File.4 裏切りの末路

1. ゴング

 ザアアアアアアアア…………。

 季節は秋から冬に移る時期。魔界王都にはこんな激しい雨の日々が続くことがある。まるで、これから迎える冬の下準備と言わんばかりに、雨が分厚い鉛色の雲から、途切れることなく街に落ち続けていた。

 今が何時なのか、解らなくなる薄暗さ。屋根に落ちた雨粒が斜面を駆け巡り、雨樋の先から滝のように石畳の道路へと降り注ぐ。時折、吹き付ける強い風に、ザッ、ザザザァッと通りの商店や家々の壁を叩く。それは、まるで嵐に鳴く荒れた海の波の音にも聞こえた。

 カタン! この店自慢の木の一枚板のカウンターに、何かが落ちるような固い音が響く。

 さすがにこの雨の中、やってくるお客も数えるほどしかなく、手持ち無沙汰に店のテーブルや棚を磨いていたジゼルは驚いて振り返った。

「ブライ?」

 深い味わいのコーヒーと、昔懐かしい素朴なお菓子の組み合わせで、知る人ぞ知る魔界王都の下町の隠れた名店である喫茶店の主人、彼女の夫であるブライがカウンターに磨いていたカップを置いてうつむいている。さっきの音は彼がカウンターにカップを落とし掛けたものらしい。いかにもオーガ族らしい、粗野な風貌とは正反対に、繊細なコーヒーを淹れ、カップや器具を大切に扱うブライには滅多に無いことだ。

 黒いベストと黒いタイ、黒いズボンの上から、カフェエプロンを巻いた大きな体を前に屈め、何かに堪えるように立ち竦んでいる姿を見て、ジゼルは布巾を置き慌てて彼に駆け寄った。

「ブライ……大丈夫?」

 カウンターに手をついた太い筋肉質の腕を、両腕で包み込むようにして、エプロンを着けていても豊かに膨らむ、サキュバスらしい形の良い胸に抱え込む。妻の暖かくて柔らかな感触にブライが顔を上げた。

「……ジゼル……」

「そう、私よ。そして、ここは私達のお店」

 丁寧に言い聞かせるような声に、ブライの下唇から牙の突き出た無骨な顔が綻んだ。

「ああ、そうだな……」

 彼は確認するように呟くと、ゆっくりと何かを打ち払うように首を振った。

「もしかして『発作』?」

「ああ、そろそろ時期らしい」

 分厚い唇が歪む。ブライは普通の者ならとっくに狂っていても当然の過去から、この時期……王都がまるで海に浮かぶ孤島のように荒れ狂う時期、『発作』を起こす。拭っても拭い切れない過去のトラウマに引きずり込まれ、体調まで崩して寝込んでしまうのだ。

 朝に比べて、急にやつれたようにげっそりとした顔の夫を、カウンターの内側の椅子に座らせると、ジゼルはその頬を白い手で包んだ。夫の額に自分の額を付け、まだ熱は無いことを確かめ、優しく言い聞かせる。

「大丈夫よ、ブライ。私がいるわ」

「……ああ、私にはお前がいる」

 ブライが太い固い指でジゼルの頬を撫でて息をつく。

 ブライが以前、風の都の吹き溜まりのような街で、彼女達姉妹を拾った理由の一つが、これであった。

 あの頃は、今のように年に一度、この時期だけではなく、ひどい時は一ヶ月毎に『発作』を起こしていた。その自分のケアをさせる為に、だったのである。瞳に宿る力強い輝きに惹かれ、気まぐれに拾った姉妹は、手は出さない、住まわせて食べさせてやる。その代わりに……と彼が出した条件を飲み、彼の『発作』の間の看護を引き受けた。そして、そのうち姉はいつの間にか、自分に思いを寄せるようになり、こうして今は妻として隣にいる。

「今日から、しばらくお店を休みましょう。大丈夫、お客さんは皆解っていてくれているもの」

 ジゼルが微笑むと額を離し、店を片付け始める。テキパキと動く彼女を見て、ブライは大きく息を吐き出した。

 彼女が自分の側に居てくれるようになった時間と反比例して、『発作』も少なくなり、寝込む時間も短くなった。でも、どうしても、この時期だけは、一、二週間、部屋に閉じ籠もらなければならない。

