15. 愛しい時間
一週間前の雪が嘘のような晴れ間の広がる昼下がり。古い借家を死神の長は訪れた。がたつく引き戸の玄関を開けると、甘いチョコレートの香りが漂ってくる。
「失礼。班長は御在宅かな?」
「は~い」
おとないの声を掛けると、可愛らしい少女の声が返ってくる。台所からひょっこりと優香が顔を出した。茶色のココアがついたエプロンを身に付けている。
「茶の間にいますよ」
長は靴と帽子を脱いで上がった。途中、台所に入り、エルゼに土産の大福を渡す。
「良い匂いですね」
「ちょっと早いですけどバレンタインのチョコレートケーキを焼いているんです」
古びたガスオーブンからアッシュが焼けたケーキを取り出す。
「こんな中、不謹慎だと思われるかもしれませんが、班長が『日常』でいられるときは、出来るだけ普通に暮らすように、って」
最もそれは、この『家族』の元に小さな女の子がやってきてからの彼等の方針だ。
「いいえ、あんなことがあった後なのですから、『日常』に戻るのは良いことだと思いますよ。それにしても、また優香さんがこちらで暮らせるようになって良かったですね」
再びディギオンを土童神社に封じ込め、二市から退避した後、優香は一端アパートに戻り、兄を説得して、異形の家族と彼等の住む借家で暮らすようになった。
「始めはお兄ちゃん、渋い顔をしてたんですけど、妹と話した後、考えが変わったみたいで」
正樹が下の妹に、優香が異形の家族の元に帰りたがっていることを愚痴ったとき、妹は兄に心底呆れたように言ったという。
『今のこの家にお姉ちゃんの居場所があるって本気で思っているの?』
父も母も優香と暮らすことを考えてもいないというのに。
『お兄ちゃんも解っているんでしょ。お姉ちゃんがそのモウンさんとどうなろうと、うちのお父さんとお母さんが変わらない限り、一緒に暮らすなんて無理だってこと』
お正月の帰り、妹が『お姉ちゃんが、そう思うならそれでいいんじゃない』と言ったのは、優香が『暮らしたい』と思う『家族』で暮らせば良いと、彼女なりに勧めていてくれていたのだ。
その言葉に正樹は『オレはまだ諦めてないからな!』と言いつつも、優香に寂しい思いをさせたことを謝って、一緒にこの家に来て
『オレはなかなか家にいてやれないから、優香をここで皆さんと暮らさせて下さい』
と頼んでくれた。
以前のような明るい、ちょっと大人っぽい顔になった少女に長が微笑む。
「頂いた大福をお茶うけに持っていきますから、先に班長のところにいって下さい」
お茶の支度を始めた三人に、長は茶の間へと向かった。冬の狭い庭が見える薄いガラス戸と縁側のある部屋に入ると
「痛い! 痛いって! 玄さんっ!!」
シオンの声が耳に飛び込んでくる。
茶の間では、水の力を封印し直したシオンの胸の傷に、玄庵が塗り薬を塗った符を貼り付けていた。
「あ、長、いらっしゃい。長からも玄さんに言って下さいよ~。塗り薬と符だけじゃなくて、治癒術も使って下さいって」
シオンが涙目で訴える。そのシオンに更にぺたぺたと符を貼りながら
「全く無茶しおって。二度とこんな馬鹿をやらんように、今回は薬と符だけで治すんじゃ!」
玄庵がまなじりを上げる。
「え~! だって玄さん、結界張ってたじゃないですかぁ!」
「儂を誰だと思っておる! お前の封印を解く余裕くらいあったわ! それなのに……年寄りにあんな思いさせおって!」
茶色の手がペシンと符を叩く。シオンの第一第二触角がピンと立つ。
「だから痛いって! せめてもう少し優しく治療して下さいよ~!」
「やかましい!!」
二人のやりとりに、こちらもお玉と自分に『当分の間は術を使うな』と禁止された法稔が、首をすくめながら薬湯を啜っている。その向こうで武骨な顔をほころばせて眺めているモウンの前に、長は座った。
「班長、具合はいかがですかな?」
モウンが足を見せる。対決のときは足先だけだったという石化は、もう足首まで進んでいた。
「封印解除の術は中途半端なまま、成立することなく終わったと聞きましたが……」
