」
大神さんが写真を持つ手を上げます。
そう、それです。
「普通、実のお姉さまと写真なんて撮りますでしょうか。それもツーショットで。……そんなに、仲良さげに」
腕を絡めていますよね。こう、ぴったりと寄り添って。
……まるで恋人同士みたいに。
「これは……姉貴がどうしてもと言うから」
「どうしても写真が撮りたいと?」
「この日は俺の誕生日だったんだよ。記念だからって……毎年、撮らされてる」
「なる……ほど……?」
「おまえ、信じていないな? 本当だぞ。年齢と同じ枚数の写真がちゃんとある。それが証拠だ。……見たいと言うなら、見せてもいいが」
「え、本当ですか?」
ちっちゃい大神さんを拝むことができるんですか。なんですかそれめちゃくちゃ気になります。どうせ毎年おんなじような仏頂面が並んでいるんだろうなと想像できちゃいますけど……ちび大神さん、さぞかわいいんでしょうね。考えただけでもニヤニヤしちゃいます。せっかくなので、あとでゆっくり見せてもらいましょう。
「姉貴には本当に困っているんだよ。いくつになっても、姉貴にとって俺は小さい子どものままなんだ」
「嫌なら断ればいいのに」
「それができたら苦労しない。姉貴には、昔から敵わないんだよ。今まで何度泣かされてきたことか……いや、昔の話だ」
ふうん? へえ?
じろじろと大神さんを見ていると、彼は頬を薄く赤に染め、わたしからふいっと顔をそらします。なるほどねえ。こんな見た目をしていても、姉の前ではかわいい弟ってことですか。
わたしは口に手を当て、くすりと笑います。
「弱い狼さんだこと」
「どうとでも言え」
「まあ、いいんじゃないですか。狼さんは基本的に家族で群れるそうですし、間違ってはいないですよ」
「なんだ、やたら狼に詳しいな」
「そうですか? こんなの普通ですよ。……あ、ちなみに狼さんの繁殖は、群れの中で雌雄最上位のペアで行うそうです。ということはですよ、大神さんが狼さんだった場合、群れは雌雄それぞれ一頭ずつなので大神さんのお相手は自然と、」
「おい待てそれ以上言うな」
むぐ、とくぐもった声が出ます。大神さんの大きなてのひらが、わたしの口をふさぎました。
わかった、わかりました、もうなにも言いませんから手を離してください、苦しいです。
「ぷはっ」
「まったく……変なことを言うなよ」
「変なことじゃないですよ。狼さんの繁殖方法を教えてあげただけです」
「それが変なことだと言っているんだ」
大神さんはやれやれとかぶりを振ります。
「それに、黙って聞いてりゃ、さっきから俺をオオカミ、オオカミと……」
「だって大神さんはオオカミさんでしょう?」
「それは……そうだ。だが俺だけじゃない。俺もオオカミなら、姉貴だってオオカミだ」
わたしは目をまたたきました。
……どっちの意味で? と思ってすぐ、はっとします。
そうか、なるほどです。なんとなく、今の会話でわかった気がします。
頭の中でパズルをワンピースずつはめていき、組み立てて。やっとひとつの絵が浮かび上がってきて、答えを徐々に理解してきました。
さあ、答え合わせです。
思い出しましょう。
わたしが大神さんからこの森の狼出没の噂を聞いたとき、大神さんはなんと言っていたでしょうか。確か、「なぜか若い男ばかりが狙われる」と言っていました。そして、わたしが森でお姉さまと出逢ったとき。彼女は誰かを追い掛けていました。そのときに言われた言葉が「細身の若い男の人を見なかった?」でした。
……ほら、すうっと謎が解けていくようです。
わたしは、ふっと笑みを浮かべ、大神さんに言いました。
「お姉さまは、相当遊んでいらっしゃるようですね」
「そういうことだ。家になんてまったく帰ってきやしない。毎日どこをほっつき歩いているんだか。姉貴もいい年なんだから万年発情期をやっていないで、そろそろおとなしく婚活でもしたらいいのに」
大神さんは眉根を押さえ、大きな溜め息を吐きます。
やっぱりそうだったのですね。わたしのカンは、今度ばかりは大正解のようでした。
噂になっている『森の狼さん』。それはどうやら、大神さんのお姉さまのことだったみたいです。
きっと被害を受けた(と言うのが正しい表現なのかはわかりかねますが)若い男の人たちが「襲ってきた女はまるで狼のようだった」……なんて噂を流したのでしょうね。それがいろんな人の耳に届き、伝言ゲームのように不正確な情報として拡散したのでしょう。それで、「この森には狼が出る」なんて話になったのです。
ちなみに、この噂話には、実際に襲ったのは『本物の“オオカミ”さんだった』という最高のオチまであるのですが……まあ、それを知っているのは、きっとわたしだけでしょうね。大神さんもまだ気づいていないようですし。
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