「今のブライじゃ、うちの名物の美味しいコーヒーは、淹れられないもの」

 彼の胸の内を読んで、ジゼルが笑う。

「今夜は暖かいスープを作るわ」

「ああ、頼む」

 励ますような明るい笑顔に、ブライがこわばった顔を緩ませた。

 ジゼルは軒先に出した、店の看板を片付けに外に出た。激しい雨が波のように風に乗って、通りに白い飛沫を立て通り過ぎていく。

 その日のメニューを書いた小さな黒板を板に打ち付けた看板を畳み、顔を上げる。ダークレッドの瞳が通りの向こうの影を見て、大きく見開かれた。どしゃぶりの雨の中、傘も差さずに立っているのは……。

 打ち付ける雨の音に、ジゼルの悲鳴のような声が重なった。

「エルゼ……!!」

 彼女のたった一人の血を分けた妹を呼ぶ声。その声にブライは弾かれたように立ち上げると、カウンターを飛び越え、外に飛び出した。

 

 

 ザアアアアアアアア…………。

 石畳に落ちる雨の音が響く。

 姉に抱き抱えられるようにして、店に入り、取り敢えず、ずぶ濡れの服を着替え、髪をタオルで拭ったエルゼが、ブライの作ったホットミルクを一口啜る。

「姉さん……、義兄さん……」

 二人に囲まれ、エルゼの頬からカウンターに、次々と大粒の涙が落ちた。

 

 

 深夜のオフィスの、闇に沈んだ床に緑の光が伸びる。それはまるで蛇のようにのたくりながら曲がり繋がり合い、リチウムの床に複雑な魔法陣を描く。

 下から差す光が中央に立つ若い男の顔を照らし出した。整ってはいるが、どこか自堕落な印象を受ける面立ちの、酷薄そうな薄い唇の男。

 男は印を組んでいた両手を開き、呪文を唱えていた唇の動きを止めた。床に完成した魔法陣を見て、満足そうな笑みが浮かぶ。

「エルゼ……お前の術式は完璧だよ……」

 頭の中に今日の昼間、留守の間に彼等の家に忍び込み、離れの彼女と彼女の恋人の部屋の床下に仕掛けた術具を描く。

「さあ、二度目の勝負の始まりだ」

 男は発動の呪文を唱えた。一際輝く光が、魔法陣を巡る。

「今度もオレが勝つ」

 男の唇が緩やかに歪んだ曲線を描いた。

 

 

 魔界王都から離れた地方都市。水の一族の治める、小さいが活気溢れる海辺の街が、術士を目指すエルゼの修行の場だった。彼女に術士としての才能があることを見抜いた、元魔王軍防衛部隊第一隊の隊員ブライ・レイヤード……今は姉の夫となった男が、サキュバスだろうが胸を張って自分の力で生きていきたい、そう望む彼女に知り合いを通じて、師を探し、学費も出してくれたのだ。

 恐縮する姉妹に

『受け取りたくもなかった金を、有意義に使いたかっただけだ』

 と厳つい顔の無骨な唇を笑ませながら、今までに見たことも、聞いたこともない大金を出してくれた。

 しかも、万が一、サキュバスだからと理不尽な性的な嫌がらせをされないように考えて、彼は女性の師を見付けてくれた。

 その師に着いて三十余年。風の一族の最下位層の種族のせいで魔力は低いものの、掛ける相手を気遣う優しさから、巧みで繊細な術使いとなったエルゼは、もう千歳を越える師が『私が育てた中で最高の術士』と太鼓判を押すほどに成長した。

 彼女ほどの才の者なら、どの貴族のお抱え術士としてもやっていける。だが、ブライも師も彼女がサキュバスであることを除いても、魅惑的過ぎる娘であるだけに、就職先については熟慮していた。

 魔界では主従関係は絶対。雇い主が従業人に手を出す話は掃いて捨てるほどある。その為、彼女は、もう十分一人前なのだが、ここ五年ほどは師の元で仕事の手伝いや身の回りの世話をして過ごしていた。

 今朝も朝食が終わった後、エルゼは洗濯物を干していた。差し込む春の暖かな日差しと石鹸の匂いに、つい鼻歌がこぼれる。その彼女の後ろから影が忍びより、男らしい筋肉質の腕が彼女を抱き締める。

「エルゼ……」

 二十年前から自分同様、師の弟子に入り、彼女ほどではないが、かなりの腕前の術士に成長した青年が耳元で囁く。

「バッド……」

 エルゼが花のような笑顔を向けて振り返った。


 

「……バッド……」

 離れの部屋に並べて敷かれた寝具の一つがもぞもぞと動く。

「……う……ん……」

 ふんわりとした豊かな黒髪を乱して、エルゼが寝返りを打つ。細い形の良い眉がしかまり、苦しげな息が艶やかな唇から漏れる。

「……ん……」

 その下の地中で、仕掛けられた術具が送り込まれた力に、微かな波動を放ち始めた。

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