「麿様の自然な解呪に伴う反呪でしょう。麿様がぎりぎりまで、身体が自由に動くようにして下さると、約束して下さいましたが……」
モウンの目が壁に掛かったカレンダーに向かう。そこには三月の初旬に赤い丸がついていた。
「三月五日……」
その日付を長が読む。
「こちらの暦で啓蟄と呼ばれる日ですな。冬眠していた虫が春の陽気に誘われて穴から出てくるという。その日に目覚めると麿様からお告げがありました」
三月五日は魔界の正月の元旦。ディギオンが『土の王』に就任する式典の開かれる日でもある。その日に麿様が目覚めると同時に、反呪でモウンが完全に石と化し、ディギオンが解放される。
「後、
長が唸る。モウンが黙って頷いた。
茶の間に大福とお茶が運ばれ、全員が集まる。
モウンは皆を見回して、麿様のお告げと魔界のバジルからの報告を告げた。
「明玄はディギオンに重傷を負わされ、姿を消したらしい」
ディギオンの気を封じる術に己の魔力が足らず、その代償に命を差し出せと重傷を負わされた後、逃げたという。
「すでに二市にはいないらしい。だが、あの傷では魔界に帰ることも出来ないだろうと麿様が言っておられた」
しかし、そのままでは危険な為、お玉や死神達が行方を追っている。『元一番弟子』の末路に玄庵が目を伏せる。
「今、魔界では『土の老王』がディギオンの行方を探している。そして、ゲオルゲの最後と、当分ヤツと明玄が帰って来られないことを知った、ディギオンの私兵が、ボリス様の元に次々と投降しているらしい」
『土の老王』の怒りに巻き込まれる前にと、今までディギオンがしてきた非道の証言と引き替えに、隷属魔法の解除と保護を求めてきている。更にモウンの窮状を知ったブライが、ボリスを通して、過去の魔王軍防衛部隊第一隊の悲劇、『ニキアス・アンドレウ隊の悲劇』を公表した。
「……義兄さん……」
未だに年に一回はトラウマから寝込んでしまう義兄の覚悟に、エルゼが拳を握る。
「これで、ほぼ奴の『土の王』就任は見送られるだろう。そして、数々の証言を元に、『あの方』とボリス様と父が『土の老王』の完全引退と、ディギオンの処罰を目指している」
「冥界の方も、例の人形に掛けられた呪術から『思慕の花園』を狙った『三界不干渉の掟』でディギオンを告訴することを検討してます」
他世界を支える役割を持つ『要の三界』に干渉することを禁じる『三界不干渉の掟』。破った者はその世界の下僕か奴隷になるという厳しい掟だ。いくら魔界で治外法権を持つディギオンでも、これにはあがらえない。
「前回の事件で『悔恨の頂き』を襲った女侯爵も『三界不干渉の掟』で訴えられ、その代償として、風の領地の砂嵐吹き荒れる城に閉じこめられたからな」
下僕か奴隷になることを免れるには、その世界で厳罰に処されること。彼女は三百年間、そこから出ることは出来ない。
長と班長の話に少し安堵した空気が茶の間に流れる。
「ディギオンを捕縛した後のことについては、様々な方が処分を検討されている。後は……」
残り、一ヶ月弱で奴をこの世界に影響を及ぼすことなく捕まえること。
「俺の『あの方』を通しての頼みはどうなりましたか?」
「デュオス様は御弟子に甘い方ですから、冥王様にすぐに直訴されまして……」
班長の問いに、長がスーツの内ポケットから小さな水の入った小瓶を出した。一見なんの変哲もない透明な水。それに
「長!! それはっ!!」
法稔が目を剥く。
「班長が打ち込まれたディギオンの土気に感じたそうだ。もしかしたらディギオンも明玄と同じではないかと」
しかし、花園の力では影響を受けてなかった様子から、『あの方』の頼みを受けて、デュオスが冥界で最も浄化力の高い浄化地からこれを渡してくれた。
「これは冥界に来る魂の中でも、最も罪深い魂を浄化する浄化地『贖罪の森』の浄化の中心の湖の水です。冥王様とデュオス様の依頼に森の主の姫君が自ら汲み上げ、更に森の浄化の力を込められました」
『これを哀しい人を増さない為に使って下さい』
姫君はそう言って、使いの者に手渡したという。
