勝負
魔界の南の海、穏やかな暖流のおかげで、いつも春の陽気を漂わせる浅瀬には美しい白い貝を思わせる城がある。
ブランデル公爵家と並ぶ、穏健派最有力貴族、水の一族の第一種族、クラーケン族の総統、グランフォード公爵家の居城。
その中庭の一角、赤や黄色、オレンジの色とりどりの珊瑚の林を鮮やかな小魚達が泳ぐ中に建てられた東屋に車椅子の車輪のきしむ音が響く。
「すまない。待たせたね、エディ」
現れたのは、グランフォード家、当主『水の王』アルベルト・グランフォード。生まれつき病弱なうえ、少年時代の『水の王』の継承を巡る陰謀から立つことも出来ない身体になってしまった彼は、自ら十本の足で車椅子を操作して東屋に着けた。
「いや、私も連絡もせずに来て悪かった。ナディアから、最近、お前がよく城の周りを散歩していると聞いたが……大丈夫なのか?」
エディ……幼い頃からのアルベルトの友人である、『火の王』エドワード・ブランデルが車椅子を彼ごと東屋の床に上げる。
「最近は調子が良いから、少し体力を付けたくてね」
アルベルトは椅子を固定し終えた彼に礼を言うと、妻ナディアが持ってきたのだろう。ポットでお茶を淹れる友人の横顔を眺めた。
いつも精悍な顔に影が浮かんでいる。その思い当たる節を口にする。
「ボリス殿の離縁のことで話に来たのかい?」
「……ああ、知っていたのか?」
途端にエドワードの顔が自分と彼の愛妻マールにしか見せない情けない表情に変わる。
「魔界は今、どこでもその話と次期『土の王』の話題で持ちきりだからね」
この頃の貴族達のニュースといえば、土の第一種族、ベヒモス族の総統ベイリアル公爵家の当主代理、ボリス・ベイリアル大将が妻を離縁し、娘と何故か自分の育ての母と共に実家へ帰らせたこと。そして、今度の新年に行われるディギオン・ベイリアルの『土の王』就任の話だった。
エドワードが彼の前に茶を置く。動揺を現すような、どこか不安定な香りの茶を一口啜ってアルベルトは首を振った。
「ボリス殿の伴侶らしい、誠実でしっかりした奥方だと聞いている」
「バードが一度、クラウドの令嬢と一緒に、ボリス殿の御子息を私の城に連れてきたが、両親の愛情をしっかり注がれた、素直で礼儀正しい少年だった」
そのときの息子の友人の少年の顔を思い出したのだろう。エドワードが痛々しげに顔をしかめる。
「魔王陛下も『あの方』も驚かれていた」
「多分、『土の老王』の怒りとディギオンから、自分の家族に被害を及ぶのを避けようとしたのだろうね」
「……ああ」
そのボリスの苦渋の決断に、まだまだ土の一族では『土の老王』と彼のお気に入り、ディギオン・ベイリアルの権力が強いことを知る。
自分も家族をこよなく愛する男だけに、ボリスの思いが身に染みるのだろう。落ちたエドワードの肩にそっとアルベルトは白い手を乗せた。
* * * * *
魔王軍司令部の土の一族の将校達の執務室が集まる一角を、バシル……ボリス・ベイリアルの第一秘書、土の第二種族ミノタウロス族の総統家当主、バシル・ハーモンは歩いていた。密かに主人から自分だけが扱うように命じられた封書を上着の内ポケットに隠し、魔王軍大将を務める彼の部屋のドアをノックする。
「入れ」
短い返事の後、ドアを素早く開けて中に滑り込む。深々と礼をし、顔を上げると主人は、このところいつもそうであるように、物憂げに窓の外を眺めて立っていた。
「例の返事を預かってきました」
重厚なデスクの上に、封書を一通置く。
「これだけか?」
妻と離縁して一ヶ月経った今も、一度たりとも外そうとしない結婚指輪を着けたままの左手でボリスは封書を取り、溜息をついた。
