3. 『腐ったリンゴ』

 

 

 昨日の嵐が嘘のように、よく晴れた空から、秋の終わりの柔らかな日差しが降り注ぐ。今は金色に染まった大地に聳え立つ、魔界の四大公爵家の一つ、火の一族の第一種族、サラマンドラ族の総統、ブランデル公爵家の居城の執務室で、公爵の名代を務める、次男ケヴィン・ブランデルは腕組みをしながら、自分のデスクの上の書類を眺めていた。

 窓からは公爵夫人専用の畑で、昨日の嵐の始末をしているらしい兄嫁の声と、それに応えるように、はしゃぐ兄の娘と自分の息子の声が聞こえる。孫に甘いことで定評のある父と、しっかり者の母の声。楽しげな家族の声を聞きながら、ケヴィンは眉根を緩めた。

「ようやく、ここまで来たな」

 感慨と共に吐き出す。

「そうね」

 ケヴィンの妻、兼秘書でもあるアンが、デスクに暖かなお茶を乗せる。

「お疲れ様、ケヴィン」

 妻の労いの言葉にケヴィンの顔が緩んだ。

「ありがとう。アン」

 茶を啜って、ふうと息をつく。

「これで、ようやくバーン家を切り離すことが出来る。グランフォード家と違って、表だった反逆がなかった分、うちはここまで掛かってしまったな」

「それは……仕方ないわ。アルベルト様は弟のクラウド様を守る為に、お命をお掛けになったのですもの」

 元々、病弱だったアルベルトが立つことも出来ない身体になってしまったのは、その『表だった反逆』のせいだ。アンがゆるゆると首を振る。

 ケヴィンはもう一度、デスクの上の書類に目を落とした。そこには、この数年間を掛けて、調べに調べ尽くした、同じサラマンドラ族、バーン侯爵家の公爵家領地を使っての不正や収賄が書かれていた。これだけ証拠が揃えば、今度はバーン家を火の一族から追放することが出来る。

「アン、本当にありがとう。君の査定は完璧だ」

 ケヴィンが妻に笑い掛け、今度は自分が彼女に茶を淹れる。ポットからアンの好きなブレンドの茶の匂いが漂う。

「私はただ、公爵家領土の収支が合わないことに気付いただけ。後は貴方の根気強い内偵の賜物だわ」

「いや、君があの二重帳簿に気付いてくれなかったら、ここまでは出来なかった」

 ケヴィンが感謝の茶を、妻のデスクに置く。

「それで、お義姉様のお話の方はどうなったの?」

「ああ、そっちもとんでもないことが解った」

 長兄の妻である公爵夫人マールは、おっとりしたお姫様育ちのようで、人の本質を見抜く『目』を持っている。彼女は前々からバーン家の次期当主の異常な性癖に気付いていた。そして、それが最近鳴りを潜めていることも。