「玄庵、これで法稔とディギオンの魔力を浄化する術を組んでくれ」
「御意」
玄庵が小瓶を押し頂く。
「俺とアッシュ、シオンは今までどおり、二市の見張りをする。そして……」
モウンはエルゼに目を移し、優しく笑み掛けた。
「エルゼ、お前はもうこの件から引け。出来るときに玄庵と法稔の手伝いをしながら、身体をいたわるように。今まで無理をさせてすまなかったな」
「……はい」
エルゼが下腹に手を置いて頷いた。
「えっ!? エルゼ、体調が悪かったのかい!?」
赤金色の目を剥くアッシュに、その場にいるエルゼ以外の全員から奇異の目が注がれる。
「アッシュさん! 気付いてなかったんですか!?」
驚きの声を上げる法稔の口を
「ポン太は黙ってて!!」
シオンが後ろから塞ぎ
「エルゼ、向こうで教えてやりなさい」
玄庵が勧める。エルゼが頬を染めて、アッシュを連れて襖の奥に消えた。
「そっか、お玉さんの守りの腹帯って、エルゼ姉さんの為だったんだ」
二人を見送り、優香が大福を頬張るシオンに訊く。
「ねぇ、魔族はこういう場合、どっちの子が産まれるの?」
「こっちの世界の人の男の子と女の子の割合みたいに、魔力の強い方が少し確率が高いけど……最近火気が強まっているから、サラマンドラの子だよね?」
「ああ、このところ火精がエルゼさんを守っていたから、ブランデル公爵家の血を濃く引く子だろうな。しかし……なんで気付かないんだろう?」
「あいつは意外なところで鈍いからな」
首を捻る法稔に、モウンも太い腕を組んで唸った。
「まあ、副長もそれだけ余裕がなかったということでしょう」
玄庵がのんびりと湯飲みを傾ける。
「えっ!? 赤ちゃん!? オレ達の子供が出来たって!?」
すっとんきょうなアッシュの声が襖の向こうから聞こえ、茶の間の全員が笑い出した。
「とりあえず、今夜はおめでとう! ってことでお祝いしよう!」
ケーキもあることだし。シオンが触角を揺らして立ち上がる。
「じゃあ、買い出しに行くか」
茶色の尻尾でぽんと畳面を叩いて続く法稔に
「こいつを使ってくれ」
モウンが財布を渡す。
「あ、私も行く!」
優香も立ち上がった。
人型を取った少年達と家を出る。枯れた景色には、次の季節を思わせる明るい陽の光が降り注いでいる。
「何にする?」
「姐さん、そろそろ生モノや油モノはキツイって言ってたよ」
「じゃあローストビーフとか……鶏肉と野菜のハーブソテーとか……サラダ巻きとか……」
シオンと法稔がお互いのスマホで『ヘルシーパーティメニュー』を見ながら楽しそうに相談を始める。
大き過ぎる事件の中の小さな愛しい時間。
三月五日を越えても、こうして皆が笑っていられますように。
優香はそっと穏やかな光に祈りを捧げた。
* * * * *
荒く波打つ音が響く『島の別荘』に、いつもは悲鳴を上げさせる立場の者達の呻き声が流れる。
床に孫息子の執事と私兵達を叩きつけて『土の老王』はギリリと牙を鳴らした。
「……ディギオンが異世界に捕らわれているだと……」
なかなか姿を見せなかった、愛する孫は、異世界に『神』として縛られ、彼を追いやるべく、土の大将を務めている孫や、ハーモン家、穏健派貴族のブランデル公爵家とグランフォード公爵家、更には冥界までもが動いているという。
「……今、魔界でこれだけのことが出来るのは……」
老王の怒りに別荘がグラグラと揺れる。
「……筆頭軍師ユルグか……」
栄華を誇った自分を魔王軍から追い出した、先の天才軍師デュオスの二番目の弟子。そして……。
「……ハーモン班」
そのユルグが集めた者達で結成された破防班。
「……絶対に許さぬ」
自分の私兵に、床に転がった者にディギオンについて詳細を吐かすように命じる。
「必ずディギオンを『土の王』に着け、奴等に鉄槌を下してやる!!」
老王の叫びが、哀れな悲鳴と共に、打ち付ける潮騒の中に響いた。
憧憬の行方 END and To be continued
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