ボリスが新年の魔王城でのパーティ後、魔王本人から秘密裏に話された、彼が『土の王』に就任するという計画。それを承諾して半年の間に、ディギオンが彼と因縁のある破防班の守る世界を破壊する為に、魔力を高めようと身の毛もよだつ儀式を『島の別荘』で行っていることを突き止めた。
だが、その儀式の生け贄に連れ去られた者達の家族に、捜索願を出して貰おうと当たったが、皆『土の老王』の権威とディギオンへの恐怖の前に口をつぐんでしまう。
「……結局、私はやはりディギオンには勝てんのか……」
既に『土の老王』は年明けにディギオンを『土の王』に就任させることに決め、派手な就任式とその後のパーティの準備をしている。
封書を開き、断りの文面を読んで、ボリスはデスクに力なく座った。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
『土の老王』には正式には男二人、娘一人の三人の子供がいる。そのうち、ボリスは長男の第三子の長男、ディギオンは次男の唯一の子供だ。他にも四人の孫がいるが『土の老王』は見目麗しく、性格も華やかなディギオンを溺愛していた。
そのディギオンは何故か、同じ年頃の従兄のボリスを目の敵にしており、幼い頃から自分に甘い祖父に頼んでは、彼に何かと嫌がらせをしていたのだ。
ボリスがディギオンの通う名門校ではなく、中階層の貴族の子息も通う軍兵学校に入れられたのも嫌がらせの一端だ。魔王軍に入隊したときも高位貴族は尉官を拝命するのに対して、彼は
『実力で上がってこい』
と他の一般人同じ二等兵の新兵から始めさせられた。
その彼の最大の嫌がらせが、ボリスの婚姻だった。
ディギオンは彼を笑い者にする為、念入りに『土の老王』にないことないことを吹き込んだ。
そして老王の取り持ちという形でベヒモス族でも下位の年上で、しかも離婚歴のある娘を初婚の彼に娶せたのだ。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
うつむく主人にバシルは懐に入れていた、もう一通の手紙を差し出した。
「これは……?」
うっすらと封書にまだ残っている魔気にボリスが顔を上げる。
「父が預かってきた、奥様からのお手紙です」
バシルの答えに彼は封を開けるのももどかしく、手紙を開いた。文字を追っていた紅玉の瞳が徐々に喜びの輝きを帯びていく。
「奥様の三人目の御子の御懐妊、おめでとうございます」
祝いの言葉に
「ありがとう」
久しぶりに主人の顔に笑みが浮かぶ。
「間違いなく私の子だ。直ぐに認知と養育費の増額の手配を」
「はい」
ボリスは机から白紙の便せんを出して、早速、妻への感謝といたわりの返事を書き始めた。
「ミラを娶って、私は初めて全てのことがディギオンの思惑とおりにはいかないことを知ったな」
小さく笑う主人に
「はい」
バジルが微笑んで答える。
派手で華やかな行動で注目を引き、周囲にちやほやされるディギオンと常に比べられ、男ばかりの軍兵学校出身のボリスにとって、女性は育ての母を除き、全くの未知の存在だった。
「ミラは拙い夫の私を弟のように愛してくれた。次々と愛人を作る父のせいで家庭に何の希望も抱いてなかった私に安まる場所を作ろうと力を尽くしてくれた」
「はい」
一度目の婚姻で相手の身勝手な振るまいに悩まされ、離縁させられた年上の妻は、不遇で不器用な年下の夫に母性を刺激されたらしく、苦労ばかりの彼が、しっかりと地に足を着けた生活を送られるように大切に守ってくれた。そしてようやく訪れた心身共に落ち着ける日々にボリスは、魔王軍でメキメキと頭角を現していった。『決して贔屓目で人を見ない、人に厳しく、自分には更に厳しい、実直な土の隊長』として実力で曹長になり、五十年前の魔王軍の大粛正の際、彼は当時中将で退官させられたディギオンの代わりに、土の大将として大抜擢された。構えるようになった王都の屋敷に、父の若い愛人達にないがしろにされていた育ての母……父の第一夫人を引き取るように勧めたのも彼女である。
