12. 別離
「では、班長。とにかくオレは優香を連れて、この家を出ますから」
事件が終わって、一週間経った七月の半ば。バイトから帰った正樹がモウンの部屋で一時間ほど話し込んだ後、出ていく。
兄の後ろ姿を廊下の影から見送って、優香は部屋に入った。
「……優香……今の話は……」
座布団に唖然とした顔で座っているモウンの隣に膝をつくと、机の上の写真立てを手に取る。
幼い優香がモウンの腕に抱かれ、破防班の面々と写っている写真の入った写真立て。それを持って、兄が座っていた座布団に座り、まだ呆然としているモウンに訊いた。
「前に頼んでいた、おばあちゃんが玄さんの勧める治療を受けなかった話を聞かせてくれる?」
「あ……ああ、しかし、優香、今の正樹の話は……」
「その事を決める為にも、モウンの話を聞きたいの」
「……優香……」
多分、モウンは優香が即答で、正樹と家を出るという話を否定すると思っていたのだろう。戸惑った顔で彼女を見ると、飲むことを忘れて放置していたらしい、汗をかいた麦茶をぐっとあおった。
「おばあちゃんは、薫さんを見て治療を受けなかったの?」
「ああ。苦しむ薫を見て、やはり、この世界以外の方法での治療は受けないと決めた」
勿論、玄庵の勧める友人の医師の治療は、ライアスのように他人の命を犠牲にするものではない。しかし、遥香はやはり人はその世界の
『同じことで苦しんで戦っている人はたくさんいるのだから、やっぱり『ズル』はいけないわ』
祖母が『ズル』する姿を孫には見せられない。言い切る遥香に破防班の皆も承諾した。
「……それで、モウンは良かったの?」
「遥香自身が決めたことだ。俺が口を出すことではない」
「そうじゃなくて……」
優香は写真立てを裏返した。留め具に指を掛ける。
「優香?」
裏の蓋を外すと、確かに兄の言うとおり、まだ若い三十代の頃の祖母の写真があった。
庭でこっそりと写したのか、見覚えのある木の前で、こちらには目を向けず、誰かに微笑み掛けている。そして、この写真立てを愛おしそうに手に取り、眺めてたモウンの姿が浮かぶ。
事件の後、苺薫とライアスの話し合いに付き添っていたとき、彼女から感じた胸の痛み、そっくりの痛みが優香の胸にも走った。
「優香……」
「モウン、おばあちゃんのこと好きだったのに、それで良かったの?」
顔を上げて真っ直ぐに問う。
モウンが赤い瞳を見開き、息を飲む。
「どうして、それを……」
「お兄ちゃんが去年の大晦日、掃除道具を取りにモウンの部屋に入って、偶然これを見ちゃったらしいの」
「……まさか……それで」
「私はずっと前から気がついていたけどね」
モウンは彼女から目を反らし、苦しげに息を吐いた。
「……すまん……。しかし、俺は……」
「……ずっと、おばあちゃんにも誰にも言わなかった。……知ってるよ。私もずっとモウンのこと見てたもん。で、大切なおばあちゃんが亡くなるかもしれないのに、モウンは本当に良かったの?」
『大好きなおばあちゃん』と言わないのは、せめてもの優香の抵抗だ。ズキズキする胸を抱えながら再び尋ねる。
「……ああ」
モウンが顔を上げる。こんなに長い間暮らしてしていたのに、優香が今まで見たことのない、頼りない少年のような顔がそこにあった。
「遥香を失うより、遥香が薫のようになってしまうことの方が、俺がライアスになってしまうことの方が、よっほど怖かった……」
優香にはすまなかったと思っている。下げられた黒い頭に泣きそうになるのをなんとかこらえる。
……おばあちゃん、ズルイ……。今でも、こんなに真剣に思われて……。
「そう……」
優香は写真を戻して、蓋を閉めるとモウンに渡した。大きな黒い手が、優香の頭をいつも撫で、優しく抱きしめてくれた手が、そっとそれを受け取る。
苺薫ちゃん、私もダメだったよ……。
モウンの心には今も祖母がいる。不器用で真面目過ぎる彼のその場所に、誰かが入る余地は無いのは、優香が一番解っていた。
「……私、お兄ちゃんと家を出るね」
「……優香!!」
やっぱり、ここにも私の居場所は無かったんだ……。
胸が押しつぶされるように痛い。こんな気持ちのままで彼の側にはもういられない。
引き留めようと、説得しようとするモウンに背を向け、優香はあのとき、夜の縁側で彼に告げようとした言葉を告げた。
「……モウン、私、モウンのこと好きだよ……」
彼には本当の意味では伝わらないけど。
部屋を出る。モウンが必死に自分を呼んでいるが、優香は振り返らなかった。
* * * * *