『あの方の性癖は、あの方の性格からいっても、そう簡単に治まるものではないわ。もしかしたら、どこかで別の場所で発散してるのではないかしら?』

 この義姉の言葉に沿って調べたところ

「他世界の女性を使って発散していたのが解った」

「それって、もしかして……」

「ああ、魔憲章第九十九条異界における破壊活動防止条例に違反する」

 ケヴィンは苦々しく吐き捨てた。

「バーン家を追放するには、これだけで十分だ。これは今後、君と兄さんと父さんに預けるよ」

 ケヴィンがデスクの書類を纏めて、アンに渡す。

「解ったわ。お義父様とお義兄様のお手伝いをしてきっちり始末を付けてくるわ」

「オレはこっち問題の解決に専念する」

 ケヴィンは封書を取り出した。蝙蝠の羽を広げた瞳の紋章が付けられた、魔王軍特別部隊他世界監視室の封書を開く。

「ヤツの潜伏先はハーモン班の赴任先の世界だ」

 まあ……。アンが息を飲む。

「向こうにはエルゼがいる。万が一の為にオレは向こうの世界に向かうよ」

 バーン家は一族から除名したアッシュが、風の一族の最下層であるサキュバスの娘と恋仲になったことに、最後の最後まで反対していた。

「もしかしたら、ヤツがこちらの動きに気付いて、最後のあがきにエルゼを狙うといけないからね」

 苦労した弟がようやく見つけた生涯を共にするパートナーに、もしものことがあったら。ケヴィンの兄としての思いにアンは頷いた。

「気を付けてね」

「ああ。必ずヤツの処分を見届けてくる」

「ええ」

 アンが祈るように胸の書類を抱き締める。そんな妻にケヴィンは微笑んで、優しく肩を抱いた。



「ああ、愛しているよ。大丈夫、君には私がいる」

 スマホのスピーカーから聞こえる、不安げな細い声に優しく返して通話を切る。ボタンをタップした後、男は楽しげに口笛を吹いた。

 高層マンションの屋上、冷たい夜風が軽い音を吹き散らしていく。

「この機械はなかなか都合が良い、出歩かなくても、こちらが求める女をネットとやらから探し出すことが出来るからな」

 勿論、その中には、なにやら危うい者が背後についていたり、犯罪を企んでいたり、遊び半分で男が女を名乗っている者もある。だが、そういう者にたとえ引っ掛かったとしても問題は無い。

 男は魔界の魔族。しかも火の一族の第一種族であるサラマンドラ族の侯爵、バーン侯爵家の次期当主だ。この世界の何の力も持たない人間等、比喩的な意味でなく小指の先ほどの力でどうにでも出来る。

「しかし、なんと享楽的で孤独な世界もあったものよ」

 スマホの画面をタップし、動画アプリを呼び出す。一週間前、自ら命を絶った彼の恋人……という名のおもちゃ……の顔が画面に映し出される。絶望の果てに無表情になった女が、高層マンションの柵を無造作に乗り越える。そして、まるでその先に降りるかのように漆黒の闇に向かって飛んだ。

 ……その後、女が地面に衝突し、物体と化すまでの動画を何度も見返す。男の口元に愉悦の笑みが浮かんだ。

 この女は本当に楽しかった。

 最初の女は、この世界に不慣れなのと、久々の獲物に焦る気持ちもあり、さっさと絶望に追いこんで自殺させたのだが、この女は手間を掛けた。

 自分に夢中にさせた後、猜疑心を呷るような行動をちらつかせ、信じたい気持ちと、もしかしたらという気持ちの間で何度も何度も揺り動かさせ、じわじわと追い込んだのだ。そして、徹底的に心を壊された女は自ら死を選んだ。

 動画を止める。真砂のように夜闇に散らばる光を見下ろす。女が飛び降りた場所を愛おしげに男は見つめた。

 男のこの性癖は既に魔界では、かなり知られてしまっている。魔界ではもう『おもちゃ』は調達出来ないだろう。だから、ここに来たのだ。寂しさに仮初めの愛でもしがみつく者が蠢く世界に。

 スマホを手で弄ぶ。今、新しく手に入れた女は自分に夢中にさせているところだ。このまま魔族にしか扱えぬ快楽で身も心も自分に依存させる。そうして……。

 男の唇がもう一度愉悦に歪んだとき

「若君」

 若い男の声が呼んだ。

「何だ?」

 折角の楽しい妄想の時間を邪魔され、不快そうに口を結んだ男が、膝を付いて自分を見上げる男の頭上に、ふわふわと飛んで行き、足を組む。

「旦那様からの御連絡です」

 彼の家に仕えるお抱え術士は、膝まづいた姿勢のまま、ふわりと男に向かって白い封書を飛ばした。

「父上からか」

 表書きを見、丁寧に封印までされた封筒を開ける。白い便せんに書かれた文字を追う赤金色の瞳が大きく見開かれた。

「エドワード様が!!」

 男の口から自分達一族の総統家の当主、『火の王』エドワード・ブランデル公爵の名が飛び出る。そこには、エドワードが父を突然、魔界王都の自分の屋敷に呼び出し、バーン家の長年に渡る不正や横領、収賄を暴いた書類を見せて、彼等一族を火の一族から追放すると告げたと書かれていた。

「火の一族からの追放……」

 それは魔界では処刑の次に重い処罰だ。魔界は混沌を司る魔王一族以外、火、水、土、風の四つの属性に分かれている。そしてそれぞれは第一種族と呼ばれる最も力を持つ種族を頂点とする、ピラミッド型状の身分階級で構成されていた。このピラミッドに属していれば、例え最下位といえ、同じ属性の者達の恩恵を受けることが出来る。それを追放されるということは『はぐれ者』として、自分達だけの力で生きていかなければならないということなのだ。一般市民ならともかく、身分を絶対とする魔界で、のうのうと高い身分にあぐらを掻いて生きてきた彼等、バーン家の者達にとってはまさに死刑宣告に等しいものだった。

「そんな……」

 先ほどまでの笑みは消え、わなわなと唇が震える。

「しかも、どうやらブランデル家は若君が『破壊』活動を行っていることについても把握しているようであります」

 男の顔から血の気が失せた。魔王の『破壊』認定が降りていない他世界や、そこに住む人々を勝手に自分の欲望で『破壊』するのは、魔族の名誉を汚す行為として唾棄されるもの。去年の春の終わり、ベイリアル家の傍系の少年がこの禁忌を犯し、少年監獄に入れられたのは記憶に新しい。しかし、震える手で手紙の続きの読んでいた男の頬に微かに赤みが差した。

「……そういうことか……」

「どうしましたか? 若君」

 術士の問いに、男は胸を張った。

「この世界の破防班はハーモン班だったな」

「はい、そう記憶しております」

 他世界を守る破防班の中で、最も優秀と言われている班だ。

「そこの前衛担当術士にエルゼ・レイヤードという名のサキュバスの女がいる」

 一族を除名された総統ブランデル家の末弟の恋人の女。既に公爵家では彼女を三男の嫁として認めている。だが、サラマンドラ族には、これに異を唱える者が数多いる。

「父上からの命だ。このサキュバスを討てと。さすれば、バーン家は総統家の血筋が穢れるのを防いだ家として、サラマンドラ族の支持を得、追放を免れるやも知れぬ」

 もしかしたら、穢れた血を入れようとしたブランデル公爵家に変わり、バーン家が総統家となれるかもしれない。男が自信を取り戻したように鷹揚に術士に命じた。

「お前に命ず。エルゼ・レイヤードを消せ」

「私が……ですか?」

 驚いて顔を上げる術士を男は顎でしゃくった。

「ああ、私が手を穢すまでもないだろう」

 ハーモン班の班長モウン・ハーモンは、土の一族の第二種族ミノタウロス族の総統家の元当主。本人も以前は、魔王軍の花形、破壊部隊の第一隊隊長を務めていたほどの武人だ。そして、後方担当術士の流水玄庵は、元破壊部隊の魔術師長で、術の一族、玄武一族の元長老。捜査官のシオン・ウォルトンは、以前、魔王軍の全部隊演習で会場を水に沈めた『水の王』の秘蔵っ子だ。

 それに、なんといってもハーモン班には、副長として彼女の恋人のアッシュ・ブランデル兵長がいる。ブランデル三兄弟の中で、というより、歴代のブランデル家の者の中でもトップクラスの火の力を持つ男だ。そんな輩がゴロゴロしてる班で班員を狙うなど火中の栗を拾うどころか、炎熱地獄に裸で飛び込むに等しい。

 だが、そんな考えはおくびにも出さず男は術士を見下ろした。

「仕えていた水の一族の男爵家の令嬢を妊娠させて、獄死させられる寸前だったところを父に救われた恩を忘れたのか?」

 術士は身を堅くすると、男に深々と頭を下げた。

「御意」

「うむ。バッド、吉報を待っているぞ」

 男のスマホから、通知を知らせる電子音が鳴る。女からのメッセージだろう。楽しげに返信を打つ男に背を向け、術士はふっと夜闇に消えた。

 

 

 ビルの壁に沿って吹き上げる冷たい風が、バッドの裾の長い上着をバタバタと鳴らす。

「救ってやった、救ってやったと、いつまでも恩着せやがって……」

 整った横顔の薄い唇から、罵倒の言葉が漏れた。

 確かに嫁入り前の令嬢、嫁ぐ日まで何か間違いがあってはならんと、念には念を押されていた娘を妊娠させたのはマズかった。だが、それは娘の合意もあっての上でのこと、自分ばかりが責を取らされることではないはずだ。

 しかし、彼の前の主人は娘をたぶらかした戯け者として、彼を水牢に放り込んだ。そして、そこで死を迎えるしかなかった彼の話を聞いたバーン家の当主が何かに使えるかもしれないと彼を救ったのだ。以来バッドは若君配下の術士として仕えている。

「……あんな我が儘なボンボンに仕えるのは、もううんざりだぜ……」

 バッドは嘆きながら、懐から一通の封筒を出した。紫色の封筒には、黒で曲がりくねった角を紋章化した印が付いている。それを唇に当ててニヤリと笑った。

「……この任務を完了させれば、オレはベイリアル家のお抱え術士だ」

 煌々と夜闇に煌めく明かりを見下ろす。彼女には術士としては一度も勝てなかった。

「……だが、オレは勝つ」

 この任務の攪乱の為に仕掛けた先手は見事に効いている。バッドの唇が曲線を描く。

「またお前を踏み台に、オレは高く登ってみせる」

 バサリ、黒い翼が背中から飛び出す。吹き上げる風を翼に受けて、バッドは夜空に舞い上がった。

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