「離縁を申し渡した際、ミラは条件として母上も連れていくと言ってくれた」
『お義母様は私が貴方の代わりに大切にお守り致します。だから約束をして下さいまし。ディギオンに、もし負けたとしても、どんな不名誉な結果になったとしても、例え地を這ってでも私と子供達とお義母様のもとに帰ってきて下さると。貴方一人くらい、私がどうにでも養ってみせますから』
きっぱりと言い切った逞しい笑顔が浮かぶ。
「今の私にはディギオンには無い、失うわけにはいかない大切なものがたくさんある」
手紙を書き終え、バシルが用意した書類にサインを入れて、ボリスは口元を引き締めた。
「私はまだディギオンに負けてはいないな?」
「はい」
「ここでおめおめと尻尾を巻いては、ミラに叱られてしまう」
ボリスは立ち上がり、結婚指輪に唇をつけた。
「私の三人の子の為にも、ディギオンを『土の王』にさせるわけにはいかん。バシル、お前の父上、ハーモン元大佐に連絡を取ってくれ。まずは、連れさらわれた被害者の家族をディギオンの手から守る方法を考えよう。そのうえでもう一度、彼等に奴を訴えて貰うように頼むのだ」
* * * * *
「……ボリス殿はギリギリまで、被害者達を守りながら、彼等に訴えかけると言っているが……」
エドワードが首を振る。
「最悪、やはり『あの方』のおっしゃるとおり、末弟達のいる世界を『破壊』しようとした魔憲章九十九条違反でディギオンを捕縛し、『土の王』就任を止めるしかないかもしれん」
だが、それは、かの世界に甚大な被害を与える上、ハーモン班を命を落としかねない危険にさらすことになる。
「……しかも、奴はベイリアル家の直系として治外法権が許される身。奴を捕まえるとなると後見人の『土の老王』の許可がいる」
溺愛する孫息子相手では、老王は容易に首を縦にふるまい。
「そのことについてだけどね。ナディア、ちょっとアレを持って来てくれるかい?」
アルベルトが空に向かって、妻を呼ぶ。庭の海流が柔らかく渦巻き、彼の妻がマリンブルーの軍服を手に現れた。
「……アル、それは!!」
軍服は少し小さいが魔王軍司令部で水の大将を務める彼の弟、クラウドのものにそっくりだ。
「礼装用の私の軍服だ。ナディアが手づから飾りを着けてくれた」
アルベルトは顔を伏せる妻の頬を優しく撫でて微笑んだ。
「私は老王の大きな『引け目』だ。利用しない手はないだろう?」
彼が最近散歩にいそしんでいるのは、それが目的らしい。
アルベルトがこのような身体になった理由の陰謀には深く『土の老王』が関わっている。
「しかし、お前が、この海域の外に出ることは……!!」
彼の体調は、この穏やかで暖かな海域でこそ保たれているのだ。
「だからこそ、だ。ハーモン殿達やシオンにだけ、命を懸けさせるわけにはいかない」
アルベルトがきっぱりと言い切る。エドワードは苦しげに息をついた後、俯いたままの彼の隣の妻を見て、頷いた。
「解った。そのときは私がお前の車椅子を押して『土の老王』のところに行こう。そして、必ずナディアのもとにお前を連れて帰る」
「頼むよ」
アルベルトが妻の肩を抱いて笑う。
「……こちらも命を懸けないとな……」
魔界を再び『悪魔』の世界にしない為に。
いや、ディギオンが『土の王』になったら『悪魔』くらいではすまないかもしれない。
「これは『起こるべくして起きる災い』」
かの世界の土地神の言葉をエドワードがぽつりと呟く。
「それを魔界にとって良い方向に導かないと」
二人の王は顔を合わせて深く頷きあった。
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