「はい。これ、皆のお昼用のお弁当。人数分用意したから」
優香がモウンに引っ越しの意志を告げた次の週の土曜日。夏休みの初日の朝から正樹の先輩と友人が兄妹二人の荷物を運び出している。
理由の説明も無いまま、いきなり二人が家を出るという話を聞かされた班員達はせめて……と申し出た引っ越しの手伝いすら断られ、正樹が呼んだ人達が出入りするのを呆然と見ていた。
これくらいは頼むからさせてくれ、とアッシュが作ってくれたお弁当を持つ。優香がこの家にいる間、お花見、海水浴、運動会、お正月等々の行事で活躍した重箱が綺麗な風呂敷に包まれていた。
「本当に良いのかい? 班長はまだ自分が、この家を出ていくべきだと言っているけど」
五日前、魔界の他世界監視室の室長から、女侯爵がモウンにも取り調べに立ち会って欲しいと、ダダをこねていると連絡がきた。取り調べが進まなくて困っているという話に、魔界に向かった彼は夜、蒼白な顔で帰ってきた。
そして、正樹に
『どう考えても大学生と高校生で二人暮らしは無理だ。頼むから二人はこの家に居てくれ。俺が家を出る』
自分が家から出、優香には二度と関わらないようにするから、二人は残った班員達と住み続けてくれるように頼んだのだ。しかし、モウンの土下座せんばかりの再三の頼みも正樹はつっぱね、今日の引っ越しとなった。
「優香、例の法稔くんの玉は持った?」
一緒に台所でお弁当を作っていた、エルゼが手を拭いて訊いてくる。
「うん」
「もし、何かあったら、それに呼び掛けて。すぐに飛んでいくわ」
「ありがとう。エルゼ姉さん」
ダークレッドの瞳に心配そうな光をたたえたエルゼに、優香は礼を言うと、さっきから台所の隅でスマホで話をしているシオンに振り向いた。
「大丈夫だよ、シオン」
「……でも……優ちゃん……」
広い交友範囲から、今度優香の住む山根市のアパートに近くに住む子に、彼女のことを頼んでいたシオンが赤紫の瞳をうるませて振り向く。
「これも持っていきなさい」
昨日から部屋に籠もり、作業をしていた玄庵が入ってくる。
「優香の感応力はまだまだ不安定だからの。精神安定の札じゃ。法稔の玉と一緒に持っていなさい」
「ありがとう。玄さん」
白い縦長の紙に、黒々と墨で文字が書かれた札を丁寧に折って、優香はバッグに入れていた、青い数珠の玉が入った小袋に一緒にしまった。
「家賃は班長の希望もあって、毎月多めに振り込んでおくから。足りなかったら、すぐ連絡して。……オレ達は『家族』なんだから」
「うん」
はっきり頷いた優香にアッシュがほっと息をつく。
「……モウンは?」
「班長は部屋に籠もっている。……ねえ、優香ちゃん、二度と優香ちゃんとは関わらないって……班長と何があったんだい?」
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
『班長、ようやく優香が自分のせいで、親父から捨てられたって知ったらしい』
魔界から帰ったモウンの頼みをけんもほろろに突っぱねた後、正樹は優香に教えてくれた。
その後
『……正樹から聞いた。すまん、優香。俺がお前から父親と家族を奪ったのだな。それなのに、偉そうに父親代わりなどして……』
モウンは改めて優香を部屋に呼び、謝った。
『モウン、私はそんなこと気にしてないよ』
何度も何度も謝るモウンに、優香は自分はそのことは気にしてないと告げたのだが、彼女が引っ越しを決めた理由がそれだと思っているのだろう。モウンは暗い目で顔を背けていた。
『正樹の言うとおり、本当の『家族』と暮らせるようになると良いな』
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
皆の問いたげな目に視線を反らす。
「優香! 荷物、全部積んだぞ!」
玄関から正樹の声がする。
「今行く!」
優香は逃げるように、皆の中を抜け、玄関に向かい駆け出した。
道路に縦列駐車し、荷物を積んだ二台の車に向かう。
「正樹くんと妹さんはこっちね」
先輩の彼女だという、手伝いに来てくれた女子大学生に言われ、優香は正樹と後ろの車に乗り込んだ。
ふと、どっしりとした土の気を感じる。
……モウン……。
姿を消して、見送りに来てくれているのだろう。優香は周りに聞こえないように小さく呟いた。
「今まで本当にありがとう、モウン。……さようなら」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます