9話

黒い足跡が消えたのは大きな木の下だった。

すっかり夜も更けているけれど雲が多いために折角現れたつきや星空は見えることはない。雨が降らないうちにあの少女を見つけ出さなければ。アルフレッドとイヴリンはそれぞれに分かれて彼女の捜索を始めた。大きな木のまわりを時計回りに探していたアルフレッドが先にエミリアのドレスの裾を見つけることになった。ほっと安心して彼女に手をのばしかけた時、どんっと肩をなにかに押された。思わず地面に尻餅をついてしまう。そのことでエミリア本人も到来に気づいてくるりと振り返った。


アルフレッドの肩を押したのはあの黒い模様であり、それはエミリアの脚を破けたストッキングのように這い上がっていた。


彼女は驚いたように倒れた人形を一瞥すると天を見上げた。その姿に驚く暇もなくただじっと見つめるしかなかった。咎めるようにでもなくただ無表情に。人形そのものの表情で何も言葉には出さず。

「月を、眺めていたんです。綺麗でしょう。」

「帰りましょう。宿で旅商人のレインさんがその黒い模様を解く手伝いをしてくださいます。」

「冗談にもつきあってくださいませんの。」

自らを嘲笑すると彼女は小さなため息をついた。月が照らさずとも視力は良いアルフレッドにはその黒いものが彼女の身体を僅かにだが徐々に満たしていくのが見えていた。そしてそれが決して弱小な魔力などではないということも。このままではまずいのではないかと心配する心を見透かしたようにつづける。

「私がお母様の死を理由に事を荒立てるのではないかと思っているのでしょう。人間を恨み逆上するのではないかと。それならば大丈夫。私は既に乗り越えていますから。」

半ば早口で喋る彼女をじっと見つめる。なにも言葉は発さないままいる目の前の人形に呆れたように説明するように彼女は言う。

「命は限りあるものです。今日だって何人もの人間もそれ以外の存在も死んでいる。だからこれは必然的に起こること。理解はしています。」

「そしてあなたの家族が人間ではない存在だと迫害を受けたことも。それによってお母様がお亡くなりになったことも理解したというのですか。」

ばっとまた驚いたように無表情のその女を見て口を少し開く。風が少しずつ吹き始めた、冷たくて湿気た感覚はもうしばらくの後確実に雨を呼ぶことを示している。魔物にカウントされるであろうアルフレッドはいいが人間のイヴリンはいともたやすく風邪をひきかねない。この凍えた少女も早くあたたかい宿屋に帰してあげたい。

「そうです。私はこれくらいでは躓きませんよ。世界中の人では私の歳まで母と生きた者が全てではないでしょう?だから幸せ者なのですよ私は。」

「これくらい、と言いますと。」

「だから母と父が亡くなった…」

アルフレッドが急にすくりと立ち上がって必死な少女の前で優雅にお辞儀をした、メイドがご主人にするような綺麗な一礼。

「失礼します。」

「え?」

そのままぱっと礼を解くと手の平を水平に向けて、エミリアの頭の上にゆっくりとおとした。ぱさりという音をたてて痛みもないようなその咎めは一瞬で終わった。ただ表情のないような人形はもうおらず、そこにいたのは本気で心配し少し険しい表情をしたアルフレッドだった。

「ご無礼を承知で申し上げます。ご両親はあなたにとっては大事な人だったのではありませんか。」

「もちろんです!優しい母と父です!」

「それではなぜ“これくらい”などと仰るのですか。あなたがそんなことを言ってどうするのですか。」

少しだけ急かすような口調でまくし立てた。今までにみたことがない気迫に思わずエミリアも肩をすかして自らより少しだけ背の高いその女性を見上げる。まるで子供のようにして。

「私は…もし大事なひとが…考えたくはないですが亡くなったら、“これくらい”などとは言えません。もし他のお方に言われようものなら恐らく給仕の命を超えた無礼な行いをする可能性もあります。」

その大事なひとというのはイヴリンでもあり、ルーネイティアでもあり、目の前のこの少女でもある。死ぬという概念は自動人形としては本来破壊されるというものでありそこに対してなにも思うことはない。それはエミリアも少し思ったのだろう。

「おかしい。あなたは自動従事人形…マモノの一端でもあるでしょう…感情や信頼なんて、あるんですか。」

「確かに私は不良品として廃棄された通常ラインでは生まれない者だからこれはおかしいのでしょう。だけれど確かに教えてもらったから。」

声が少し大きくなってまるでこれだけは譲れないといった風に前にのめりでた。


「死は傷つくもので、諦めない者達は強い力を持つ。」


その一言に思わず強気になっていたエミリアは一歩引き下がることになった。この信条のとりさげを自分が譲ってしまえばそれはイヴリンをも侮辱するということ。だから譲れはしないし自分の中で大きなものへと変わっている。だから諦めない。彼女をなんとか救ってみせる。

「今わかりました。あなたのその黒いものの正体。」

一歩下がった少女との隙間を詰めるようにして大きく胸を張って歩みをすすめた。その黒い模様は少女のあとを追随するように跡をのこしながら伸びていく。その上を裸足のエミリアは恐れないで踏み越えていく。不思議と今度は沈みはしない。それもそのはずだった。この沼の弱みはこういうことだったのだから。

「これはあなたの悲しみを逃すためのマモノだったのですね。」

悲しみを抱かずただ彼女を救いたい悲観なきアルフレッドからぞわわっと黒い模様は逃げていく。それに驚いたように目をとられ一歩さがった中心地点の少女はすとんとさきほどの誰かさんと同じように尻餅をついた。

「一向に悲しみを認められないあなたを、夢で涙を促した存在。このマモノはとても恐ろしいものなんかじゃなかった。死んだ後も愛しいあなたを守る優しいものだった。そうだったのでしょう?」

あの時エミリアをベッドサイドで眺めていたあの黒い塊がどこにあるのかはわからないが、跪いたアルフレッドはすうっとその黒い沼を優しくなでた。


「ローレンス御夫人。あなただったのですね。」


その瞬間記憶が靄を解いたようにすうっと蘇ってきた。あの時の黒い塊をまとった生き物の記憶が徐々に綺麗になっていく。それは彼女に危害を加えるでもなくただ娘の頰を涙をぬぐうやさしい女性の姿だった。この言葉が鍵にでもなったのか同じようにエミリアも記憶を蘇らせたようだった。

「この黒い模様が現れた時もあなたは不安や恐怖を感じているようには見えなかった。まるで怒るようだったんです。その時は私は度胸のあるお方だと思っていたのですがどうやら思い違いだったのですね。あなたは悲しみを認めない。」

黒いその沼はまるでエミリアを慰めるようにして彼女のまわりでうごめいている。それがより一層そうであると確信を持たせた。エミリアの肩をひっしと手で捕らえて優しさにあふれたこの黒い沼の中心で語りかける。

「世界がどうかは浅学な私にはわかりません。悲しみだってまだ大きくはわかりません。それでもあなたは今“悲しい”。辛い思いをしている。それは誰にだって否定することはできない。それでもあなたが認められないなら私が認めます。だけれど。」

エミリアがアルフレッドから顔をそらし黒い沼をなぞるって母の名前をぼそりと呼ぶ。それを見かねたように肩をつかんでいた手を離してばっと広げて彼女の細い体を包み込んで抱き寄せた。ひゅっと少女が息を吸ったのが聞こえて目を閉じる。

「私はあなたの代わりに泣くことはできない、だからここでただあなたの友人として寄り添う。」



星空の下で一人の少女の生の終わり、一番大きな泣き声が響いた。


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